過去とーその希望
囲炉裏の火が、乾いた薪を小さく爆ぜさせる音を立てる。
赤く揺れる火が、古びた庵の壁に淡い影を映し、静寂の中にだけ時間が流れていた。
日向悠真と神崎月夜。
彼らはイヴリンの前に並んで正座し、緊張の色を帯びた視線を彼女に向けている。
対するイヴリンは、湯呑を静かに置くと、まるで思い出をひとつずつほどくように、言葉を紡ぎ始めた。
「何から話すかのぅ…..」
「……妾にもな、人間を憎まずにはいられぬ時代があった。討魔士に追われ、血まみれで森の中をさまよっていた時期がの」
最初の言葉に、悠真が眉をひそめる。
「それって……いつの話なんだ?」
「おぬしらが生まれる、遥か前よ。……妾がまだ“王庭”の幹部として、暴れ回っていた頃のことじゃ」
イヴリンは少し微笑み、遠い目をする。
「命からがら逃げ延びた妾を匿ったのは、ひとりの人間だった。野武士の様な顔、それでも真っ直ぐな目をした男よ」
彼女の口調が柔らかくなる。
「最初は、疑った。毒を盛られるのではないかとさえ思った。だが……その男は何の見返りも求めず、妾の傷を手当てし、飯を作り、雨風をしのげる屋根を貸してくれた」
イヴリンはふ、と息を吐く。
「妾のことを、“人”として扱ってくれた初めての存在だった。そして……彼には、ひとりの息子がおった。まだ幼い、無邪気な目をした小僧じゃ。悠真、お主の父に良く似た真っ直ぐな瞳を持つ童じゃった。」
月夜が目を見開く。
「……まさか?」
イヴリンは静かに頷く。
「ああ。日向隆景。その子こそ、日向家の祖となる男。妾にとって、最も“家族”に近い存在じゃった」
悠真が息を呑む。
その血が、隆正へ、敏矢へ、そして今の自分に繋がっているのだ。
「最初は、鬱陶しかった。飯の時間に膝の上に乗ってくるし、髪を引っ張るし、やたら懐いての……だが……」
言葉を切ったイヴリンの瞳が、わずかに潤む。
「ある日、あの子が言ったのじゃ。“イヴちゃん、お母さんになってよ”と……な」
囲炉裏の火が揺れた。誰もが言葉を発せず、その想いに耳を澄ませていた。
「やがて、その男も老い、妾と隆景が見守る中で静かに息を引き取った。妾は、そのときようやく気づいたのじゃ……己が、人を……“この家族”を、心から愛しているのだと」
イヴリンはゆっくりと、湯呑を手にした。
「初めて、他者を思って涙を流した。あの時の後悔こそが、妾を“魔徒”という存在から引き戻したのじゃ」
悠真はその想いを受け止めながら、深く息を吐いた。
⸻
そしてイヴリンは、またひとつ思い出の扉を開いた。
「それから妾は日向の血を継ぐ者にとって、導き手の様な存在になったのじゃ。」
「そして時が経ち……ある日、妾の庵に一人の青年が現れた。日向敏矢……あの子の顔を見た瞬間、妾は思わず涙をこぼしてしまった」
「……どうして?」
月夜が問いかける。
「まるで、隆景が時を超えて戻ってきたかのようじゃった。姿も、声も、優しさも。……あやつは、妾にとってもう一度息子を授かったようなものよ」
イヴリンの声が震える。
「妾は……敏矢を、本当に愛しておった。だが……彼奴は優しすぎた。」
彼女の眼差しには、深い慈しみが宿っていた。
「敏矢はの……とても愚直で、正しい者じゃった。仲間を守り、弱きを救い、己の命を惜しまぬ者。……まさに、“日向”の名に相応しい男よ」
「……父さん……」
悠真の胸に熱いものが込み上げた。
「妾は、あの子の死を悔やんでおる。そして……その子であるおぬしを、今こうして前に見ることができた。それだけで……妾の悔いのいくばくかは、救われた気がする」
イヴリンは小さく笑い、月夜へと視線を向ける。
「そして、おぬしもじゃ、神崎の娘よ」
月夜は目を見張る。
「……わたし?」
「そうじゃ。おぬしの父、神崎響士郎もまた……妾にとって、かけがえのない“弟子”だったのじゃから」
囲炉裏の火が、また一つ薪を呑んだ。
イヴリンは、ふと笑みを浮かべたまま、その瞳を遠い過去へと投げる。
「……バカ弟子たちよ。ほんに、手のかかる者たちだった」
その口調は、どこか懐かしさと愛情に満ちていた。
「隆正が、共に稽古をつけてくれと連れてきたのが神崎響士郎、お主の父よ。」
「コイツは見込みがある!いつか俺と並び立つ伝説の討魔士になる!…..と戯言を抜かしておったわ。」
「隆正は武を極めんとする猛牛の如き焔の剣、響士郎は理を貫く氷牙の如き剣。正反対に見えて、どこまでもよく似ておった。誰よりも真っ直ぐで、曲げられぬ意志を持っていた」
彼らが若き日、幾度となく刃を交え、術を競い、時に喧嘩をし、時に酒を酌み交わした日々。
「喧嘩をするたびに妾が止めに入ってな。あやつら、“どちらが弟子として優れているか”なんぞで毎週のように張り合っておった」
月夜がふと微笑む。
「……うちの父が、そんな情熱的だったなんて。ちょっと意外かも」
イヴリンは頷く。
「響士郎はな、口数は少なかったが……誰より仲間を想い、誰より誠実な男だった。妾が“魔徒”であることも、隆正が“暴走”に怯えていたことも、一度たりとも口にしない男だった」
ふいに、表情が翳る。
「そんな響士郎がのぅ、ひどく晩婚じゃったが“結婚する”と言った時じゃ……隆正は、それはもう……涙を流して喜んでのう」
茶を一口呑みイヴリンは続ける
「当初、隆正と響士郎は明確な陣営に属さぬ“中立の立場”を貫いておった。だが、その在り方に惹かれ、人々は自然と彼らのもとへ集まっていったのじゃ。やがてその流れは一派を成し、保守派にとっても無視できぬほどの存在となる。そしていつしか、彼らは望まずとも“改革”の象徴として担ぎ上げられていったのじゃ」
「それから間もなく……まだ子が生まれたばかりの響士郎に、あろうことか無茶な任務が与えられてのぅ」
イヴリンの声がかすかに揺れた。
「……後からその話を聞いた隆正は、怒りを抑えきれずにおったわ。明らかに――討魔省内の派閥争いに、あやつが巻き込まれたのじゃよ」
囲炉裏の炎が、パチ、と音を立てて跳ねる。
「隆正が別任務で不在だったその隙に、“王庭”の幹部との戦が始まり……響士郎は、そこで命を落としたと聞いておる」
イヴリンの瞳が細く伏せられる。
そして、少し間をおいて語った。
「任務へ向かう前夜、響士郎は妾のもとを訪れた。……忘れもしない。静かな目で、こう言ったのじゃ」
『……師匠。俺はどうなっても構いません。けれど、アイツを――隆正を、お願いします』
思い出の中の響士郎の姿が、そこにあった。
凛と立ち、唇を噛みながら、それでも笑っていたあの男の姿が。
イヴリンは、肩を落として小さく息を吐いた。
「……アイツは、な……理知的に見えてほんに不器用で、考えが浅くて、すぐ一人で背負い込む癖があった。じゃが――」
「妾が知る限り、あれほど“友を想う男”はおらなんだよ」
炎の揺らぎが、イヴリンの瞳の奥で、まるで今もあの男の言葉を照らしているかのように揺れていた。
月夜の肩が、微かに震えた。
「……それじゃ、父が死んだ時、隆正様は……」
「何も言わず、墓の前に一日中座っていた。話しかけても返事をせず、ただ……空を見ていた。妾には、彼奴の心が折れる音が聞こえた気がした」
それから隆正は、響士郎の娘――月夜を、我が子のように育てようとした。
厳しさの裏にあった、深い愛と誇り。それは、月夜にも確かに伝わっていた。
月夜はそっと目元を拭った。
「……知らなかった。父が……こんなにも、愛されてたなんて……」
イヴリンは、そっと手を伸ばし、月夜の頭に触れた。
「そうじゃとも。おぬしらは……彼らの“希望”なのじゃから」
⸻
「さてと…..」
その言葉と同時に――
――“ドン”という重い音が、霧の外から響いた。
庵の外に満ちる殺気。
霊子の波動が、荒々しく“死”を告げる。
「来たか……“灰犬”が。かつて敏矢達を葬った、憎き連中よ….しかし」
イヴリンは、薄く微笑んだ。
「ここには2つの希望が輝いておる。」
悠真は、拳を握り立ち上がる。
「父さんのために。月夜の父さんのために。……そして、じいちゃんが本当に望んだ未来のために」
イヴリンは彼を見つめ、そっと口元を綻ばせる。
「おぬし、少しは“日向”らしくなったな……さあ、行け。“未来”を、その手で掴み取れ」
扉が開かれ、濃霧の向こうへと一歩を踏み出す悠真たち。
その瞳には、ただ強い決意の光が宿っていた。
――過去を継ぎ、未来を変える。そのために、戦う。
夜の森に、咆哮が響く。




