第三十八話
俺は迷っていた。どうすべきか、考えをまとめられずにいた。それがいけなかった。
硬直した俺の姿に気付いたサビハが、注意を舞台のほうに向ける。シルヴィアも真剣な眼差しでそちらを見始めた。
しくじった。むしろ、これでよかったのか。
どちらにせよ、もう後戻りできない。そんな気がする。
いや、今すぐ回れ右して立ち去れば。だが、だが。
「あれは……言われてみれば確かに見覚えがあるな。城のメイドだったが、なぜ、こんなところに?」
やはり、もう駄目だ。
俺は半ば自分を呪いながら、意を決して一歩を踏み出した。
「おう、なんだ、若ぇの」
地元の商人ではないのだろう。顔中髭だらけで、フードは被っていない。体格は逆三角形だが、ムキムキというよりは、余計な肉がダボついている感じがする。彼はタンクトップ一枚という格好で、女達の前に立っていた。
「もうすぐ店じまいだぜぇ」
「あんたは、奴隷商人か」
「ああ、そうだ。いつもはゾナマで仕入れることが多いが、今回はエキスタレアの女もいる。どうだ」
やはり、そうか。外国で奴隷の身分に落ちた人間を売るために、ここまでやってきたのだ。
ところで、こうして海を渡ってからの売却には、合理性がある。
奴隷なんて、誰もがいやがる身分だ。だから、逃げられるものなら逃げ出したい。だがもし、エキスタレアで奴隷になった人物が、そのまま同じ土地で暮らすとなったら、どうだろう? 地元で暮らすとなれば、顔見知りも大勢いるし、さぞかし居心地が悪いに違いない。またもし、多少離れた土地でとなれば、今度は逃亡を企てるかもしれない。政府の治安能力が高ければ、それも防げるかもしれないが……この手の下層階級の人々は、しばしば混乱の火種になり得る。つまり、盗賊に身を落としたり、外国の軍隊に通じたりする危険性が付き纏うのだ。
しかし、言葉もろくに通じない、地縁も血縁も何もない土地に送り込まれれば? 自分を購入した主人が与えてくれた環境でしか、当人は生きていけない。これこそ、彼女らが海を渡らねばならなかった理由なのだろう。
さて、こうなってはもう、そ知らぬふりはできない。
俺はチラリと横を盗み見た。まだ、グリーダはこちらに気付いていない。
「あの女は、いくらだ」
「ぷっ……よりによって、お前、まさかのブス専か? 美人のツレがいんのによぉ」
「抱きたいわけじゃない。余計なことは言うな。それより」
「最低落札価格が、金貨二百五十枚。競りはもう終わっちまったからなぁ……こいつらは、その売れ残りだ」
「売れ残りのくせに、そんなに取るのか」
「ああ、ありゃあワケありでなぁ……借金で流れてきたんで、それよか安いと、こっちが損するんだ」
なるほどな。
「じゃあ、原価はいくらだ」
「おいおい、値切ろうってか? よせよ。相場ってもんがあらぁな」
「おい、ナール」
後ろからサビハが追いかけてきた。
「買うんだったら、あたしに任せろ。んで、二百五十枚? このブスがか? バカ言ってじゃねぇよ」
「あぁん? この小娘が。ナメんじゃねぇよ。見ろ、売却委託証があんだろがよ」
「金額も書いてねぇもん見せて、何の証拠になんだよ。吹っかけんじゃねぇ」
ひとしきりやりあった後、俺のほうに向き直って、彼女は言った。
「ナール、金貨百五十枚以上出す必要はねぇ。多分、百二十五枚だ」
「なんでそんなのわかるんだ?」
「相場じゃ、船乗りの取り分は二割だからな」
「ケッ」
ごまかせないと悟った男は、足元に唾を吐きながら言った。
「てめぇら、そこまで値切ったんなら、絶対買えよ? ブスどもの食費もタダじゃねぇんだ」
俺の肩に、シルヴィアが手を置いた。
「ナール」
「どうした?」
「いや、なぜメイドが……」
彼女もちゃんと弁えている。小声でそっと尋ねているので、それとわかる。
「逃がしてくれた」
「そうか」
これを説明した以上、もう逃げ隠れはできない。勇者ナロが恩人を見捨てるなど、あってはならないからだ。それに……
この騒ぎで、グリーダが顔をあげてこちらを見た。あの表情。賢明にも、騒ぎ出したりはしていない。だが、確実にこちらには気付いてしまった。
「おい」
「なんだ、ボウズ」
「少し、彼女と話してもいいか。使い物になりそうか、確認したい」
「早くしろよ」
どうでもいい女奴隷を買うのだと言い聞かせながら、なるべくぞんざいな態度を心掛けた。その甲斐あって、男は興味なさそうに答えた。
「あっ……ああぁ」
目尻に涙を溜め、小刻みに震えながら。
グリーダは歩み寄る俺を待ち受けた。
「静かに」
「はっ、はい」
「なぜこんなところに……いや」
合理的に考えて、理由は一つしかない。
「俺のせいか」
「いっ、いいえ!」
静かに話せと言ったのに。感情が激したのか、すぐにその指示を忘れてしまったらしい。首を大きく横に振って、そこでやっと冷静さを取り戻す。
「確かに、罰は受けました。ただ、お城の仕事からは外されてしまい」
「やっぱりか」
唇を噛む。
俺と関わったばかりに、せっかくの仕事をなくしたんじゃないか。
「それだけならまだ、他の仕事を探す余裕もあったのですが、その」
「なんだ」
「実家に帰ると、母が病になっていまして……でも、誰もお金を出せず」
じゃあ、やっぱり俺のせいじゃないか。王城のメイドのままでいられれば、それなりの仕送りだってできた。なのに、いまや糊口をしのぐこともできなくなって、実家に逃げ帰ったのだから。
「それなら、と私が……お城でいただいたお給金の残りを出しても、少し足りなくて……」
「いくらだ」
「百……いえ、八十もあれば」
「くそっ」
俺の舌打ちに、グリーダは俯いた。つましく暮らせば、一家が四ヶ月は生きていける金額。もし、俺が彼女を買い戻そうと思えば、それだけの負担を引き受けなければならない。救い出してくれるのは嬉しいが、迷惑をかけると思ったのだろう。
だが、苛立っているのは、出費のせいではない。金ならある。背負いきれないくらいに。
俺が怒りを感じているのは、『その後にすべきこと』のせいだ。
後ろにそっと視線を向ける。シルヴィアが俺を静かに見守っている。きっと恩人を救おうとするに違いないと、そう確信している目だ。だが。なるほど、彼女には考える頭こそあるものの、人間の悪辣さという部分については、やはりまだ、思いが至らないのだろう。
俺がしなければならないと思っていること、それは……
グリーダの殺処分、だ。
理由なら、いくつもある。
まず、ここで今、俺がアスカロンにいることを知ってしまった。しかも、背後には彼女も見知っている元副団長までいる。誰を連れているかの情報までセットで把握した、ということだ。
更に、彼女は俺を逃がした張本人だ。勇者として召喚したはいいものの、その魔力が危険な性質を帯びている可能性が高いため、毒殺する……書記官のライアがそう言っていたのを聞いてもいる。つまり、俺について知りすぎている人物の一人なのだ。
まだある。グリーダの話は本当だろうか? 実は、俺を追跡するために派遣されたスパイではないのか。何しろ、俺の顔を間近に見ていて、かつ俺にも記憶されている人間だ。『ナロを庇ったせいで悲惨な境遇に陥った』というストーリーまで仕立てて、各地の港をまわっていた、なんてことはないか? 或いは、この話は半ば真実かもしれない。俺を逃がしたことをトゥラーティア王女あたりに見抜かれて、家族ともども処刑されたくなければ、なんとしてもナロを捕らえよ、とか……とすると、この売主も疑わなければならないが……。
最後に、あの女悪魔の『忠告』だ。いや、今回に限っては『神罰』か。あいつの言う「女難」というのは、こいつのことか? もっとも、それが色恋沙汰に関する何かだとは、ちょっと考えにくくはある。シルヴィアもサビハも、平均よりずっと美人だし、まだ飽きてもいない。間違っても、こちらからグリーダに手を出すことなどない。
もしかすると、これらはすべて、ただの邪推かもしれない。だが、そんなのは関係ないのだ。
なぜなら、俺の存在を知っている以上、どこかで『気が変わった』だけで、こちらの安全が脅かされてしまうからだ。だから、目立たないところで口封じをしなければならない。
恩人に対して?
さすがの俺も、だから板挟みになってムカついているのだ。
「ナール」
「なんだ、サビハ」
「委任状持ちの奴隷商人は、落札額に応じた取り分が認められてるんだ。逆に、その取り分以上の金を自分のものにもできない」
「何が言いたい」
今の話と値段からすると、金貨百枚で二十枚、百二十五枚で二十五枚が船乗りの取り分になる。残りの八十枚、ないし百枚は、債権者、またはグリーダの家族の手に渡る。
「お前にその気があればだが……」
耳に口を寄せ、サビハは俺に入れ知恵する。
「高く買ってやれば、その分、こいつの家族に送金してやれるってことでもあるんだぜ」
そういうことか。
船乗りの手取りも増えるが、それは手数料と割り切るべきだろう。つまり、俺はグリーダの実家に立ち寄ることなしに、恩義に報いることができる。素晴らしい。
サビハは、俺の沈黙を善意に受け取ったのだ。事情は知らないが、きっとこの女はナールの知り合いに違いない。手助けするにはどうすればいいかを教えてやろう、と。
……ならば。
「おぅ? 話は決まったか」
「ああ。この女を買う」
「じゃ、金貨百二十五枚だ。さっさと払え」
「いや」
俺は息を吸って吐き、気持ちを落ち着けた。
「五百……いや、千枚払う」
「ハァ!?」
「手持ちはここにない。宿まで取りに来い」
せめてもの罪滅ぼしだ。
グリーダを家に帰すわけにはいかない。遅かれ早かれ、俺の存在が知られてしまうからだ。女悪魔が言うには、既に誰かは把握しているらしいが、だとしても情報源を与えたくはない。
つまり、どう転んでも、グリーダを連れまわすしかない。そしてもし、スパイである可能性が浮上したら。事実かどうかを確認する余裕などない。その時は、この手で……。
「おっと待った」
サビハが割り込んだ。
「さすがにそんな大金だと、こいつがネコババすっからな。あたしが知ってる公証人のところでやらせてもらうぜ」
衝撃からようやく立ち直った男は、頬を緩めて笑い出した。
「はっ……こりゃあ、ちょっとした小遣いだな! ま、理由は詮索しねぇでおいてやる。ちゃんと払えよ」
「ああ」
俺は頷いた。