八月十二日 「丘の上から」
昨日、沖縄から戻ってきた僕は、夕方にあの漁港にある丘を登ってみることにした。
図書館で見た住宅地図で、空白のようになっていた場所。だが、どうもそこが、彼女の家である気がしてならない。
彼女がもう現世にいないとわかった今、僕は、彼女について少しでも知っておけることは知りたい衝動に駆られていた。
淡い期待も虚しく、漁港の防波堤は先端が崩れていた。あの灯台は、やはり、無い。
「・・・・・・。・・・・・・夢でもない。かといって、時間が遡ったわけでもない。・・・・・・はぁ」
丘と言われていた場所には、古い遊歩道のような階段があった。
思ったよりも急勾配なそれを一歩ずつ進むと、何本かある太いアカマツの間から一面に海が見渡せる場所に出た。
「こんな場所が・・・・・・あったんだ」
僕は、その広大なパノラマに見とれてしまった。まるで、彼女の笑顔を初めて見た時のように。
その場所は草に覆われていた。キリギリスのような虫が、潮風に揺れる葉に留まっている。
僕は住宅地図の位置関係を思い出し、斜め後ろへ振り返った。
そこには、四方を草に覆われた、屋敷跡のような四角い土地があったのだ。広さは百坪ほどだろうか。
建物の基礎があったと思われる跡がある。
塀に囲まれていたことがわかる跡もある。
解体されたとわかる場所なのだが、なぜか、苔生した石造りの門柱と、潮で錆びた金属製の洋風木戸だけは残っていた。
僕は、その木戸の横に、小さな木製の表札らしきものを見つけた。
既に朽ち果てており、書かれた文字はあまり読めない。だが、目を凝らして見てみると、確かにそこには「水奈川」と書かれていたのだ。あの水奈川夫妻はもう、別の場所で暮らしているが、ここにまだその名残はあったのだ。
「やっぱり、ここが、海佳さんの・・・・・・」
僕は、安堵したような、物悲しいような、何とも表現のしにくい感情に包まれた。
あの屈託のない笑顔を見せていた彼女は、いつも、ここに帰っていたのか。もしかして、これがあるからこの土地からまだ、離れることができなかったのか。それは、彼女にしか、わからない。
「・・・・・・海佳さん。・・・・・・まだ、ここにいるのですか?」
すると、錆びた木戸が風で開いた。
しかし、彼女からの返事は、なかった。
「いい景色ですね、海佳さん。・・・・・・心地よい潮風。・・・・・・こんないい場所で育ったんだ・・・・・・」
僕は「ここで何をやっているんだろう」と自分に問いかけながらも、日が暮れて暗くなるまで、門柱に寄りかかってずっと海を眺めていた。
沖合に見える漁火は、赤い蛍のようにぼんやり光っている。
どこかの防波堤にある灯台は、黄色い光を瞬かせている。
遠くに見える港町の街明かりは、煌々としている。
丘の下からは、柔らかい波の音が響いてくる。
空には、白く瞬く無数の星々と天の川が広がっている。
「すみません・・・・・・深入りしちゃいました、江里口さん。・・・・・・変なんですかね、僕?」
僕は丘の左下に見える漁港を見つめて、ぽそりと独り言を呟いていた。
空の星が、海面に白く映っている。それは波に揺られ、海月のように漂っているように見えた。