八月三日 「あの灯台はね・・・・・・」
昨晩、僕は珍しく飲めないビールを飲み、変な酔い方をしてそのまま台所で寝潰れてしまった。
次の土日は、故郷で教員採用試験の一次試験がある。僕はそのために明日、一旦この茨城を離れて沖縄に帰る。試験だけのために帰るのもあれなので、しばらく故郷でゆっくりしてから戻ってくることにしたのだ。帰ってくるのは今月末の予定。
だが、どうしても頭から彼女のことが離れない。いきなり僕が半月以上会わなくなったら、いくらそんな関係ではないにせよ、彼女は心配しないだろうか。
やはり、しばらくここを離れることを告げてから、故郷に戻ることにしたい。僕はそう考えていた。
スクーターの燃料を満タンにし、僕はあの漁港へ行ってみた。
まだお昼過ぎの早い時間だから、彼女がいるとは思わない。理由はわからないが、彼女はいつも会うあの時間の海が心に残っているから、いつも決まった時間にいるのだと言っていた。
今日は夕方、バイトが入っている。伝えられるとしたら、それまでの時間のどこかでしかない。
「・・・・・・あれっ?」
防波堤の途中に、人影がある。漁師の江里口さんではない。明らかにそれは、女性だ。
僕は漁港の駐車場の隅にスクーターを停め、防波堤の上を走った。自然と、口元が緩んでいる気がする。頬が赤らんでいる気がする。いつからか、彼女に会えると思った時はそんな風になっていたのだ。
だが、そこにいたのは、彼女ではなかった。凜とした雰囲気の、見た目五十代ほどの女性だ。
その女性は、防波堤を駆ける僕の足音に気付いたのか、振り返った。僕は何もなかったかのように足の速度を落とし、飄々とした顔をして口笛を吹きながら、防波堤の先端に向かって歩いた。
波の音がする。
潮の匂いもする。
風の音もする。
ウミネコの声も聞こえる。
いつも夕暮れ前に見ている海もある。
昼の陽射しが照り返し、海面が煌めいている。
いつもと変わらぬ、穏やかな漁港の様子。それらを五感で感じながら歩いていたが、僕は、途中でぴたりと足を止めた。
「え・・・・・・っ? ど、どういうこと? あれ? ・・・・・・あれ?」
足を止めた僕は、表情が蝋燭のように固まった。信じられないことが、目の前に広がっている。
彼女が佇んでいた場所が、ないのだ。
防波堤は途中で崩れ落ちたかのようになっており、あの灯台があった先端部分は、存在していない。
僕は慌てて、崩れた部分まで走り、そこから顔を下に向けて海を覗いてみた。
漁港のはずなのに、そこだけ深く、深く、深く、海は青黒く沈んでいた。
僕は今の状況がまったく飲み込めなかった。
昨日、地震でもあったか。いや、ない。
荒天で高波でもあったか。いや、聞いていない。
「ど・・・・・・どういうこと・・・・・・なんだ?」
僕は、その場にぺたりと座り込んでしまった。先程の女性が、目を細めて僕の方を見ている。
すると、その女性は僕の方へゆっくりと歩み寄ってきた。
「あなた、この場所へはよく来るのかしら?」
柔らかく落ち着いた声のその女性は、僕に向かって、そう言った。
「あ、あのっ、すみません! ここにあった灯台は? 灯台、ありましたよね?」
「・・・・・・。・・・・・・。・・・・・・。灯台、ね」
僕は女性の問いかけに対して、答えになっていないことを返していた。そのためか、女性は僕の問い返しには、何も言わない。
「ど、どうして? 昨日まで、こんなことになっていなかったのに! いつ、どうして?」
僕は慌てふためき、その場で独り言のように何度も「どうして」を繰り返す。女性は、そんな僕を見て、「まだ、ここにいるのかしらね」と悲しげな目で呟いた。
防波堤の先端にあったあの灯台は、どうなってしまったのか。もう、何が何だかわからない。
女性は、狼狽して青ざめた僕に向かって、諭すような口調でこう言った。
「ここは、あの子の思いが強い場所なんです。あなたはきっと、あの子と会っていたのですね」
「ど、どういうことですか? し、失礼ですが、あなたはいったい・・・・・・」
「私は、水奈川日羽子と申します。あの子の、海佳の母です」
「え・・・・・・っ! み、海佳さんの、お母さん?」
「母と言っても、私と夫は、あの子と血は繋がっておりません。育ての親なのです」
「育ての? いったい、ど、どういう・・・・・・」
僕はもう、頭の中で四方八方に稲妻が走ったような状態になっていた。日羽子さんは、彼女について、少しだけ、話してくれた。
彼女は、日羽子さんと夫の宗治さんという水奈川夫妻の養女だったそうだ。
昔、江里口さんが漁港裏の竹林で青い毛布に包まれて捨てられていた赤子を発見し、警察に届けたそうだ。
諸事情で子宝に恵まれることがなかった水奈川夫妻は、捨てられていたその赤子を引き取る決意をしたとのこと。それが彼女、水奈川海佳だったのだ。
ここにあった灯台は八年前の七月下旬、夕方に地盤沈下で防波堤ごと崩れ落ち、無くなったらしい。
彼女は幼少期から、あの灯台のあった場所で海に飛び込み、魚たちと共に泳いで遊んでいたそうだ。
小学生になっても、中学生になっても、彼女はこの青い海と共に育ち、元気いっぱいに育っていった水奈川夫妻自慢の娘だった。
「海佳さんの生い立ちって・・・・・・。というか、海佳さんって、いったい・・・・・・」
「いつも笑顔を見せていた子だったけど、無理をしていたの。心は深く傷ついていたのよ」
日羽子さんは、声のトーンを落としながら、ずっと僕に話していた。
それからしばらく話を聞いた僕は、呆然としたまま、防波堤に座り込んで海を眺めていた。
すると、日羽子さんの後ろから、江里口さんと一緒に背の高めな男性が歩いてきた。彼が日羽子さんの夫の宗治さんだそうだ。真夏なのにびしっと黒スーツに身を包み、黒いネクタイを締めて、きりっとした顔立ちの人。いかにも、「先生」といった感じだ。
「宗治さんよぉ、このあんちゃんだ。ここんとこずっと、あの子に会いに来てたのは」
江里口さんは宗治さんにそう言うと、日羽子さんにも「久しぶりだなや」と言った。
「あなたが、海佳と・・・・・・。いろいろと、心労をかけて申し訳ない」
宗治さんは、きりりと顔を引き締め、僕に向かって頭を下げた。
僕は、なぜこの人が今こういうことをしているのか、全く理解ができなかった。思考回路がうまく働かず、状況処理が追いつかないのだ。
日羽子さんと宗治さんは、彼女のことについて、続きを僕に話してくれた。
彼女は中学三年生の時、進路について両親と何度もぶつかったらしい。
彼女は水泳が得意だったため、県立高校で水泳部の指導をしていた宗治さんがその人脈により、競泳で有名な名門私立高校へスポーツ推薦で入れたかったようだ。
日羽子さんも中学校の体育教諭であり、当時は隣町の中学校で水泳部の顧問をしていた。宗治さんとともに、日羽子さんも彼女をいつかは水泳の有名選手にしたい夢を見ていたそうだ。
だが、彼女はこの海が見える地元の大那珂高校へ進学を決めた。
両親の反対を押し切って、名門私立校への進学を断り、普通に県立高校の入試を受け、普通の高校生として過ごしていたらしい。
彼女は学業成績も抜群に良く、その容姿と人柄により、多くの人に好かれていた。
だが、それを良しとしない者もおり、高校では壮絶なイジメを受けていたそうだ。
それでも彼女は、家に帰ってくると明るく笑い、両親には涙一つ見せなかったとのことだ。
しかし、家ではそうしていた彼女だが、夕暮れ近くになる頃、あの灯台の所に行って大声で泣いていたようだ。それは江里口さんが何度も見かけていたとのこと。
初めて彼女が海に向かって泣いていた時、江里口さんは心配して思わず声をかけたそうだ。でも、彼女は「海は広いので、わたしの悲しみも全て、何でも受け止めてくれるんです」と笑ったらしい。
宗治さんは言った。「海佳のことを、自分は見ているようで見られていなかった」と。
日羽子さんは言った。「あの子を『家族』ではなく、『生徒』のように見てしまっていた」と。
僕は言った。「海佳さんの言葉の背景に、そういうことがあったなんて」と。
江里口さんは、煙草に火を点けた。
煙の輪を、いくつか吐き出した。
「あの子は、今もきっと、ここにいる。おらはたまに、あの子を見かけるんでな」
「江里口さん・・・・・・。僕が会って話していた海佳さんは・・・・・・幽霊だったのでしょうか」
「いんや、幽霊だなんてこたぁ、言わねぇほうがよかっぺ、あんちゃんよぉ」
「・・・・・・はい」
僕は、状況をどう解釈していいかわからなかった。
海佳さんと初めて会った時、確かにあの灯台はここにあり、防波堤もしっかりと現実的な感触でそこにあったのだ。
だが、今は見てのとおり何も無い。崩れたままで朽ちたままの、傷んだ防波堤だ。
でもあの時、僕は間違いなく、そこに立ったのだ。
日羽子さんは、言った。「あの子が偶然にもそこに立っていた時、地盤沈下が起きて重い瓦礫と灯台ごと沈んでしまったらしい」と。だから今も墓参りとは別に、この場へ供養に来ているのだと。
僕は「なぜ彼女はその時、そこにいたのか」と、質問した。日羽子さんから返ってきた答えは、「海を見て泣いていたそうよ」というものだった。話すその声は、湿っぽく震えている。
さらに僕は、「海佳さんはその時、何歳だったのか」と、宗治さんに質問した。彼から返ってきた答えは「十六歳。高校一年生でしたから」というものだった。
座ったまま、がくりと、僕はその場で項垂れた。涙が勝手に溢れてきた。
「・・・・・・。・・・・・・海佳さん。・・・・・・僕の方が、年下じゃないですか・・・・・・。どうりで・・・・・・」
水奈川夫妻は、僕の肩を左右から交互に、ぽんと撫でた。
江里口さんは、煙草をふかしながら、沖合の方を見つめている。
「海佳は、あなたと何らかの波長が合ったのでしょう。あなたは、優しそうな人ですから・・・・・・」
「宮里さんと言いましたね。こんな形でも、あの子と関わってくれたことには、感謝します」
僕は、水奈川夫妻の言葉に対し、いくらかの間を置いてから、涙を拭って静かに頷いた。
水奈川夫妻は彼女の事故後、今はもうこの那珂常陸市には住んでいないとのこと。二人は防波堤の先に花を手向け、手を合わせて深く一礼し、「また来るよ」と言って、僕と江里口さんに会釈をして帰っていった。江里口さんも、煙草を吸い終えると、数分後に帰っていった。
僕は日が暮れるまでずっと海を見つめていたが、彼女は、現れることはなかった。