禁足地での邂逅と別離
獣のように風を裂き、隆正は禁足地の斜面を駆けていた。
かつての勘が告げていた――何かが、今、目を覚ましたと。
(間に合え、悠真……ッ)
この森に張り巡らせていた“結界”のひとつが、突如として途切れた。
何重にも結界を重ねた場所――それが破られたのは、初めてのことだった。
隆正の足が、空間を裂くような速さで駆ける。
老いた身とは思えぬ俊敏さ。それは、長年にわたり命を懸けた者にしか宿らない“本能”だった。
そして、見えた。
禁足地の中央――護木の傍に立ち尽くす悠真の姿。
その前には、裂けた空間がぽっかりと開いていた。
黒い風がうねりながら噴き出し、まるでこちら側へと侵食してくるかのように揺らいでいる。
「悠真っ!! そこから離れるんじゃ!!」
怒号が、森の静寂を破った。
悠真が振り向く。瞳が揺れている。疲弊し、血を流し、斧を手に呆然と立ち尽くしていた。
その背後で、黒い渦の様なゲートが呻き声のような風を放つ。
隆正はすぐに状況を察した。
(これは……完全に“開きかけて”おる……)
封印が破られかけている。
しかも中途半端に。一撃で吹き飛ばすのではなく、“斧に宿った何か”が現実そのものをねじ曲げて、空間ごと護木の護符を断ち割っていた。
「いいか悠真、聞け。それには絶対に近づくな……! あれは、“こちら”の理を拒む存在だ!」
言葉を発しながら、隆正は腰の鞘から刀を抜いた。
重く、深く、周囲の空間が波打つ。
ゲートの向こうから、“それ”は確かにこちらを窺っていた。
まだ形を持たない。だが確かに、そこに“存在”している。
敵意でも、好奇心でもない。ただこちら側を“欲している”――そんな圧。
隆正は一歩、前に出る。
悠真を庇うように立ち塞がり、斜め下段に刀を構えた。
黒い渦の様なものから声が聴こえる
「……おや?懐かしい匂いがしますね。」
隆正は少し驚いた顔を見せ
「……うぬっ…よりにもよって、超越体か……」
かすかに呻くように呟きながら、空間を睨みつける。
「かなり数は少ない筈じゃが……マズイのぅ……」
その時、ゲートの奥がぐにゃりと歪んだ。
まるで水面を突き破って何かが現れようとするかのように――
隆正はすぐさま足を踏み込み、空間そのものに斬撃を放った。
「退けぇぇぇいっ!!」
凄まじい気迫と共に刀が振るわれ、ゲートの縁が火花のように弾ける。
その衝撃により、空間の裂け目はわずかに収縮した。
それでも、完全には閉じきっていない。
隆正は後方に飛び退くと刀を構え直し、悠真を守る様に立った。
背中越しに、低く、重く、語りかける。
「……お前に、話さねばならぬことが山ほどある。だがまずは……生き残るのじゃ。今日は、それでよい」
空間の裂け目が脈動する。
再び、禍々しい“あの気配”が滲み出してきた。
「……チッ。やはり完全には閉じぬか……!」
隆正が刀を構え直す。
その眼差しには迷いはない。あるのは、ただ一点を貫く刃の様な殺気。
次の瞬間、“それ”は現れた。
ゆっくりと、黒き霧を纏って現れる影。
人の形をしていながら、人ではない。
その身に纏う霧の様なうっすらと蠢くモヤの様な何かが先程までの異形のモノとは、明らかに一線を画していた。
その男――ヴァイドは、虚ろな笑みを浮かべ、現実に足をつけた。
「……ご無沙汰しております、”センセイ”」
隆正の目が細められる。
刀の切っ先がわずかに下がった。
「……その声っ…….貴様っ… 零か!?」
「零、ですか。。センセイにその名でまた呼ばれる日が来ようとは。…….」
「……今の私は“ヴァイド”――すべてを喰らい尽くす“空虚”の座を王より頂いております」
その声には人間らしい感情が混じっていない。
皮肉でも憎しみでもない。ただ、虚無。空っぽの深淵。
隆正の背後にいる悠真の姿を見て呟く
「このガキは……まさか、いや……?」
ヴァイドの目が、悠真へと向く。
隆正が一歩、前に出た。
「そこを動かぬ事じゃ……寄らば、斬るぞ」
「へぇ……そんなに大事ですか? その子が」
「──俺の孫だ」
その一言に、微かにヴァイドの頬が動く。
「なるほど……あのときの…….あの方が遺した“希望”ですか。」
「ならば、生かしておくわけにはいかない様ですね…。」
空気が軋む。
そして、戦いが始まった。
⸻
刀と闇がぶつかり合う。
隆正の一太刀が空間を裂き、ヴァイドの纏うモヤの様な何かが鋭利な鎌状の闇に変化し風を飲み込む。
一撃一撃が山の重力を歪めるほどの激突だった。
だが、時間が経つごとに、隆正の動きにわずかな遅れが見え始める。
(……身体がついてこぬっ!)
老いた肉体が限界に近づいている。
それでも、悠真の傍から一歩も退かない。
「じ、じいちゃん……!」
駆け寄ろうする悠真に、隆正は怒鳴る。
「動くな! 貴様が動けば隙ができるッ!」
だが、ヴァイドの目が悠真を捕える。
「遅い」
黒き鎌の刃が振るわれた先に、斬撃が飛翔し悠真へと迫った。
その瞬間だった。
隆正の身体が、悠真の前に飛び込む。
――ズバッ
鋭い切断音。赤い飛沫。
「っ……がはっ……!」
隆正の背から血が噴き出す。
そのまま地に膝をつき、息を荒く吐いた。
「じ、じいちゃんっ……!」
「……大丈夫じゃ。まだ終わらぬ、最後の瞬間までな」
苦悶の表情の中で、隆正は微笑んだ。
そして、再びゲートの裂け目が大きく脈打ち始める。
「おやおや……老いられましたね。」
「このままでは“暗渦”が開きますよ……センセイ。」
隆正は刀を突き立てるように地に立ち、最後の力を振り絞るように言葉を発した。
「聞け悠真、最後にこれだけは言っておく」
「……じいちゃん?」
「コレは、お前のせいではない……。何があっても……その瞬間まで……絶対に生への執着を手放すな」
「……え?」
「何だよそれ、じいちゃんっ!」
「訳わかんねぇよ!最後って何だよっ!。」
次の瞬間、隆正は血を吐きながらも、立ち上がった。
「そろそろお別れの時間ですね、センセイ。….」
「大丈夫ですよ、すぐにお孫さんも送って差し上げますので。」
少し息を吐き、真っ直ぐに刃を正面に向け構え直す隆正。
その瞳は静かに綴じられている
しかし次の瞬間、瞳をカッと見開くと隆正の体から湯気の様な赤いモヤと共に先ほど悠真の手に握られていた赤黒い染みのようなものが、より濃く刃を覆っている。
風を切り裂き隆正がヴァイドに向け跳躍する
切り結ぶ刃と鎌、先ほどまで瀕死の状態とは思えぬ剣戟と気迫にヴォイドは少したじろぐ。
「まだ、コレほどとはっ…..!!。」
距離を詰められ隆正の刃を受け流そうとバランスを崩した、その時
「ーー今じゃっ!」
その刹那、隆正は懐から封印の札を取り出しヴァイドの腕を掴み、そのまま――己ごとゲートの奥へと身を投じた。
「じいちゃんっっっ!!」
悠真の叫びが森を裂いた。
ゲートの中で、最後に隆正の声が響く。
「このゲートは、わしが閉じる……! しばらくは……こっちに来られぬようになっ!」
空間が震える。封印の札が炎を上げ、内側からゲートに燃え広がり渦巻く闇をも燃やし尽くし灰に変えていく。
砂が重力に負けて落ちる様にゲートの形そのものが崩れ落ち消滅する。
隆正の姿は、完全に消えた。
そして、空間は沈黙する。
⸻
風が止み、夜の森が、いつもの静けさを取り戻していく。
その中心に、ただ一人、ゲートの消滅と同じく膝から崩れ落ちた少年がいた。
日向悠真――
彼の中で何かが、静かに軋み始めていた。