第三十二話
勝てない。
このままでは……。
ヒュッ、と伸びた腕が迫る。
身を翻して地面に転がる。さっきまで背にしていた木に、ぽっかりと穴がある。
今なら、奴の攻撃を避けることもできる。だが、これも時間制限付きだ。しかも、奴はまだ、本気じゃない。
ならば、ならばどうする?
可能性のある手段で。奴に勝つには。
女悪魔に……
それはない。
あいつは助言してくれることもある。手助けしないわけでもない。
だが、本当に重要な場面では、基本、ほったらかしだ。
彼女が介入すれば、きっと魔人なんか、一瞬で片付くだろう。だが、そんなつまんないことをしてくれるだろうか?
シルヴィアも、マグダレーナも、今は頼りにできない。
サビハもこの通り、戦闘不能だ。動けても、まず自分を逃がすのを優先するだろう。
そしてここは、ヴァン族が暮らす森の中。誰も助けてなんてくれない。
ということは。
恃みにできるものはただ一つ……。
合理的に考えろ。
俺はクルッと背を向けて、走り出す。
戦闘から逃走に切り替えたかに見える俺の挙動に、魔人は反応した。追いかけてくる。
心配しなくていい。
遠くになんて、逃げない。
俺は、目の前にある家に目を向ける。村の東側にあるから、ヴァン族の家だろう。扉を厳重に閉じてある。だが、木窓を蹴破るくらいなら。
全速力で走りつつ、勢いをつけて、その窓へとぶち当たる。
バガン! と木の板の割れる音を耳にしながら、俺は床に転がった。
「ワァ!」
「ウォ!」
家の中で息を潜めていたのは、主婦とその子供達。四人、か。悪くない。
「はあっ!」
俺は考えるのをやめて、とにかく無心に剣を振るう。一瞬で彼らの喉は引き裂かれ、悲鳴をあげる間もなく、床に転がる。
よし、次だ。
今、四人殺した。あと十六人。それくらいはこの村にいるはずだ。
俺は成果表を思い出す。
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<成果表>
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キル数 ご褒美
………… …………
………… …………
40 火事場の馬鹿力(週1回)
45 ノーマルガチャ7回
50 魔法能力レベル2付与
55 プレミアムガチャ1回
60 戦闘能力レベル3付与
………… …………
………… …………
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あと一人でノーマルガチャ7回、六人で魔法能力レベル2、十一人でプレミアムガチャ。
だが、これはアテにすべきじゃない。
ガチャは何が出るかわからないし、魔法能力についても、それを生かす道具が手元にない。もしあったとしても、レベル2程度で、あの魔人に通用するとも思えない。
だから、目標はあくまで六十人。問題ない。あと四軒、こういう家で人を殺せば。
裏口の扉を蹴破って転がり出る。
俺がどうやってパワーアップするかは、俺と女悪魔しか知らない。だから、魔人には理解できないだろう。なぜ俺が村人を、それも女子供を狙って殺すのか。
幸いなことに、奴には一族の仲間を守ろうという意識があまりない。それは、仲間を巻き添えにするような攻撃を平気で繰り出すこと、そもそも俺やサビハのような強敵相手に、武力のない村人を無理やり立ち向かわせることからも明らかだ。
どうやら、肉体の形状が怪物になるのと同時に、本当に精神のほうも影響を受けてしまっているらしい。普通だったら、非戦闘員の村人がどんどん殺されるとなれば、血眼になって追いかけてくるものだと思うのだが。
次の家だ。
魔人も後ろから迫ってきている。伸びる右手を避けながら、俺はまたも窓から滑り込んだ。
きっと奴は、俺が身を隠す場所を探しているとか、そんな的外れな推測をしているに違いない。
「ひっ!」
目の前で老婆が、驚いて目を見開いている。これを真っ二つ。
足元にいた幼児二人を串刺し。
物音に気付いて駆け寄る女の首を刎ね飛ばし。
家の奥、角部屋の扉を開けた。
目が合った。
そこにいたのは、確かにあの人夫の息子。
……こんなところに。
反射的に、そいつはバタバタと手足を動かし、棒か何かを拾い上げようとした。
だが、その行動が形になる前に、俺は胸を一突き。
短い呻き声をもらして、そいつはベッドの上に仰向けになった。
視線を横に向ける。
大きな袋。見覚えがある。
シルヴィアが宝石を詰め込んでいた、あの袋だ。
ここにあったのか。
だが、今はそれどころではない。
俺は窓を蹴破ると、後ろから迫ってくる足音をやり過ごすために、またも外に転がり出た。
残り時間は……
『15分』
まだある。
残り十一人。
小さな家を狙っていては効率が悪い。
なら、手近なあの大きな家。あれがいい。
今度は真正面から扉を蹴飛ばした。そこまで丈夫に作っていなかったためか、扉は簡単に吹き飛んだ。
中には、女子供、それに老人が集まっていた。
小さな家々がいくつも燃えたせいか。一時的に、この大きな家に集められたのだろう。
だが、俺にとっては都合のいい餌だ。
俺は無我夢中で剣を振るう。耳に悲鳴は届かない。息を吸うのも吐くのも忘れて、俺は必死で暴れ続けた。
ふと、背後に気配を感じて、慌てて突っ伏す。その頭上を風が吹き抜けていく。
気付けば、家の中は阿鼻叫喚の地獄と化していた。無数の死体が横たわっている。立てられていた燭台のいくつかは倒れ、或いは火を消し、或いは何かに燃え移り……そんな中、出入り口に、魔人が立っていた。
逃げ場は、と周囲を見回すが、窓は高い位置にしかない。あの扉、魔人のいる場所以外、出入りできるところはない。
深呼吸。
そして、床に転がる死体を数えてから、俺はまっすぐに剣を構え直した。
これで駄目なら。
もう、助からない。
キル数、ちょうど六十、のはず。
今の俺の戦闘能力はレベル3相当。そこに火事場の馬鹿力が発動している状態だ。シルヴィア相手にも圧勝できるくらいの、一流戦士の能力が備わっている。
すべてを……この一撃に賭ける!
「ああああっ!」
「ンゴアァッ!」
俺も魔人も、雄叫びをあげながら、敵へと突っ込んでいく。
俺のすぐ真横を、暴風のようにすり抜けて行く奴の右腕。避け切ったと同時に、俺は剣を振り上げ、叩きつける。
そこには、奴の左腕が。さっきより更に幅広に、分厚くなっている。
「らああぁっ!」
力任せの一撃。
一瞬の抵抗感、だが剣を一気に振り抜いた。
俺の一撃は、魔人を後退させた。
我に返って、奴を見据える。左腕の膨れ上がった装甲は、半ばまで砕かれ、散らばってしまっていた。
だが、安心するにはまだ早い……。
「ンギャグワァ!」
怒り狂った魔人は、自分の左腕で、右腕を、根元から引き千切った。と、見る間に無数の触手が新たに生えてくる。
一体何を……と見とれているうちに、右肩自体が不自然にどんどん膨れ上がっていく。そこには、元の腕より少し細い触手が、いくつも育ってきていた。
「嘘……だろ?」
「シャギャアッ!」
その数本の触手が、一気に俺に襲い掛かる。
最初の一撃は剣で受けたものの、勢いと、血糊に足を取られ、転倒したおかげで、直撃を避けることができた。
なんてやつだ。
見れば、左手の装甲も、徐々に回復しつつある。
あの右腕だった触手の群れ。射程距離は短くなったし、細くなった分、威力も下がった。一撃で即死はしないだろう。だが、あれに捕まったら。細くて数があるだけに、絡め取られたら、もう助かるまい。
当然、奴もそれを狙っている。遠くからの伸びる右腕では避けられるから、密着して接近戦でしとめようと考えたのだ。
しかし、この再生力。
ちょっとやそっとのダメージでは、トドメが刺せない?
なら、どうすれば……
首。
合理的に考えて、首だ。
さすがにこいつも、首から体全体を再生するなんて、無理だろう。
また、首がないのに、胴体を動かすのも、あり得ない。
ただ、こいつもまるっきりのバカじゃない。
俺の剣の切れ味はわかっているらしい。装甲をブチ壊されたから、本気を出したのだ。
今も、俺が転倒したのに、調子に乗って襲ってこなかった。この剣の威力を知って、用心深く立ち回るようになったからだ。
この状況で、首まで辿り着けるか?
右肩から、あんなにも触手が生えてきていて。いくら火事場の馬鹿力があるとはいっても、どれか一つでも直撃すれば、きっと大ダメージだ。
そして、奴はいくらかは攻撃にまわしても、防御を忘れるなんてことはないだろう。
そう考えると、最初の攻防で倒しきれなかったのは痛かった。奴にとって、左腕の装甲で受けるという防御行動は、あくまで念のための保険でしかなかっただろうからだ。
あの再生能力がある以上、少々の傷は問題とならない。つまり、本気で守るつもりがなかった。
であれば、最初から首を狙っていれば。或いは倒せたかもしれなかったのに。今はもう、駄目だ。奴は俺の剣を、その切れ味を恐れている。
問題は、時間だ。
こちらの能力は、あと十分ちょっとで大幅に下がる。
一方、奴には再生能力がある。持久戦は望むところだろう。
……ならば。
イチかバチかだ。
俺は、剣の切っ先を斜め後ろに向けて、タメを作る。
この姿勢に、大きな一撃がくるかも、と魔人も警戒し、構えを取る。
次の瞬間。
「ほわっ!?」
剣を振り抜いた……はずが、手から剣がすっぽ抜け、魔人めがけて飛んでいく。複数の触手と左腕の装甲が、それを受け止める。
「ちっ!」
俺は背を向けて、逃げ出そうとする。だが、周囲は壁だ。外には出られない。
飛んできた剣をその場に捨てると、魔人は慌てず急がず、ジリジリと距離を詰めてきた。今、奴にとって一番困るのは、俺がこの建物から抜け出すことだ。走って追いかけっこになったら、また追い詰めるまで、手間をかけねばならない。
だから、忙しく左右に動く俺に対して、奴はあえて鈍い反応をする。とにかく出口を塞ぐ立ち位置で、少しずつ距離を詰めてくる。
……狙った通りだ。
そろそろ、右腕だったはずの触手の射程距離だ。魔人とは十メートルほど。今の俺なら、一瞬で間合いを詰められる。
左に逃げる、と見せかけて、俺は真正面にダッシュした。
「ンギッ?」
奴からすれば。武器もないのに、俺は突っ込んできた。警戒すべきものがない。
それでも、懐に入り込んだ俺を、奴は無数の触手で絡めとる。そして、ベアハッグよろしく抱きしめて……その、ピラニアみたいな口元で、噛み付こうとしてきた。
今だ。
念じることで、『黒霧』は、俺の右手に舞い戻る。力を振り絞り、左腕で奴の後頭部を掴む。そして、下から右手で、奴の首元に剣をあてる。
「ングゲェッ!?」
捨てたはずの剣がどうしてここにあるのか。
戸惑いながらも、俺を絞め殺そうと触手に力を込める。だが、俺も全力で、首に刃を食い込ませる。
長いようで、一瞬だったのかもしれない。
「ギ……ギッ」
分厚く、刃の通らない感触が、スッと楽になる。
右腕が、ふっと軽くなった。
剣が奴の首を両断したのだ。
ズシャッ、とその場に崩れ落ちる魔人の肉体。しかし、俺の左手が掴んでいるその首は、まだ生きていた。そして、首の切断面から、弱々しく触手が伸びる……。
「バカ……げてる……!」
この生命力。
ほっといたら胴体と繋がって、復活するかもしれない。
俺は首を出口に向かって投げ飛ばした。雨の降り注ぐ屋外に、そいつは放り出された。
走って追いつく。相変わらず、触手は小さく動き続けていた。
「こ、このっ! 死ねっ! 死ねっ! 死ねぇっ!」
俺は半狂乱になりつつ、剣を何度も何度も叩きつけた。
そのうちに……ズタズタになったその首は、動かなくなった。