卵焼きが甘かった
翌日の昼、ゴルザンはまた《まるまる亭》の前に立っていた。
足が勝手に向かった、などというつもりはない。
ただ、支部に戻っても、誰かと顔を合わせるわけではない。
ならば、どこで飯を食おうが同じだ。
そう、自分に言い聞かせながら、のれんをくぐった。
「やっぱり来たね。顔見たときから、今日も来そうな気がしてたよ」
昨日と同じ場所、同じ女将、同じ声。
ゴルザンは黙ってカウンターの端に腰を下ろした。
「はい、おまかせ定食。今日の小鉢は、切り干し大根とひじき。卵焼きは甘めにしといたから」
勝手に出されたそれを見て、少しだけ眉をひそめる。だが文句は言わず、箸を取った。
ひと口、卵焼きを口に運ぶ。
「……甘いな」
「甘いよ。嫌い?」
「……いや。……こんな味だったか、と思っただけだ」
ふと、頭の片隅に浮かんだ記憶がある。
(──たまには“昔の味”ってやつを思い出すのも悪くねぇな)
晴れた帰り道。手にした果物の甘さ。
ただのやりとりが、今も胸のどこかに残っていた。
あの時のように、何でもない会話と、何でもない飯。
それが今、この一皿に重なっていた。
「働いてる人の顔、見てから判断しな。味の理由は、そこに出るんだから」
意味がわかるような、わからないような言葉だった。
ゴルザンは黙々と箸を進めた。
卵焼き、ひじき、味噌汁。どれも家庭的で、凝った味ではない。
だが、それが逆に落ち着いた。
味覚がどうこうではない。
ただ、久しく口にしていなかった“ちゃんとした飯”だった。
「この辺じゃ、挨拶しない奴より、黙って卵焼き残す方が嫌われるよ」
「……残さない」
「うん、それでいい」
会話はそれで終わった。
だが、奇妙な充足感が残った。
支部に戻ったその日の夕方。
ゴルザンは鏡の前で、伸びかけの髭に手をやった。
「……少しだけ、整えるか」
それは、誰に言うでもなく、自分自身へのつぶやきだった。