七月三十一日 「水に滴る、水」
雨合羽を着ても、雨の日にスクーターに乗ると、あちこち服が濡れて困る。
今日は、朝からずっと重々しい雨雲が地域全体に覆い被さり、大粒の雨が降っている。そんな中でも、今朝からずっと心に何かが引っかかり、僕は衝動的にあの場所へ向かっていた。
いつもと海の様子は違っていた。漁港内では、漁船を係留するロープを持った漁師たちが、せっせと自分の船で作業をしている。
いつもは穏やかな港内も、波がざぶざぶと荒い。音もざんざんと響き、雨と波の合わさった激しい音になっていた。
さすがにこんな天気だ。彼女はいるはずない。これなら家にいれば良かったな、と思った矢先、僕は「えっ!」と声を上げてしまった。
街行く人はみな、雨合羽を着たり、大きな傘を差したり、いかにもな荒天時の装い。だが僕の両目の中には、はっきりと、いつも通りの彼女が映り込んだのだ。
あの赤と緑に瞬く灯台のところに、彼女は髪を激しく靡かせながら、立っている。信じられない。
「お! あんちゃん! あんちゃーん! だぁめだぁ! だぁーめだーぁ!」
その時、江里口さんの声が耳に届いてきた。漁港の事務所の方から、僕に向かって大声で叫んでいる。どうやら、波が高くなってきたからこれ以上進むなとのことだ。
「あんちゃんよぉ! だめだって言ってっぺぇーっ! 危ねぇから、帰りなーぁっ!」
「で、でも、海佳さんがあそこに・・・・・・。海佳さんの方が危なくて!」
「あぁーっ? あんだってぇーっ? 海の音がやかましくてぇ、聞けぇねーっぺよぉ!」
「でーすーかーらぁ! あそこにいる海佳さんをこっちに連れてきて、帰りますから!」
僕は、両側からテトラポッドに当たって砕ける荒波の飛沫を被りながら、一直線に彼女のもとへと走っていた。きっと遊園地だったら、これはスリリングなアトラクションとして人気が出ただろう。
でも、僕が今走っているのは楽しみたいからじゃない。彼女の安全を第一に考えてのことだ。
やや遠いところで、ゆらりと膨らむ海面が見えた。どうやらかなり大きめの波が来そうだ。
「・・・・・・海佳さん! こっち! 危ないです! 早く!」
「・・・・・・青太郎さんっ? どうして・・・・・・。・・・・・・。・・・・・・あっ!」
僕は、彼女の手を引っ張り、そのまま荒れる海を背にし、逃げるように走った。
気がつくと僕たちは、スクーターを停めたところまで走りきっていた。なぜか、雨はその時だけ上がっており、海は荒れたままだが天気は次第に穏やかになっていった。
僕は足をVの字に投げ出し、息を切らせてその場に寝転がった。背中から、濡れた砂やコンクリートの感触が、じんわりと伝わってきた。
「はぁ、はぁ・・・・・・。海佳さん! こ、こんな日なのに、海を眺めていたんですか?」
寝転がったまま、僕は彼女の顔を見た。
彼女は、灯台の方を見たまま、小さく「はい」と答えた。
「ど、どうして? 危ないじゃないですか! だめですよ、こんな日まで!」
「青太郎さんは・・・・・・どうしてわたしのことを、ここまで心配して下さるんですか?」
「そ、それは・・・・・・」
真顔の彼女からそう言われ、僕は言葉に詰まった。
危ない場所に人がいれば助ける。それは基本的な道理だとは思うが、その時僕の口からそうした言葉は出なかったのだ。数秒後、出た言葉はまったく別方向のものだった。
「み、海佳さんが、とにかく気になってしまうんです! 気になってしょうがないんです!」
何を口走っているのだろう。これは、受け取り方によっては変に誤解されてしまう。
でも、本当のことだ。僕は水奈川海佳のことが、ずっと気になってしまっている。心から離れなくなってしまっているんだ。
彼女はきょとんとした表情だったが、少ししてから微笑み、「ありがとうございます」と呟いた。
いつの間にか、彼女の髪や服は乾いていた。その代わり、両頬は一部分だけ湿ったままだった。