七月二十八日 「あなたのことを教えて」
翌日、また同じ時間にそこへ行ってみると、同じ場所で彼女は独り佇んでいた。
よほど、この海が好きなのだろう。
僕はそう思って、また、背中に向かって声をかけた。
「君は、いつもここで海を眺めているのですか? 海が好きなんですね」
すると彼女はまた、にこっと笑って僕の方へ振り向いた。
「くすくすっ。・・・・・・ここは、心が無になって落ち着ける、唯一の場所だから・・・・・・」
雪融け水のように透き通った、きれいな声。淀みがなく、濁りも曇りもない、澄んだ声。
僕は、そう答えた彼女の声が、身体の奥深くまで響いたような気がした。その声に、癒された。
不思議な女性だ。高校生だとは思うが、妙に大人っぽい。だけど、笑うときだけは子供っぽい。女の子でもあり、女性でもある。僕が彼女に抱いた印象は、そんな感じだ。
彼女は名前を水奈川海佳といった。本人曰く、大那珂高校の一年生らしい。でも、高校一年生にしては妙に落ち着いている。少なくとも僕の知る女子高生像とは、大きくかけ離れた感じだ。
僕は彼女の横で、しばらく一緒に海を眺めていた。
「あなたも、海が好きなんですね? こうして、何度も足を運んでますし」
「ああ、そうですね。僕の生まれ育った故郷も、海が身近でしたから」
「あなた、ご出身は?」
「僕は、沖縄なんです。城間村という、まぁ、無名で小さな漁村なんですけどね・・・・・・」
「沖縄。いいなぁ。わたし、一度で良いから、沖縄の海にも入ってみたいんです」
彼女は屈託のない自然な笑顔で、そう言った。僕は、数秒の間を置いて、質問を返した。
「えっと、水奈川さんは・・・・・・」
「海佳でいいですよ。みんな、海佳って呼んでますから」
「あ、ああ、じゃあ、海佳さんは、この辺りの人なのですか?」
「はい、そうです。このすぐ先の丘の上に家があり、そこからずっとこの海を見て育ちました」
「そうですか。・・・・・・良い海ですよね、ここ。静かだし、良い景色だ」
僕がそう言うと、彼女はまた、にこっと笑った。柔らかい、花のような笑顔だ。
彼女は髪をさらりと靡かせ、「あなたのお名前は?」と聞いてきた。
「ああ、すみません。僕は宮里青太郎といいます」
「せいたろう、さん。・・・・・・清い? 誠? 晴れ? それとも、星?」
彼女は独特な返し方をする。初めて話した時もそうだったが、どこか不思議な雰囲気を感じる。
「え? あ、ああー・・・・・・字面ですか。青です。青い太郎と書いて、青太郎」
「なぁんだ、はずれちゃった。くすくすっ。青太郎さんって、海のような人ですね」
「海のよう? それって、どういうことでしょうか?」
「くすくすっ。海は広いから、なんでも受け止めてくれそう。なんでも、ね。そんな印象です」
彼女はずっと、僕と話している間も、笑顔で海を眺めていた。本当に不思議な、癒される声だ。
群青色と黄金色が織り交ざり、空がグラデーションに染まる時刻。海もまた、濃紺色と黄金色が織り交ざる。
それから、十五分ほど話していただろうか。はっきりと覚えていない。時間の流れが速いのか遅いのかも気にならないほど、いつしか僕は、彼女と話すことに心の芯が浮き弾むような感覚を覚えていた。
水奈川海佳は、不思議な少女だ。彼女の方こそ、穏やかな海のようだと思う。
ボラの子が、防波堤の近くで群れになって泳いでいる。僕がそれを眺めているときも、彼女はサファイアのような青黒い瞳で、海を遠くまでずっと眺めていた。ずっと、遠く。
「あっ! ・・・・・・いけない、もうこんな時間だ。バイトに行かなきゃ」
腕時計を見たら、そんな時間だった。僕はこの頃、大学の近くにある居酒屋でアルバイトをしていた。いつの間にかシフトの時間が迫っていたのだ。僕は慌てて踵を返し、防波堤を走った。
「またね、青太郎さん。くすくすっ」
「すみません、慌ただしくて。今日はこれで。・・・・・・僕もまた、海佳さんに会えたら嬉しいです」
「くすくすっ。嬉しいです。・・・・・・あ。・・・・・・今って、何年の何月でしたっけ?」
唐突に変なことを言い出す子だな、と思った。
今は平成九年の七月。
毎日ずっと同じように海を眺めて過ごしているから、曜日感覚がわからなくなったのだろうか。
不思議な少女だ、本当に。