夕暮れの境界
護木村──深い山々に囲まれ周りには海が広がる小さな離島にある集落。
その名の通り、古くから「災いから人々護る木」があると語り継がれる村があり、外の世界とは隔絶されたような時間が流れていた。
日向悠真は、祖父・隆正と二人、この村で暮らしていた。
両親は漁師であったそうだが記憶にはない、なぜならば幼い頃に不慮の事故で亡くなったと聞かされており物心がついた時には祖父と2人で生活をしていた為幼い頃の記憶はあいまいであったが、なぜか胸の奥にはいつも釈然としない感情が燻っていた。
夕焼けが山の稜線を染めていた。
重い木を担ぎ、斧を片手に、日向悠真はいつもの山道を歩いていた。額から流れる汗を拭いながら、斜面を見上げる。
「……もう一本。今日こそ四本目、いけるはず」
誰に見せるでもない決意を胸に、彼は斧を握り直した。
手伝いというには重すぎる労働。十六歳の身にはきついが、それでもやらねばならない。祖父の隆正と、二人きりの生活。山の暮らしは、誰かに頼れば成り立つものではなかった。
乾いた音を立て、斧が幹に食い込む。
何度も、何度も打ち込む。
握力が奪われ、指がしびれても、止まらない。
斧を振るうたび、胸の中の淀みが少しずつ晴れていくようだった。
(……何で、親父も母さんも、何も言わずに死んじまったんだよ)
山奥のこの村で、ぽつんと取り残されたままの日々。
祖父は何かを知っているようで、決して語らない。
「昔のことをほじくるな」とだけ、低く言い残すばかりだった。
斧を振るうたび、悔しさと寂しさが刃に乗った。
「ほう。四本目、か」
木の上から声がした。
悠真が顔を上げると、いつの間にか祖父の隆正が杉の枝に腰を下ろしていた。
「……爺ちゃん、またいつの間に……ってか、見てんなら手伝えよな」
「お前がどこまでやれるか、見てただけだ」
「……あっそ」
隆正は、ふっと目を細める。
「だがまあ、今日はこれで上出来だ。体は正直だな、無理すりゃ折れる」
「はいはい、ありがとさん……」
悠真がぼそりと呟いたそのとき。
木々の間を、妙な風がすり抜けた。
涼しさではない。むしろ、ぬるりと纏わりつくような──気味の悪い風だった。
「……ん?」
悠真が首を傾げると、隆正が立ち上がっていた。
隆正の目が、一瞬だけ山の奥を見据える。獣ではない、もっと“悪い何か”を嗅ぎつけたような鋭さだった──。
「風向きが変わったな。……悠真、荷物まとめて戻るぞ」
「は? まだ日暮れまで時間あるって」
「ダメだ。今日は──嫌な予感がする」
嫌な予感。
爺ちゃんがそんな言葉を使うのは、めったにない。
「なあ、何かあるのか? 風がどうとか、前も──」
「いいから、従え」
そういえば最近、村の奥にある“禁足地”で、奇妙な現象が続き始めたと村人達が噂話をしていた。
動物の変死体。不気味な鳴き声。誰もいないはずの山中で感じる気配。
家に帰るなり
「やはり……山が、ざわついてるな」
隆正は、ぽつりとそう呟き
夕食後、村の会合があると言い出掛けてしまった。
その夜悠真は眠れず、布団の中でまどろんでいたが、窓の外で、聞き覚えのある音がした。
木が裂けるような、鋭い“軋み”。
それは、昼間の作業中に何度も聞いていた音だった──だが、どこか異様な気配が混じっていた。
悠真は布団を蹴って起き上がり、壁にかけていた作業用の斧を手に取った。
祖父の顔がふと頭をよぎる。
気づけば家を飛び出していた。
斧を手に、風の吹く山道を駆けた。
冷たい夜風の中、木々のざわめきの奥──
まるで導かれるように足が動いた。向かう先は、村でも近づいてはならぬとされている禁足地。
そして、その奥の開けた場所で、“それ”と出会った。
黒い影だった。
二足で立つ人のような輪郭をしていたが、異様に細長い手足、粘つくように蠢く肌、何より、そこにあるべき「顔」が、なかった。
「なんだよ、あれ……」
影がこちらに気づいた。
瞬間、空気が裂けるような音と共に飛びかかってくる。
悠真は反射的に身をかわし、すぐさま斧を振り下ろす。しかし、その一撃は空を切った。
(早い――!)
斧を振り直す隙も与えず、影は再び距離を詰めてくる。
咄嗟に腕で防ごうとしたが、爪のようなもので裂かれ、袖が破けた。血が滲む。
痛みよりも、恐怖が先に立った。
「クソッ……!」
後退しながら振り返ると、木の根が張り出している地形。足元は不安定。逃げ場はない。
斧を構え直す。視線の端で、影が舌のようなものを垂らして笑ったように見えた。
「……負けてたまるかよ」
震える脚を踏ん張り、肩越しに祖父の言葉が蘇る。
──「どんな時も、最後まで諦めるな。死ぬその瞬間までも足掻け」
呼吸を整え、腰を落とす。
影が再び飛ぶ。こちらも動いた。
踏み込み、刃の部分を正面から突き出すように、斧を叩きつける!
衝撃。重い感触。
斧の刃が、異形の胴をかすめる、しかし外れ地面にめり込むがかまわない。
すかさず追撃。斧を横薙ぎに振る。
異形はそれを避けきれず、刃が腕を裂いた。
叫びとも呻きともつかぬ声を上げ、影が距離を取る。
悠真の呼吸は荒い。腕も足も震えていた。
(ヤバい……。まともにやっても勝てる相手じゃない……)
その時だった。
風が、止まった。
周囲の木々がざわめき、空気が微かに揺らいだ。
次の瞬間、影が再び跳びかかってくる――
(ヤバっ…..当たる!)
だが、その瞬間に軌道が、わずかに逸れた。
(……え?)
狙っていたのは悠真の頭部だったはずが、急所を外れ、肩口をかすめる形になった。
一瞬、目の前の空間に“ひずみ”のようなものが見えた気がした。
熱気と冷気が交錯するような、微細なゆらぎ。
斧を振るいながら後退する
「何だ……今の……」
風の流れが変わったわけではない。気温も変化していない。
なのに、何かが、確かに自分を守った。いや、“歪ませた”。
影は不安げに動きを止め、ぐるりと周囲を見渡す。
悠真の心臓は高鳴り続けていた。
それが、音もなく一歩、踏み出した。
次の瞬間には──悠真の目の前にいた。
「ッ……!」
反応できない。
何かに叩きつけられたように吹き飛ばされ、背中から斜面に転がる。
肺の空気が抜け、視界がぐにゃりと歪んだ。
「がはっ……く、そ……!」
何が起きたのか、うまく理解できない。
ただ、“それ”は確かに、殺意を持って動いていた。
本能が告げている──これは生きて帰れる相手じゃないと。
(……やめろ……こんなわけのわからないもんに……殺されてたまるかよ……!)
立ち上がろうとした足が、思うように動かない。
でも──目の端に見えた。さっき倒れたときに木の傍に落ちていた、自分の斧。
「……っ!」
這うようにして手を伸ばす。
後ろから、何かが迫る気配。
殺気。熱。空間が軋む音。
今、振り向けば──死ぬ。
だから、振り返らずに斧を掴み、振り上げた。
「うおおおあああああっ!!」
叫びながら、全力で振り抜いた。
音がした。金属が何かを裂く感触。
だがそれは、肉でも骨でもない。
“空間”そのものを割ったような、奇妙な手応えだった。
“それ”は、裂けるように消えた。
まるで、そこに存在していたことすら幻だったかのように──煙のように、残滓だけを残して。
「……ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
息が切れる。喉が焼ける。
震える手で斧を支えながら、悠真は膝をついた。
自分でも、どうやって倒したのか分からない。
でも、確かに──倒した。
死ななかった。
(俺……今、何を……)
斧を見下ろす。
赤黒い染みのようなものが柄に残っていたが、すぐに消えた。
それが“血”だったのか、“何か”だったのかも、分からない。
ただ、胸の奥で、何かが微かに鼓動している。
火種のように。
まだ煙すら上がっていない、微かな“始まり”の感覚。
──山の木々が、再び風に揺れた。
世界が、音を取り戻す。
鳥が鳴き、木の葉がささやく。
まるで、たった今までの出来事が嘘だったかのように、日常が戻ってきた。
「……はは。マジかよ……なんだよ、これ……」
へたり込んだまま、悠真は夜空を見上げた。
そして彼はまだ、知らなかった。
その戦いが、“すべての始まり”だったということを──。