第3撃:拳は語る、敵は溶ける
草薙一真は、空を見上げて息を吐いた。
水筒はもう半分以下、干し肉はとっくに消えた。毛布は荷物の底でぺしゃんこに潰れている。
昼の太陽が傾き始め、風も冷たくなってきた。夜までに食料と水、そして寝床を確保しなければならない。
「さてと、本格的に何とかしないとな。食料、水、寝床……落ち着いて暖が取れる場所が必要だ」
周囲を見回しても、広がるのは変わり映えのない平原。ぺらぺらの草と、小さな岩。見飽きた風景。
そのとき――
「一真さん、あれ……向こうに森、ありませんか?」
隣を歩いていた晶が、遠くを指さした。
その先には、地平線の手前に木々の影。確かに、灰緑の濃淡が広がっている。
「おお、確かに森だ。ずっと同じ景色だったから飽きてたところだ」
「森なら……水や果物もあるかもしれません。危険な動物とかもいそうですけど……」
「まぁな。だが、虎穴に入らずんばってやつだ」
一真は軽く笑って、腰を伸ばした。
「よし、あの森に行ってみるか。ヤバそうならすぐ引き返せばいい」
「はいっ!」
晶が元気よく返事をした、次の瞬間――。
「ぐぅぅ~~……」
腹の虫が盛大に鳴いた。
「うわっ……」
晶は耳まで真っ赤になって、恥ずかしそうにうつむく。
「ははっ、腹減ったよな。俺もだ。じゃあ、さっさと行ってみようぜ」
笑い飛ばすように言って、一真は森へと歩き出した。
**
森までは小一時間ほど。近いようで、歩くとそこそこ距離があった。
ようやく木々の根元が見えはじめたころ、森から流れてくる空気が肌に触れる。
――重たい。
湿気とも違う、じっとりとした圧。静寂すぎる空気。鳥の声も、虫の羽音も、何も聞こえない。
晶が小さく肩をすくめた。
「……少し、不気味ですね」
「どうする?怖いなら引き返してもいいぞ」
「大丈夫です……。早くご飯、見つけないと」
その言葉に、一真は思わず笑った。
「いい心がけだ」
森の入り口は意外と開けていたが、少し進むと次第に薄暗くなってきた。木の幹は細いが数が多く、蔦や低木も道を塞ぐように伸びている。
そして――。
「……ん?」
ぬるり。
地面を這うように現れたそれは、まるで液体に近い、半透明の塊だった。
青白く、光を通す身体。目も鼻も口もない。中心にだけ、赤い宝石のような石――核のようなものが浮いている。
晶がぽつりと呟いた。
「……スライム?」
「スライム、だな」
一真も苦笑する。
「まさか本当にいるとは。定番すぎて逆に笑うな」
見覚えがあるどころではない。日本のファンタジー文化に触れた者なら誰もが知っている、あの“雑魚モンスター”。
だが――現実のスライムは、可愛げもなければ愛嬌もない。
じわ、じわ、とにじり寄るそれから、確かな“敵意”を感じる。
「こいつ……食えねえよな?」
「無理だと思います、多分……」
「ま、だよな」
スライムはそのまま一真たちに向かって滑るように近づいてくる。どうやら、放置はできなさそうだ。
「ふぅ……やるか。晶、下がってろ」
「はいっ! 気を付けてください、一真さん!」
一真が構えを取る。
――これが、異世界での初戦。
「よし。じゃ、ファーストバトルってやつだ。軽くやってみっか」
右手の掌で、素早く打ち込む。
「フッ!」
空気を裂く鋭い音。が、スライムの身体はぷよんと揺れただけ。
「効いてねえな。じゃ、これだ」
体を捻り、下段からの回し蹴り。打点を外さず、柔らかな身体を叩く。
続けざまに足を軸に回転し、掌底を叩き込む。
――それはまるで舞のような、流麗な連撃だった。
晶は見惚れていた。武術を知らない自分にもわかる。あれは、技の結晶だ。
「一真さん……すごい……」
しかし、スライムには決定打になっていない。
次の瞬間、スライムの身体が一気に伸びた。
飛び出した粘液の触手が、一真へと襲いかかる。
一真はそれを軽く躱したが――
「……っ!」
その触手が命中した木が、へし折れた。
晶は、全身が凍りついたように動けなくなった。
(あれ……ゲームのスライムじゃない……)
可愛げなんか、まるでない。
そこにいるのは、間違いなく“人を殺せる魔物”だ。
「……こわい……一真さん……」
怯える晶の気配を背中で感じながら、一真は静かに言った。
「大丈夫だ。安心しろ、晶。すぐに――終わる」
その目が、変わった。
落ち着いていて、深く、研ぎ澄まされている。
「核が弱点ってのは……お約束だよな。なら、そこを狙う」
腰を落とす。足で地を掴み、臍の下――丹田に力を込める。
大地の気を取り込み、肺で整え、拳に通す。
「形意五行――劈拳!」
空気が爆ぜた。
それは、陰陽五行における「金」を象徴する一撃。鋭く、貫く、破壊の拳。
打ち下ろされた拳がスライムを貫き、中心の核を砕いた。
ドゥンッ、という鈍い衝撃とともに、スライムの身体が崩れ落ちる。
透明な液体が地面に染み込み、溶けていく。
「……ふぅ。ま、こんなもんか」
何事もなかったかのように呟いた一真のもとへ、晶が駆け寄る。
「一真さん、すごい! 本当に素手でモンスターを……!」
「ちょっとしたもんさ」
照れくさそうに頭を掻きながら笑う。
ふと、晶の視線が地面に落ちた。
崩れたスライムの核のそばに、光る欠片が混じっていた。
「……これ、なんだろう?」
それは赤く煌めく、小さな結晶。
「……魔石、かな?」
「魔石?」
晶も詳しいことは知らない。そもそも、教えられる前に放り出されたのだ。
「毒じゃなさそうだし、とりあえず……とっておこうか」
「あ、はい」
一真はその赤い結晶――魔石を拾い上げ、ポケットにしまい込んだ。
そして、もう一度空を見上げた。
日は、まだ完全に沈んではいない。
「さーて。晩メシ、探しにいくか」
異世界での生存、そして戦い。
拳があれば、道は切り拓ける――。