第四話
「くそっ、なんで……」
城下町の一角。
俺はゴミ捨て場のガラクタに身を潜めながら、悪態をついた。
牢獄から脱出するところまではよかった。その後もちゃんと合理的に考えた。変に走り回ったら目立つから、怖いけど、なるべくゆっくり歩く。自然な表情で城門に向かい、そこで衛兵に声をかけた。俺は勇者の比嘉だ、少し外を散歩したいから通せ、と。
そこまでは順調だったのだ。だが、市街地に出て三分後、無数の兵士が、槍を手に追いかけてきた。まさかこんなに早くに発覚するなんて。
幸い、敵は重武装。こちらは身軽なので、逃げ切ることはできた。だが、そのために相当な無茶をしなければいけなかった。高いところから飛び降りたりしたせいで、体中、擦り傷や打撲傷でいっぱいになってしまった。
いまや市内は厳戒態勢。あちこちに走り回る兵士が見える。
「いたぞー! こっちだー!」
ビクッとして走り出す。
その姿を、兵士達が見咎める。
くそっ。
今のはわざとか。見つけてないけど、そう叫んでみせれば。逃げてる本人はビビッて腰を浮かす。実に合理的な戦術だ。
城からそう離れていない辺りを、俺は闇雲に走り回っていた。既に周囲は真っ暗で、物の形も定かではない。ここは夜でも明るい東京ではないのだ。何度も足をとられて転ぶ。そのたびに傷が増えていく。
ただ、この暗さとはいえ、なんとなく把握できることはある。この辺りは住宅地で、壁はレンガ造り。一軒屋より、数階建ての集合住宅の方が多い。そして、街路は整備されていて、ほぼきれいな碁盤状になっている。
ならば、こうやって通りを走り回るのは合理的じゃない。こういう見通しのいい環境では、すぐに発見されてしまう。それよりは、この空間を立体的に使う……つまり、どこかの部屋に隠れたほうが。昼間になって、大勢の人が歩き回るようになれば、或いは逃げ切るのも難しくはない。それまで、この無数にある部屋のどれかに身を潜めるのだ。
幸い、集合住宅の一階部分には、外部に開放された階段がある。日本のマンションみたいなゲートがあるわけではない。ただ、どれかに駆け上がるにしても、気をつけなければ。階段が一つしかなかったら、袋のネズミだ。それに、いざとなったら飛び降りられるよう、二階以上には行かない。そうだ、そうしよう。
ギリギリの状況で、なんとか合理的に思考をまとめつつ、俺は手近な建物に這いより、一気に階段を駆け登る。そして、ドアノブに手をかけるが……。
この真夜中だ。開いているほうがおかしい。都合のいい空き家なんて、そうそうあるはずもない。家でなくてもいい。物置でもなんでもいいのだが。
開かないからって、ガチャガチャやるわけにはいかない。そんなことをして、中の人が起きて出てきたら。武器の一つでも手に入れていれば、脅せるのに。いや待て、相手が武装してない保証なんかないぞ? 相手だって合理的に考える。こんな時間にやってくる客が、まともなはずはないから。
とある集合住宅の二階から、遠くを仰ぎ見た。
どうやらこの王都、巨大な城壁に囲まれているらしい。かなり離れた場所、高所に点々と松明が燃えているのが見えた。
その外側は、暗い影になっている。この都全体が、盆地にあるらしく、外側は山々が聳え立っている。
なんてことだ。
これじゃあ、ここを脱出しても。一晩、どこかで兵士達をやり過ごしても、あの城壁を乗り越えられなければ、結局は捕まってしまう。
最悪、そこまで突破できれば、あとは何とか、山の中に紛れてしまえるかもしれないが。
……でも、逃げたからって、何になる?
俺の始末を直接に進言したのは、あのライアとかって女の書記官かもしれないが、これは国王が承認し、実行させている命令に違いない。そもそも、俺が危険な存在らしいと思っていたから、シルヴィアみたいな騎士達をつけていたのだし。
そして、この国の規模がどれくらいかはわからないが、少なくとも国内では、俺は指名手配される。文明の水準とか、治安のレベルがどれくらいかにもよるが、まず逃げ場なんかない。
街や村落を避けて、山の中をサバイバルしながら、外国まで行く? それができればいいが、現実的か? 道具らしい道具もなければ、そういうテクニックや知識もない。あっても、ここは異世界だ。地球の常識が通用しない可能性も、大いにある。森の中に生えてる草が食えるかどうかなんて、どうやって判断すればいい?
突き詰めると、合理的な解決策がどこにもない。
「くそっ……俺が何をしたっていうんだよ!」
無益とわかっていても、恨み言が口から漏れてくる。
考えるな。
とにかく、どこかに潜む。隠れること。
時間さえ経てば。やり過ごせば、どんな形であれ、チャンスは出てくる。逆に、捕まったらもう、おしまいだ。
「お……」
とある建物の二階。どうせ無理だろうと思いながら、半ばヤケクソになって引いたドアが、スッと開いた。
俺は息を飲み、そっと扉を開け、中に入る。
真っ暗だった。
人は? 誰かいるのか?
息を殺しながら、辺りを探る。室内の空気が、やけに暖かい。自分の呼吸音が耳につく。これが聞かれたら、と思うと、気が気でない。
だが、空気に埃っぽさはない。なんとなくだが、ここには生活感がある。ついさっきまで、人がいたのだ。
よし。
どちらにせよ、隠れるならここだ。夜通し走って逃げ回れるほど、俺は強くない。もし誰か住人がいたら、その時はぶっ殺してでも、ここに立て篭もってやる。
暗闇に目が慣れてきた。
うっすらとだが、物の輪郭が見えるようになってきた。
よく掃除された、居心地のいい部屋だ。それに、装飾品が多い。花瓶には花が挿してある。
その割に、狭い。一家が暮らしているというよりは、一人暮らしをしているような感じだ。
誰もいないのがわかった。少し大胆になり、俺はあちこちを探り始めた。
クローゼットを開けて、納得する。これは女物の服だ。それに、香水の瓶も見つけた。
恐らくここは、割と裕福な、一人暮らしの女の部屋だ。
この異世界に、そんな身分の人間がそう多くいるとも思えないのだが、とにかく状況からすると、そうとしか言えない。
だが、女がどうしてこんな時間に部屋を空けるのか? 実は部屋の主は高級娼婦で、夜はお仕事だとか?
わからない。わからないが、ここは当面は安全だ。ただ、住人が帰ってきたら別だが。
眠ってしまうわけにはいかないが、食べ物や水は、ここで手に入れておこう。さっきもパンは食べたが、牛乳は飲んでいない。そういえば喉が渇いていた。飲み水らしき瓶を見つけて、俺は一気に飲む。やっと落ち着いてきた。あと、パンもあった。これもどれだけ運べるかわからないし、今、食べてしまおう。
あとは……あった。小銭だろうが、金貨や銀貨、銅貨が数枚。それと、金庫らしきものもあったが、これは開け方がわからない。
それと、あまり意味はないが、武器だ。台所に包丁があったので、それを腰のベルトに手挟む。
……あと、俺がやらなければいけないのは。
部屋の住人が帰ってきた時に、いち早く取り押さえて、脅すこと、だ。
喉元に包丁を突きつけて、俺を無事、王都の外に出せ、そのために協力しろ、さもないと殺す……
申し訳なくはあるが、そうしないと助からない。
俺は、待った。
眠気をこらえて、ひたすら。
そう、いったん安全となったら、急に疲労感が押し寄せてきたのだ。
だが、眠り込んでしまったらおしまいだ。家の主に通報されて、捕まって……だから、なんとかギリギリ起きている。
そのうち、窓の外から、光が差し込んできた。
夜明け、だ。
その時だった。
ギギィ……と重そうな音を立てて、玄関の分厚い木の扉が開く。
きた。
全身の毛が逆立つ。
俺は壁に体をぴったり貼り付けて、ここを住人が通り過ぎるのを待つ。そして、その場で取り押さえるのだ。
足音からは、警戒している感じはない。それと、音が軽い。やはり、ここの主人は女だ。
ドタドタと、不機嫌そうな雰囲気を滲ませつつ、こちらに近づいてくる。
今だ。
「動くなっ!」
「ヒッ!?」
後ろから抱きすくめ、俺は包丁を突きつける。
女は、ビクッとして、全身を緊張させる。
そして、俺はその女に、見覚えがあった。
「お、お前……あれだな? ライアとかいう」
「どっ、どうして、どうしてあなたがここに!?」
偶然、か?
ここは、俺を騙して始末させようとした、ライアの部屋だった。
「知るか。鍵が開いてたから、逃げ込んだんだ」
「ああ……急いでいて、鍵をかけ忘れたせいね」
理解が追いついてくる。
どういうわけかわからないが、俺が脱走したと知らされて、一大事とばかり、ライアは城に駆け戻った。だが、あまりに急いでいたので、家の鍵をかけずにきてしまったのだ。そこへたまたま、俺が辿り着き、中に入り込んでしまった。
「答えろ」
じわじわと怒りがこみ上げてくる。
「どうして俺を殺すことにしたんだ」
「えっ?」
「お前が言ったんだろうが。なんで俺を殺すんだ!」
「それをどこで」
「答えろ!」
こんな状況なのに、ライアは割合、冷静だった。少なくとも、そう見えた。
「魔族かと思ったのよ」
「は?」
「その割には、魔法陣にも捕まらなかったみたいだけど」
「どういうことだ」
「……紫色の魔力、それは不吉なものとされているわ。普通の人間は、そんな色の魔力は身に帯びていないの」
「なに?」
「詳しいことは知らないわ。でも、古代の文献……文明崩壊以前のものにも、そう書いてあるの」
つまり、俺の魔力が危険だから、殺すことにした?
だが……。
「それだけか?」
「そうよ」
「お前らが勝手に呼びつけておいてか」
「そんなこと言われたって。王女様も、陛下も同意見だったもの」
どうなってるんだ、こいつらは。
俺の魔力が危険なら、覚醒させなければ、それで済む話だろうに。
「やってることがメチャクチャ過ぎる」
「じゃあ、どうしろって言うのよ」
「俺を元の世界に還せ」
「やり方がわからないわ」
「なら、もう俺を殺すのをやめさせろ」
「それも、私にはどうしようもないことだし」
確かに、王の命令を、一介の書記官に覆させるなど、無理もいいところか。
ならば、現実的にして合理的な妥協案を提示するしかない。最初からそのつもりだった。
「だったら、俺を無事、王都の外に出せ。魔力だか魔王だか知らないけど、そんなもの、クソ食らえだ。俺はこの国を出て、どこか遠くで静かに暮らす。お前らとはもう、関わらない。これだったら、いいだろう」
ライアは、後ろから俺に抱きすくめられたまま、しばらく考えた。
だが、ややあって声を出す。
「……わかったわ。じゃなきゃ、殺すっていうんでしょ」
「俺としては、今すぐお前を殺してやりたいんだ。でも、逃がしてくれるなら、許してやる」
「わかった、じゃあ、離して」
いざ、そうなると、逆に不安になってくる。手を離した瞬間、反撃されるんじゃないか。
「何をしてるの? このままの格好で、逃げられると思ってるの? 衛兵に囲まれたら、おしまいよ?」
それもそうか。これが現代日本なら、人質を抱きかかえた犯人に手出しなどできまいが、ここは異世界だ。俺がどれくらい危険とみなされているかにもよるが、下手したらこの女ごと串刺しにされる。
「この帽子をかぶって。それで少しは目立たなくなるから、私のあとについて歩けば、城門までは行けるわ」
やけに聞き分けがいいな?
いや、後ろから刺されるよりは、おとなしく従うほうが、まだ合理的なのか。
ライアは、玄関に立ち、そこで複雑な紋様の刻まれたステッキを拾い上げた。そのまま、ドアノブに手をかけ……ずに、振り返った。
『光よ! かの者を焼け!』
「ギャアァッ!?」
いきなりの轟音に耳が痺れる。閃光が目に突き刺さる。視界をほとんど奪われた。魔法か!?
ギィ、という音。まずい!
「……衛…! …兵! ここ…! ……にいる!」
くそっ! 何か叫んでいるみたいだ。
俺は遮二無二飛び出して、部屋の外に手を伸ばす。布切れに指が届く。そのまま、全力で引っ張ると、ライアはまた、部屋の中に引っ張り込まれた。
「このアマァ!」
「きゃああ!」
激昂した俺は、力任せに杖を奪い取ると、それでライアの頭を一度、二度打った。
彼女はよろめき倒れる。その上に、俺は馬乗りになって、首に手をかけた。
「よくも……よくもっ!」
「ふっ! ぐっ! ……うああ!」
何も考えられなかった。無我夢中だった。
ライアは俺の手を引き剥がそうと爪を立て……だが、必死になっていた俺は、手の甲から血が流れても、痛みさえ感じなかった。
どれくらい時間が過ぎたのか。長くかかったようにも、一瞬だったようにも思えた。気がつくと、ライアは動かなくなっていた。その視線は宙に向けられたままとなっていた。
俺は……
この女を殺した。
そう自覚した時、場違いなチャイムの音が聞こえた。
『ぴんぽんぱんぽーん』