第1話 ちゃんとしているのに
ちゃんと働いて、
ちゃんと暮らしてきた。
大きな失敗もしていないし、
人生を投げ出したこともない。
それなのに、
「結婚」という二文字だけが、
私の人生から、少しだけ遅れている。
38歳。
婚活に疲れた私は、
もう何が正解なのか分からなくなっていた。
これは、
誰かに選ばれなかった私が、
もう一度、自分の人生を選び直すまでの話。
里紗は、スマートフォンの画面を伏せるようにテーブルに置いた。
カフェの窓際席。昼下がりの光がガラス越しに入り込み、コーヒーの表面に白く反射している。さっきまで眺めていたアプリのメッセージ画面が、まだ目の奥に残っていた。
――また、だめだった。
正確に言えば、「だめだった」と判断されるほどの何かがあったわけではない。
相手の男性は感じがよく、年収も安定していて、メッセージの返信も丁寧だった。写真より少し年上に見えたけれど、それも想定内だ。
ただ、会話が続かなかった。
悪い人ではない。
むしろ「いい人」だった。
だからこそ、二回目のデートの話が自然消滅したことを、誰のせいにもできなかった。
里紗はため息をつきそうになって、代わりにカップを持ち上げた。
コーヒーは少し冷めていて、苦味が舌に残る。
三十八歳。
数字としてはもう何度も見慣れているのに、ふとした瞬間に、その重みだけが実感としてのしかかってくる。三十八という年齢そのものよりも、「三十八まで、こうだった」という事実のほうが、里紗を静かに追い詰めていた。
仕事は安定している。
総務の仕事にも慣れ、後輩から相談されることも増えた。貯金もそれなりにある。一人で暮らしていくことは、たぶんできる。
それなのに、なぜだろう。
どうして、恋愛や結婚の話になると、こんなにも空白が目立つのだろう。
スマートフォンが小さく震えた。
画面に表示された名前を見て、里紗は少しだけ肩の力を抜いた。
「由香」
学生時代からの友人で、同い年。数少ない、今も独身のまま繋がっている存在だ。
『今日どうだった?』
短いメッセージ。
たぶん、分かって聞いている。
里紗は少し迷ってから、『まあまあ』とだけ返した。正直に書こうとすると、言葉が多くなりすぎる気がした。
しばらくして、『分かる』という二文字と、ため息のスタンプが届く。
それだけで、少し救われた気がした。
「まあまあ、って言葉が一番疲れてる時だよね」
由香の声が、頭の中で再生される。
彼女もまた、婚活に疲れている一人だった。
里紗はスマートフォンをバッグにしまい、カフェを出た。
平日の午後。駅前の通りは、人であふれている。スーツ姿の男女、ベビーカーを押す夫婦、学生らしき集団。
視界に入るたび、無意識に「自分はどこに属するんだろう」と考えてしまう。
結婚相談所に入ったのは、三十四の時だった。
「まだ余裕があるうちに」と思った。
実際、カウンセラーにもそう言われた。
条件を整理して、写真を撮り直して、プロフィール文を何度も書き直した。「家庭的」「穏やか」「真面目」――自分を説明する言葉が、だんだん自分から遠ざかっていく感覚があった。
お見合いは何度もした。
仮交際にも進んだ。
それでも、「決め手に欠ける」という理由で、関係は終わった。
自分が選ばれなかったのか、
自分が選ばなかったのか。
その境界が、今ではもう曖昧だ。
帰宅すると、部屋は静まり返っていた。
一LDKの部屋は、無駄がなく整っている。誰かに見せるための部屋ではないけれど、ひとりで暮らすには十分すぎるほどだった。
コートを脱ぎ、ソファに腰を下ろす。
テレビをつけると、バラエティ番組で芸能人夫婦が笑っていた。里紗はすぐに消した。
結婚したいのか、と聞かれると、答えに詰まる。
したいはずだった。
少なくとも、昔は。
二十代の頃は、結婚は自然な未来だと思っていた。仕事も、恋愛も、その先に続くものだと疑わなかった。
でも今は、「なぜ結婚したいのか」と聞かれると、うまく言葉にできない。
一人が寂しいから?
老後が不安だから?
世間体のため?
どれも本当で、どれも決定打ではない。
里紗はキッチンに立ち、簡単な夕食を用意した。
電子レンジの音を聞きながら、ふと思う。
――私は、ちゃんとしてきたはずなのに。
仕事も、生活も、無理はしなかった。
大きな失敗もしなかった。
それなのに、どうしてこんなにも取り残されたような気持ちになるのだろう。
食事を終え、食器を洗い終えた頃、スマートフォンが鳴った。
今度は、知らない番号ではなかった。
仕事関係の連絡だろうと思って出ると、聞き覚えのある、少し低い声がした。
「……早川さん?」
一瞬、時間が止まった気がした。
「土井です。覚えていますか」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが静かに動いた。
忘れたふりをしていた感情が、
思いがけず、現在に割り込んできた。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




