第6撃:静かな朝と、拳の舞
──まるで夢の中にいるようだった。
水無瀬晶は、久しぶりに“ぐっすり”と眠れた。
こんな状況で、そんなはずがないと思っていたのに。
異世界に召喚され、理解も納得もないまま追放された夜。
死ぬかもしれない。何も持たず、知らない世界で。
それでも、晶の眠りは深く、静かだった。
(……お父さん、お母さん、おばあちゃん……おじいちゃん……)
かつて、一緒に囲んだ夕食の光景。笑い声。
遠くなったはずの思い出が、そっと胸を満たしていた。
(……一真さんがいてくれたから、かな……)
そんな風に思いながら、晶はゆっくりと目を覚ました。
そして、隣に寝ていたはずの一真の姿が見えないことに気づく。
「……え?」
冷たい不安が、腹の底から這い上がる。
「うそ……一真さん……?ボク、もしかして……捨てられた……?」
自分は何も持っていない。
何のスキルもなく、クラスでも居場所のなかった存在だ。
……一真だって、足手まといを捨てた方が、生き延びやすいはずだ。
胸の奥が軋む。目の端が熱くなり、涙が零れそうになる。
「おーい!起きたか、晶。おはよう!」
明るい声が、拠点の外から飛んできた。
驚いて振り返ると、笑顔の一真が、朝露を踏んで戻ってくる。
晶はホッと息をついて、慌てて涙を袖で拭った。
その声に導かれるように拠点の外へ出ると、一真はすでに身体を動かしていた。
大地を踏みしめ、流れるような動作で拳を放つ。
八極拳、心意六合拳、太極拳、形意拳──
力強く、しなやかで、まるで舞のように美しい。
「……すごい……」
言葉がこぼれる。
晶には武術の知識などなかったが、それでも直感で分かった。
一真の動きには、無駄がなく、力があり、それでいて柔らかい。
そして最後に、一真は静かに歩き始めた。
ゆるやかに、円を描くように。
それは八卦掌の基本動作『走圏』──
やがて、掌を前に突き出すように放たれたのは『穿掌』。
攻防一体のこの動作にも、一分の隙がなかった。
一真は知っている。基本の、基礎の重要性を。日々の積み重ねの重要性を。
基礎を固めなければ、その上に何を築こうと容易く瓦解する。
いや、上に築き上げる程に、それは脆く、危うくなる。
(……こんな状況でも、鍛錬を欠かさないんだ……)
晶はただ見惚れていた。
「お、晶。もうちょっと待ってくれ。あと一息だ」
一真が軽く手を振って笑う。
晶はドキリとして、頬がじわりと赤くなる。
(……かっこいい……)
そんな感情を、晶自身が自覚して、慌てて頭を振った。
「ふぅ……終わった!改めておはよう、晶」
訓練を終えた一真が、満足そうに息を吐いて振り返る。
その顔は晴れやかで、どこか子どものような無邪気さすらあった。
「は、はいっ……おはようございます、一真さん」
蚊の鳴くような声で答える晶。
「さて、朝飯の準備だな。昨日は寝床優先で諦めたが……今日はちゃんと調達すっか」
二人は昨日見つけた川へと足を運ぶ。
一真がふっと呼吸を変えた。
──仙術・封神拳。
一真の五感と身体能力が、常人を遥かに超えて強化される。
それと同時に、一真の存在感が希薄になった。
まるで、一真自身が水の一部の様に。
魚が警戒せずに、一真の近くへ寄ってくる。
「よっ、ほっ、そらっと!」
掛け声と同時に、水面を手で弾くような一真の動き。
数瞬後、川岸には魚が十匹以上、跳ねるように打ち上がっていた。
「ま、これくらいなら消費エネルギーより摂取エネルギーの方が多いだろ」
涼しい顔で笑う一真。
晶は呆然として、それでも心の中で思った。
(……クマさん……?)
その後、二人は果物もいくつか採取し、拠点へ戻る。
途中、一真は何かを探すように道端でしゃがみ込み、いくつかの石を拾っていた。
拠点に戻るや否や、一真は素早く火を起こし、煮沸の準備を始める。
川で汲んだ水を、木の皮で作った器に注ぎ、焚火にかける。
その間にも、先ほど拾った石を吟味する。
「うーん……これだな」
選び取ったのは、黒く光沢のある、ガラスのような石。
「地球なら黒曜石ってところか。でも火山がないから成分は違うだろうな」
そう言いながら、一真はその石を手に取り、再び封神拳を使う。
気の流れが、手先に集中する。
刹那、石に光の線が走るように見えた。
──シュッ。
まるで紙のように、石が“切れた”。
晶は思わず声を漏らす。
「……え?」
次の瞬間には、一真の手元でその石が加工されていた。
見事なナイフへと形を変えていたのだ。
「よし、悪くねぇな。これで魚や動物を捌く時に、封神拳を使う必要はない」
「……一真さん……もう、なんでもありなんですね……」
晶は半ば呆れ、半ば感嘆していた。
そして、魚をさばこうとする一真に、晶が一歩踏み出す。
「……ボクに、やらせてください」
「ん? いや、いいよ。俺が──」
「……ボク、何もしていない……せめて、これくらい手伝わせてください」
一真はしばし考えた後、ふっと笑った。
「……できるか?」
晶は、ぱっと笑顔を咲かせて、
「はいっ!任せてください!」
石のナイフを受け取った晶の手つきは、想像以上に慣れていた。
迷いなく、手際よく、魚を処理していく。
「ほう、なかなかの腕前だな。誰かに習ったのか?」
一真の問いに、晶は少しだけ寂しげに、それでも嬉しそうに答えた。
「はい。お母さんとおばあちゃんに……教えてもらったんです。昔」
その言葉に、一真の胸がきゅっと締めつけられる。
失われた家族。
それでも晶は、その“ぬくもり”を、今も手の中に抱えている。
「……大したもんだ。これからも頼りにしてるぜ」
ぽん、と頭を撫でると、晶は照れたように笑い、
「えへへ……ちょっとしたものですよ?」
そう、昨日一真が言った言葉を、そのまま真似た。
その姿に、一真も思わず吹き出した。
──こうして、異世界での二人の生活は、少しずつだが、確かに前へと進み始めていた。




