第51撃:森影に潜む牙
二人は森から放たれる重苦しい重圧を感じながらも、覚悟を決めて歩き出した。
息をするたびに胸が締めつけられるようで、紫音は額に冷や汗を浮かべながら、隣を歩く柚葉へと声を絞り出す。
「柚葉……ここ……ダメだ……嫌な感じがする……」
森に入ってまださほど時間は経っていないはずなのに、紫音の顔色はすでに悪い。
柚葉もまた、額に汗をにじませ、こわばった表情で答えた。
「うん……ここ、危ないよ……うまく言えないけど、多分、人が長居しちゃいけない場所なんだと思う……」
その言葉を聞いて、紫音は歯を食いしばりながら、かすれ声を漏らす。
「本当に……本当にこんな場所に、晶と、あのおじさん……いるのか……?」
森に入る前まで、二人は「おじさんが危険に陥っているなんて想像できない」と口にしていた。
だが、森に漂う得体の知れない圧迫感は、確実に二人の認識を侵食し、楽観を許さなかった。
喉は渇き、腹は空く。だが、それを訴える身体の声に耳を傾ける余裕などない。
せめてもの救いは、日本のように湿度が高くないことだろうか。それだけでも体力の消耗が幾分か違う。
だが、警戒を緩めてはならない――その確信だけが、二人の足を前へと動かしていた。
慎重さゆえに進む速度は遅い。そんな中――
『ガサリ』
唐突に草木が揺れる音が響いた。二人は反射的に音のした方へ振り向く。……何もいない。
柚葉が不安げに小さく呟いた。
「なに……? 風かなにか……?」
だが紫音は即座に首を振り、低い声で言う。
「……いや、いる。……柚葉、警戒を解くな」
そう言うや否や、紫音は鞘から剣を抜き放ち、正眼に構えた。
柚葉もその気迫に合わせて、魔法の詠唱を開始する。
短い静寂ののち、再び――
『ガサリ!』
今度は先ほどよりも大きく、はっきりと。
そして、木々の間から、それは飛び出してきた。
それは猪に似ていた。しかし、鉤爪のような前足、異様に伸びた牙、そして額から突き出す禍々しい角。
何より、その身から溢れる獰猛な威圧感は、地球の猪などとは決定的に異質だった。
紫音と柚葉は瞬時に悟る。――これは、モンスターだ。
「くるぞッ!」
紫音の叫びと同時に、猪型の怪物は地を蹴った。
速い。想像を遥かに上回る速度。魔法タイプの柚葉の反応が一瞬遅れる。
「マズい!」
紫音は叫び、咄嗟に柚葉を抱きかかえて横へ飛んだ。
直後、怪物は太い樹木へと激突し――『メリメリ!』と木をへし折る。
「なっ……!?」
その破壊力に、紫音の口から驚愕の声が漏れる。
体勢を立て直すより早く、柚葉が準備していた魔法を放つ。
「――エアブレード!」
圧縮された空気が刃となって怪物を襲う。だが――
『バシュッ!』
音を立てて霧散した。皮膚には傷一つ付いていない。
「うそ……無傷!?」
柚葉の声が震える。
怪物は構わず再び突進。紫音は半身をずらして剣を横薙ぎに走らせた。
――ギィン!
「ピギィィィィ!!」そのような悲鳴を猪が上げる。
手応えはあった。怪物の体から血が飛び散る。柚葉が歓喜の声をあげた。
「やった!」
だが紫音は顔を険しくしたまま、唸る。
「……ダメだ。薄皮一枚……浅い……硬すぎる!」
(最初に出会うモンスターがこれなんて……運がない……!)
柚葉は心の中で悪態をつきつつ、次の詠唱に入る。
なにも知らぬ二人の前に立ちはだかる怪物――その名は〈バロックボア〉。
特殊能力こそ持たぬが、かなりの硬さと凶暴さを誇る、この森では“弱い部類”の魔物である。
(相手の突進を利用すれば斬り込める……柚葉の支援があれば……!)
紫音は判断し、叫ぶ。
「柚葉! オレに強化を!」
「わかった!」
柚葉は攻撃呪文を補助に切り替え、詠唱を終える。
「フォルディス・アンプラ!」
紫音の身体に筋力強化の魔法がかかる。さらに柚葉は次の詠唱へ。
怪物の眼に宿る怒りが膨れ上がる。突進の構え――。
「ブレイヴフォース!」
紫音の剣が紫色の魔力に覆われ、攻撃力が底上げされる。
「よし! これならいける! 来い、猪の化け物!」
紫音の挑発に呼応するように、バロックボアが吼え、突進した。
紫音は再び半身をかわし、渾身の斬撃を放とうとした――が。
怪物は鉤爪を大地に食い込ませ、刃が届かぬ寸前で急停止。
「なっ……!? しまっ――」
紫音の隙を突き、すかさず突進。
「――ッ!」
無理やり身をひねるも間に合わず、不自然な体勢のまま横腹を打ち据えられる。
『ボキボキッ!』
骨の折れる嫌な音が響き、紫音の身体は宙に弾き飛ばされた。
「紫音――!!!」
柚葉の悲鳴が森に木霊する。
次の瞬間、紫音の身体は無惨に地へ叩きつけられた。




