第三十九話
「……ということなんだ」
窓の外には、動くものの気配もない。赤茶けた日干し煉瓦の陸屋根も、暗い藍色の空の下、どれもこれも生気を失っていた。そんな丈の低い家々の彼方に広がるのは、虚無の砂漠。本当に何もない。
聞いた限りでは、砂漠には人もいないが、魔物もほとんど棲んでいないという。誰であっても生き延びられない過酷な領域。それがピラミアの砂漠地帯なのだ。だから、砂漠に近い内陸側には、ろくに城壁すらない。なにせ攻めてくる敵がいないのだから。但し、貧困層……つまり荷運び達の家がある。
「本当は話したくなかったが、こうなっては仕方がない」
「すみませんです、ナロ様」
二つのベッドの上に、二人ずつ腰掛けながら。ほのかな蝋燭の光に照らされつつ、俺達は密談をしていた。議題はもちろん、勇者ナロの正体だ。
「サビハ、そういうわけだから、俺の傍にいると、危険に巻き込まれることになる。もしお前が無関係でいたいというのなら、もちろん構わない。まとまった金は渡すから、自由にしてくれていい。但し、俺達のことは秘密に」
「なーに寝ボケたことホザいてんだよ」
すぐ横に座るグリーダの肩をポンポンと叩きながら、サビハは言った。
「勇者に追われる勇者! 面白ぇじゃねぇか。けどよぉ、そうすっと」
じろりとシルヴィアをねめつけて、彼女は舌なめずりした。
「ますますこいつらが足手纏いなんじゃね?」
「なんだと」
「だってそうだろ? エキスタレアのお嬢と、同じくエクス人の女。こんなの連れてたら、目立ってしょうがねぇぜ。ワナタイまで逃げんだろ? これがグオームとか、プレグナンシアとかに留まるってんならともかくよぉ」
特にシルヴィアがまずい。なぜなら彼女は上流階級の出だからだ。そこまで身分の高い人物でなくても、例えば羽振りのいい商人なんかだと、何かの機会に見かけてしまっている可能性もある。逃げ出した勇者ナロについては知らなくても、それがきっかけになって、何もかもが露見することもあり得るのだ。
「だとしても、シルヴィアは手放さない」
すぐ横に座っている彼女は、表情こそ崩していないものの、サビハの一言にかなり動揺している。
今までは自分がナロを守ってきた。ピールでも、自分の援護がなければリックを倒すことはできなかっただろう。だが、ゾナマでは一転、完全に足手纏いになってしまった。
しかも、ナロはどうやら、勇者の力に覚醒し始めたらしい。並の冒険者では手も足も出ない魔人さえ討ち取ったという。ではもう、自分など本当に邪魔にしかならないではないか。
……こんな風に考えているだろうから、安心させてやらねばならないのだ。
ここで切り捨てたら、自暴自棄になって何をしでかすかわからない。自殺されても寝覚めは悪いが、傷心のままに帰国されてはもっと困る。だからグリーダ同様、全部抱えていくしかない。
さっき、サビハに「去っていいよ、金渡すから秘密だけ守って」と言ったのも、実はシルヴィアへの配慮だったりする。アンコモン彼女の効果がこんなに短期間に消え失せるはずもなく、どうせサビハが立ち去るはずはないから。
「これからも俺の力になってもらうつもりだ」
そう言いながら、俺は彼女の肩に手を置いた。
「ナロ」
頬を染めつつ、シルヴィアは俯いてしまった。
その様子を、グリーダが目を丸くしながら観察している。これはなんとも……彼女も察したはずだ。どうやらこの三人の男女、ただならぬ関係にありそうだ、と。
「ふーん……で、じゃあ、グリーダっつったか? あんたはどうすんだ」
「わ、私ですか?」
「エキスタレア王国からは誤解されたまんま。バレりゃあ追っ手もかかる。おっかない思いもするかもなぁ? おうちに帰ったほうがいいんじゃねぇの?」
だが、そのやり取りでシルヴィアは正気に返った。
「サビハ」
キッと真正面から見据えながら、彼女ははっきり言った。
「グリーダ殿とここで出遭えたのも、サーク・シャーの思し召しだ。彼女にもまた、勇者を支える役目があるのだろう」
「ふーん……」
するとサビハはすっと目を細めた。
「けどまぁ、大事なのは本人がどうしたいかだよな? 好きに決めていいんだぜ?」
「わっ、私は」
薄汚れた亜麻色の三つ編みが揺れる。肩をすぼめ、下を向いて、グリーダはおずおずと言った。
「私は、ナロ様に救っていただいたんです。それも、実家にお金がいくようにって、過分にお支払いまでしていただいて」
「前に助けてもらった。そのお礼だよ」
「で、でも、それは。ナロ様は……これを」
そう言いながら、彼女が懐から取り出したのは、百円玉だった。
「殿下の前で粗相をした私を庇ってくださったからで……だから、まだご恩返しをしたことにはなりません。私にもできることがあるかもしれません。お邪魔でない限り、お傍に」
「よーくわかった」
返事を聞いて、サビハはぺしぺしとグリーダの首元を軽く叩いた。
それをシルヴィアは、じっと見つめている。
……やっぱり怖いな。この女達。
「ま、今日は休もう。明日か明後日、東に向かう船を見つけたい」
「おう、任せな」
返事をすると、サビハは立ち上がり、すぐ横に座るグリーダを促して立たせた。
シルヴィアは、俺と同じく、グリーダを自由にしてはならないと承知していた。一つだけ認識の齟齬があるとすれば、それはこの俺、ナロが純粋にグリーダに感謝していて、だから秘密の保持についてまったく無頓着であろうと考えていた点だろう。なにせ、サビハまで自由にしてやろうとしていたのだから、そう解釈するしかない。だから、強引にでもグリーダを仲間に引き込むことで、事の発覚を防ごうとした。
サビハは、だが、更にその上をいく危ない発想をしていた。もっとも、それが合理的ではある。戦力にもならない、言葉も不自由な田舎のエクス人など、いるだけ邪魔なのだ。
何のことはない。グリーダが帰国を選んだら、こっそり始末するつもりだったのだ。無理やり連れまわすつもりはない。不平不満がある奴は、そのうち逃げる。故郷に戻れば、秘密が漏れる。だから、笑顔で見送って、そっと片付ける。
シルヴィアの「拘束案」を聞いて、彼女は「甘い」と判断した。だから改めてグリーダに意志を確認した。素っ首を叩いていたのは「命拾いしたな」という意味なのだ。
「じゃ、あっちの部屋で私ら寝るわ。シルヴィア、そういうことなら乳繰り合ってる場合じゃねぇ。ナールの敵が来ないか、ちゃんと見張ってろよ」
「ああ」
その証拠に、サビハは油断していない。寵愛を巡る争いも、いったん休戦。シルヴィアはナロを守る盾に使い、自分はグリーダの監視にまわる。
全部俺のためなので、ありがたくはあるのだが……
翌朝、俺とサビハは連れ立って宿を出た。目的は、東方に向かう船を見つけることだ。しかし、あまり期待はしていなかった。
なんといっても、ここは現代日本とは違う。定期的に運行する客船などない。それでも、グオームからゾナマ、ゾナマからピラミアまでは、行き来する船も多かったので、苦労はなかった。
だが、ここアスカロンはピラミアの北西端。世界の東側からの物資の集積地なのだ。つまり、ここから先は、航路が分かれる。ゾナマとピラミアの間の海峡を旅する南方ルートと、ピラミア北部沿岸を行く東方ルート。東に向かう場合、更に東進してワナタイに行く船もあるが、やはり途中で南に折れて、ピラミア東岸に向かうのとに分かれる。
世界の東側は、西側より圧倒的に人口も少なく、人間の居住域も狭い。だから人を運ぶ船も多くはない。俺達にとって都合のいい船も、そんなに簡単には見つからない。
数日間、ひょっとするともっと長い間、ここアスカロンで足止めされる可能性もある。それなら、しばらくの間、ホテルに缶詰状態で暮らしつつ、船便を探しに出るということにしようと話が決まったのだ。
「朝から熱いな」
暑いのではなく、熱い。
建物の隙間から、赤い砂混じりの熱風が吹き付けてくる。
このクソ暑いのに、朝から建物の陰で、人々は露店を開いている。何かのガラクタとか、一見して酒瓶とわかるものとか、黒い液体に満たされた桶とか……いろんなものが道幅を狭めていた。
「部屋も、夜は寒いくらいだったのに、夜が明けたらあっという間に暑くなったし」
「こんなもんで音を上げてたら、ここじゃ生きていけねぇぜ」
「そうだな。だったら尚更、早く船を見つけないと」
足下の石畳。ここに生卵を落としたら、どうなるだろう?
そんなくだらないことを考えながら歩いていたせいだろうか。
「おっと」
不意に肩にぶつかる感触に、俺は慌てて顔をあげた。
「いってぇなぁ」
「えっ?」
「てめぇ、どういうつもりだ、オラァ」
見上げると、筋骨隆々のエクス人らしき男が立っていた。半袖シャツに、短く刈り上げられた髪。肌はうっすら日焼けしている。
「あ、すみま」
「すみませんじゃねぇよ、このガキィ!」
なんだ?
肩が触れただけで、どうしてここまで怒る?
「女ァ連れてるからっていい気になりやがって!」
頭の中にクエスチョンマークがいくつも浮かぶ。女を連れていたら、なんだ? ゾナマじゃあるまいし、それが淫らってことにでもなるのか?
だが、戸惑う俺を庇うように、サビハが割って入った。
「手ェ放しな。あたしの男に喧嘩売ってんじゃねぇよ」
「あぁ? 女は黙ってろ」
「ナール、殺さなきゃなんでもいい。ぶっとばしゃあいいぜ」
おいおい。
でも、そうだったっけ。ナメられたら終わりの土地柄だって。
「それとも、あたしがやろうか?」
「んだと」
「あらよっ」
俺の返事を待たず、サビハは男の股間に蹴りを見舞った。それだけでそいつは前のめりになり、膝をついた。
「うぐぇぽぁっ」
「コナかけんなら、相手見てからにしな」
いいのか、これは?
恨みをかうのは構わないが、これで目立ったら……
「あーんしんしろよ。こんなもん、日常茶飯事だっつーの」
「ならいいが」
「さ、行こうぜ」
うずくまる男を尻目に、彼女は俺の背中に手を回し、先へと進もうとした。その時。
「待ちやがれぇ!」
すぐ後ろの男が、憤怒の形相で立ち上がると、たまたますぐ近くに転がっていた何かの桶を引っ掴んだ。
「おらぁ!」
「わっ!?」
ベシャッ、と何かがへばりついた。
なに、これ?
限りなく黒に近い、油っぽい液体が、俺とサビハの服にこびりついた。
「げっ……タールじゃねぇか」
といっても、コールタールではなさそうだ。どちらかというと、植物性のもののように見受けられる。
「こんなもん……こんの野郎!」
汚れは落とせないだろう。
まぁ、金はある。服を新調すれば済むのだが。
「はっ! ざまぁ……ぐおあ!」
嘲笑を浴びせる男の鳩尾に、サビハの爪先が突き刺さった。そのまま、倒れこんだ男を何度も踏みつける。
「な、なぁ」
「あ? なんだ、ナール」
「これも日常茶飯事なのか?」
「いんや……ちょーっと派手に暴れすぎたかねぇ」
雲行きが怪しくなる前にここを去ろうと、俺はサビハを促した。もはや秘密の共有者でもある彼女は、それに逆らわなかった。
「あ……あーっ! なんだ、お前ら、何をやってる!」
だが、ちょっとばかり遅かったらしい。
前方と後方、道路のどちら側にも、数人の男達が立ち並んでいた。こちらを指差して騒いでいる。
「シェリク! しっかりしろ! なんだ、どうしたんだ!」
まずいことに、今、サビハがぶっ飛ばした男の仲間らしい。
どうやらただでは済まないようだ。
昔、ストックした分が、これで終わりになります。
試験的投稿ということで、定期連載にはしません(時間と労力の余力的にできません)。
今後は(連載継続の要望があればですが)不定期更新とさせてください。