八月一日 「明日の約束」
僕は昨日、家で髪や服を乾かした後、市の図書館へ行った。
図書館では近隣市町村の住宅地図が閲覧できる。那珂常陸市の地図を借り、あの漁港付近のページを、いつの間にか僕は衝動に駆られたように館内で開いていた。
江里口さんの話では、彼女の家はあの漁港から見える丘の上。彼女本人も、そう言っていた。
水奈川という名字は、珍しいと思う。そんなに見かける字面じゃない。
ならば、あの辺の地図でその名字の家が一つだけあれば、そこが彼女の家と言うことになる。基本的には。その考えで良いと思った。
「まてよ。・・・・・・なんだか僕、アブナイ感じになっていやしないか? いや、これはでも・・・・・・」
彼女とは、恋仲でもなんでもない。先輩後輩でもなければ、親戚でも兄妹でもない。
なぜ僕は、彼女のことがこんなに気になるのだろう。まだ、彼女に初めて会ってから一週間も経っていないのだ。どうにもこうにも、不思議な感覚だ。
実は僕の祖母は、故郷で有名な巫女だ。
その祖母の血が僕にも入っていると言うことは、何かスピリチュアルなことを感じやすいのかもしれない。いやいや、まさか。それとこれとは、関係無いとは思うが。
きっと、不思議な魅力を持つ彼女がちょっと気になってしまっているだけだ。
「水奈川・・・・・・水奈川・・・・・・。どこだ? 白塗りの空き家っぽいものは一つだけあるけど・・・・・・」
僕は、必死に地図の隅々まで目を凝らしたが、どうもおかしい。彼女の名字である水奈川という家がない。
どういうことだ。確かに、家主の名字が抜けた白塗りの四角形はあるのだが。
地図の場所はあの漁港付近で間違いないはずなのだが。
もしかすると、何らかの事情で地図に名前を載せてないのだろうか。
いや、そんな家ってあるのだろうか。まぁ、でも、きっとそんな家もあるか。
いやまてまて。それだったら、住宅地図の意味がないんじゃないのか。
僕の頭に、大量の靄がかかった。
そんなことがあって、また僕は、心に彼女のことが引っかかったまま、翌日を迎えたのだ。
あの場所に今日も行くと、また同じ場所に彼女はいた。ニコニコして、海を眺めている。
「・・・・・・海佳さん」
僕は初めて会った時のように後ろから声をかけたが、彼女は振り向かなかった。
「海って不思議ね。この時間から、色が、ぐうっと濃くなり、深く変わってゆくの・・・・・・」
「・・・・・・海佳さんは、どうしてこの場所で海を眺めているんですか? 毎日、どうして?」
「・・・・・・なぜかしらね? でも、この場所はね、わたしにとって大切な場所なんです」
「大切な・・・・・・? あ、あの、海佳さん・・・・・・」
僕は、思い切って彼女に尋ねてみた。
ずっと引っかかっていたことの中で、特に気になっていたことを三つ。
なぜいつもこの時間に佇んでいるのか。
なぜ制服なのか。
両親に心配されないのか。
それによって、彼女はやっと振り向いてくれたが、答えてくれたことはなんだかよくわからないものだった。
「わたしの中で、この時間の海が、一番心に残っているからです。離れられないんです」
「大那珂高校は自分で選んで入った、大好きな学校です。それしか着ていられなくて」
「両親には心配かけたと思っています。今もわたしを気にかけています。本当に、ごめんなさい」
彼女は、少し困ったような顔でそう答えた。僕は、いろいろと彼女のことが気にかかっているのだが、もうこれ以上あれこれと詮索しては失礼だと思い、問うのをやめた。
逆に彼女からは、こんなことを問われた。
「青太郎さん。・・・・・・わたし、たまにはここから別な場所も見てみたいんです。だめですか?」
「え! べ、別な場所って、それはどういう・・・・・・」
「別な町の、別な景色なども見てみたいんです。・・・・・・行ってみたいなぁ、別の場所へ」
本当に、不思議な人だ。家族と出かけたりしないのだろうか。両親が中学や高校の教師らしいから、きっと土日も部活や補講などで忙しく、休みに出かけるとかはしないのかもしれない。
彼女はずっと、海を眺めている。
だんだんと日が暮れ始め、沖合では漁火が目立つようになってきた。空には、瞬く星がいくつか浮かんでいる。
その時、彼女は海面を指差した。僕は彼女の指の動きにつられ、そっちへ視線を動かした。
「・・・・・・青太郎さん。海に映る星って、幻想的だと思いませんか?」
グラデーションの空に浮かんだ星が、海面に映り、波に溶けたように揺らめいている。
彼女は、包み込むような優しい笑顔を見せた。僕は首から上がじわりと、熱くなってきた。
「お、思います。・・・・・・現実の星は空にあるけど、それが海に映って、その・・・・・・」
「くすくすっ。青太郎さん、なんだか、答えがしどろもどろですよ?」
そう言って、彼女はずっと波間に浮かぶ星を眺めていた。
僕は何を思ったのか、彼女に向かって突然、「明日、水都市内でも歩きますか?」と言っていた。
彼女は数回、瞬きをした。そして、ゆっくり、頷いた。
「・・・・・・嬉しいです。本当に嬉しい。・・・・・・優しいんですね、青太郎さんって・・・・・・」
青黒い前髪をさっと手で払い、少し間を置いて「行きます」と彼女は言った。そして、「明日の正午、ここで待ってます。少しだけしか出られないと思いますが」と言い、家の方に帰っていった。
彼女が歩いて帰っていくのを、僕はその場で見送った。彼女は何度か振り返り、帰ってゆく。
あっという間に日が落ちて辺りは暗くなり、いつの間にか彼女の姿も見えなくなっていた。