八月十三日 「焔の明かりに呼ばれて」
八月二日を境に、あれから僕は彼女に会うことはなかった。
今日は午前中に、あの防波堤へ訪れ、五分間ほど海を眺めていた。
網を直していた江里口さんは僕に、「もう、忘れてくれということかもしんねぇな」と言った。彼女のことを強く思ったままの人が多いと、成仏したくてもしきれなくなるのかもしれない。
江里口さんは煙草をふかして、そんな要旨のことを話していた。
僕は江里口さんに、「夕方また来ます」と伝え、一度家に戻った。
その夕方、僕はスーパーで買ってきた割り箸数本とナス、キュウリ、お盆セットとライターを持って、再び漁港の防波堤を訪れた。
「忘れろというのなら、僕はせめて、最後にこれを・・・・・・」
今日は、盆の入り。迎え盆だ。
なお、僕は沖縄式のお盆のやり方で育ったため、茨城に来るまで風習の違いを知らなかった。
沖縄ではサトウキビの茎を供えたりする。ご先祖が帰ってくる際に、転ばないための杖としてだ。
今日は彼女の供養も兼ねて、僕は本土式のやり方に倣った。
ナスとキュウリで牛馬を作り、割り箸でやぐらを作り、麻の茎を乾かした「おがら」に火を点ける。
彼女に、語りかけるようにして。
「これはね、迎え火ってやつですよ、海佳さん・・・・・・。・・・・・・見えますか?」
煌々と朱色に燃える、おがら。
その火の頭から、ゆっくり煙が立ち上る。
僕はその火をじっと見つめていた。心が、澄んで無になってゆく。
神秘的にさえ感じる焔の揺らめきに、心を落ち着かせようとした時、やや強い海風が吹き、一気にその火は消えてしまった。
「ああっ! せっかく灯した火が・・・・・・。ええと、何か、火種は・・・・・・」
割り箸も、おがらも、もう燃してしまった。僕は、暗い防波堤の上で、少しでも火が点きそうな物を探した。だが、見つからない。
「困ったな。・・・・・・せっかく、来たのに・・・・・・。海佳さん、すみません・・・・・・」
その時、日暮れ後の紺色に広がる夜空に浮かぶ、白く輝く満月の光が、漁港に差し込んだ。
天の川の上に浮かぶその月は、青く染める月光を、僕の周囲へ注いだのだ。それによって、迎え火を焚いていた場所が、ほんの数秒、明るくなった。
「くすくすっ。・・・・・・だめですよ、青太郎さん? きちんと、予備も持ってこなきゃ」
「・・・・・・え・・・・・・っ!」
僕は、耳を疑った。目も疑った。
月明かりが降り注ぐその向こうから、にっこりと微笑む彼女が、姿を現したのだ。
淀みのない澄んだあの声。
さらりとした青黒い髪。
優しく柔らかなあの笑顔。
そして大那珂高校の制服姿。
間違いなく、僕の目の前に水奈川海佳が、立っている。
「み、海佳さんっ? 海佳さん! どうして、突然・・・・・・」
「どうして? だって、青太郎さんがわたしを呼んだんじゃありませんか。驚かないで下さいよ」
「い、いや、驚きますって! あれから一度も会えなかったし、そして、それに・・・・・・ええと」
僕はまた頭の中が混乱し、何をどう答えて良いのかわからなくなっていた。
嬉しいのだ。心から嬉しいのだが、あまりにも彼女が突然現れたので、狼狽えるしかなかったのだと思う。
「・・・・・・優しいですよね、青太郎さんって。もう、いろいろと、知りましたよね?」
「ええと、その・・・・・・はい」
「ごめんなさい。わたしも、自分がこんな存在になっていることを、言えなくて」
「い、いやいや、海佳さんが謝らないで下さい。普通、わかりませんよ」
「足があるから、ですか?」
「い、いや、そうではなくてですね。・・・・・・普通、こんな体験、あり得ないなと思って」
「くすくすっ。そうですよね。・・・・・・青太郎さん。まだ少し、お時間、大丈夫ですか?」
「も、もちろん。今日はバイトもありません。このためだけに、来てるんですから」
「よかった。わたしも、青太郎さんとは、まだたくさん話したかったので」
こんな話はあり得ない。
非現実的だ。
夢か幻でも見たのだろう。
疲れていたに違いない。
他人はきっとそんな言葉を並べることだろう。でも、今僕は確かに、彼女とこうして話している。
相手が幻でも、幽霊でも、生身の人間でも、なんでもいい。
僕は、水奈川海佳と、また会えたんだ。
彼女は僕と一緒にしゃがみながら、空の月を見上げて、こう言った。
「もっと生きたかったです。でも、あの頃は辛すぎて、終わって良かったなんて思ってました」
生きたいという思いと、人生が終わって良かったという思いが、彼女の中であったのだ。
僕は彼女から、生きていた頃の話や、何故あの日を境に消えてしまっていたのかなどの話を、聞いた。
彼女は、両親から「文武両道でいなさい」「教師になりなさい」「良い子でいなさい」と、育てられたのがある時から苦痛だったそうだ。
ある日、高校での酷いイジメによって限界が近かった時、両親にそれとなく話をしようとしたらしい。彼女は「学校のことで悩んでて」と言ったが、両親には「自分で選んで入った学校だから、自分で解決できることは解決しなさい」と、蓋をされたと話した。
どこにも逃げ場がなく、唯一、泣き叫ぶことで苦痛から解き放たれる場所が、あの灯台のところだったらしい。
「・・・・・・あの時は、わたし、何が起きたかわからなくて。気付いたら、海の底でした」
「み、海佳さん・・・・・・。ま、まさか、今もまだここに?」
「ううん。きちんと、わたしのお骨はお墓の中にあります。今、両親が住む家の近くの寺ですが」
「そ、そうですか。良かった、と、言って良いのかな・・・・・・」
「わたし、どうやら、魂だけがずっとここら辺に張り付いちゃったみたいでして・・・・・・」
話している内容はとんでもないが、彼女とはこうして、普通に会話している。
他人から見ると、きっと、暗い防波堤の上で僕が一人で横を向き、独り言を呟いているように見えるかもしれない。
通報されても、おかしくないかもしれない。
「海佳さんは、ずっと、こうしているしかないのですか?」
「いいえ。どうやら、そうでもないみたい。もう、ここに残った魂も、次に進む時が近いみたい」
「次・・・・・・?」
「青太郎さんと水都市に行った日から、身体の力が弱くなってて・・・・・・」
「だ、だから、あの日は・・・・・・あんな風になっちゃったんですか?」
「そうみたいですね。やはりこの場所から離れることで、魂の濃さが薄らいでしまうみたいです」
「魂の、濃さ・・・・・・ですか」
「黄泉の国で、わたしの魂を洗い直す準備が始まってるせいも、あるのかもしれませんが」
「え? あ、洗い直すって、いったい・・・・・・」
「水奈川海佳の魂は真っさらな物にされ、これから生まれる新たな人へ、入れ直されるそうです」
「そ、そんな。海佳さんが、海佳さんじゃなくなってしまうんですか? じゃあ、記憶・・・・・・も」
「おそらくそう・・・・・・ですよね。・・・・・・見て下さい、これ。もう、わたし、こんな感じに・・・・・・」
「・・・・・・あ・・・・・・っ」
僕は、月明かりに照らされた彼女の身体が、うっすらと霞んでいるように見えた。
半透明になっている。
淡く、煌めくように、霞んでいるのだ。
「ごめんなさいね、青太郎さん。・・・・・・わたし、そろそろ・・・・・・」
「ちょ、ちょっとまだ待って下さい、海佳さん! ぼ、僕は・・・・・・」
彼女は黙って首を横に振った。
そして制服のスカートをぱさりと手で払い、立ち上がって一歩、足を前へ進めた。
すると、彼女が踏み出したその先には、あの灯台が赤と緑の明かりを交互に灯していた。
ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと。
それはまるで、彼女をそこに呼んでいるかのよう。
足を止め、彼女は振り向いてぽつりと言った。「もう、時間みたい」と。そしてにっこり微笑む。
「さよなら、青太郎さん。わたし、あなたと会えて、あなたと話せて、本当に嬉しかった」
「待って、海佳さん!」
「優しい、素晴らしい教師になって下さい。わたしの分まで、生きて。幸せに、生きて下さい」
「待って! まだ! 僕は・・・・・・」
彼女は、灯台と共に足の先から光の粒になって、消えてゆく。僕は慌てて彼女に向かって両手を伸ばし、抱きしめるように、そこへ大きく踏み出した。
だが次の瞬間、僕の周囲で大きな飛沫の音が広がった。塩辛い水が、口と鼻へ一気に流れ込む。
もがきながら見えた空では、白い月がいつの間にか夜雲に隠され、見えなくなっていた。
それからどれほどの時間が流れていたのかも、どうやって助かったのかも、わからない。
気付いた時には、暗い漁港の防波堤の上に寝転がっており、身体も全く濡れていなかった。夢を見ていたのだろうか。いや、きっと違う。
僕の横では、燃え尽きてた灰が海風に乗って舞い上がっていった。
横たわったキュウリは、そのまま風で転がって、テトラポッドの間に落ちていった。
なぜか、ナスはどこにも見当たらなかった。
「・・・・・・。・・・・・・。・・・・・・海佳さん。お元気で、というのも変ですかね・・・・・・」
何となく、僕は二度と彼女の姿を見ることはないことを、直感的に感じていた。
雲間から覗く、白い星。それはそのまま漁港の海面に映り、一つだけ輝き、揺れている。
―――― 「青太郎さん。海に映る星って、幻想的だと思いませんか?」 ――――
僕は、頭の中で、彼女の言葉を何度も反芻した。
「思います。・・・・・・幻想的で、美しいですよ。・・・・・・教えてくれてありがとう、海佳さん」
波に揺られたその星は、空が雲に覆われても、なぜかしばらく消えることはなかった。
僕は、それからしばらく、その場で波の音を聞いていた。
彼女はもう、現れない。
不思議な夏だった。いったい、こんな話を、誰が信じるというのか。
僕は最後に、彼女の消えていった場所に向かって「約束します」と告げ、その場を去った。