その夜ー隆正視点
夕暮れが迫る頃、山の静寂に蝉の声が一層鋭く響いていた。
隆正は、縁側に腰を下ろしたまま空を仰いでいた。
西の空が茜に染まり始めると、遠く山裾に村の屋根が見えた。煙が細く立ちのぼり、日常の風景が確かにそこにあった。
「そろそろ、出るか……」
呟くように立ち上がり、壁に立て掛けてあった一振りの刀を手に取る。
鞘は深く煤け、柄は使い古されているが、手入れは行き届いていた。装飾も紋もない。だが、その無骨さがかえって、この刃が飾りではないことを物語っていた。
腰に佩くと、身体の重心が自然と下がる。
老いを意識し始めて久しいが、この刀を持つと、背中に一本芯が戻るような感覚があった。
「何事もなければ、良いがのぅ……」
――鳥居を越えた、その瞬間だった。
隆正の歩みが止まる。わずかに眉が動いた。
風が……違う。
正面から吹いていたはずの風が、いつの間にか横から、いや後ろから流れていた。空気がよじれている。
しかも――温度がない。山の風は冷たいものだが、これは“温度”すら感じさせない、空虚な流れだった。
「……やはり、これは!」
呼吸を整え、柄に指を添える。抜くにはまだ早いが、気配は確かにある。
生き物の気配が消えた。虫の声が止み、鳥の羽ばたきもない。
あるのは、どこか遠くで湿った何かが地を這うような音――そして、鉄錆のような臭い。
隆正は、一気に駆け出した。
その速さは、老齢の人間のものではなかった。
踏み出した瞬間、足元の草が一斉に吹き飛び、枝葉が音もなく裂ける。風が追いつけない。
まるで空気の層を滑るように、村への山道を一直線に駆け下りていく。
そして、村の入り口が視界に入った瞬間――その足が止まった。
「……遅かったか」
村は、既にその形を失っていた。
屋根は砕け、壁は裂け、土は爪で抉られたように荒れていた。
何より――血の臭いがない。
死体すらない。ただ、風だけが吹き抜ける。
まるでここにいたすべてが“喰われた”かのような、不自然な沈黙。
隆正は刀の柄にそっと指をかけた。
そして、それは現れた。
蔵の陰から、のろのろと這い出してきた黒い影。
四肢が人型に近い何か。だが、その関節は逆に折れ曲がり、目は空洞、口は裂け、喉奥で呻くような音を漏らしている。
「……来るな」
その声に反応するように、他の瓦礫の陰からも、同じような異形が続々と姿を現した。
一体、二体……五、六、七。
どれもかつては人だった“形”をわずかに残している。だが、それはもう人ではない。
その一体が跳ねた。咆哮と共に、隆正に向かって飛びかかる。
次の瞬間――
ヒュッ。
風を裂く音と共に、隆正の身体がわずかに傾く。
見えたのは、既に抜かれた刀が鞘に戻る直前の姿だった。
異形の胴体が、なにかに断たれたように裂ける。
黒い煙が噴き出し、断末魔すら上げずに崩れ落ちた。
「やれやれ、老人は労わらんか……」
次々と、異形たちが距離を詰めてくる。
隆正は呼吸を整えた。目を閉じる。そして、再び刀を抜く。
一閃。
風が叫ぶ音がした
その瞬間世界が、一瞬だけ“静寂”に包まれた。
異形らは霧のように崩れ、五体すべてが消え失せた。
だが、その静けさの先に――さらなる異変があった。
山の奥、禁足地の方角。
そこから、何かが脈打つような気配が立ち上っていた。
「……やはり、封印の境が揺らいでおる」
風が逆巻く。空間が軋む音すらする。
隆正の脳裏に浮かんだのは、孫の顔。
「悠真っ――まさか、あの場所へ――」
言葉を途中で切り、再び地を蹴った。
風を断ち、木々の間を裂いて、老いた影が闇の先へと駆けていく。
その眼には、覚悟と――止めねばならぬ過去の業火が宿っていた。