第二十九話
「ここ、か……」
雨の中、俺はずぶぬれのまま、一軒の木造家屋を見上げていた。屋根は藁葺きで、部屋が四つか五つほどありそうな平屋だ。
風の勢いはやや収まってきている。だが、雨脚は強くなるばかり。頭上は濃い黒雲に覆われ、ほとんど夜といってもいいほどの暗さだった。時刻としても、そろそろ日没。帰り道を見失わないためにも、とにかく急がなければ。
優先順位は、とにかくシルヴィアの治療第一だ。この家に住んでいる連中は、例の家族連れに違いない。だが、俺は気付かないふりをする。薬を売ってくれ、といい、買い取る。それだけで引き返す。金貨や宝石を奪い返すのは、あとでいい。最悪、逃げられても仕方がない。
「ごめんください」
声を張り上げる。
「旅の連れが病気になりました。薬草を売ってください」
しばらく返事がない。
だが、ややあって扉がゆっくりと開く。
中から出てきた男。やっぱりこいつは。
顔色を変えるな。そ知らぬふりをしろ。
「すみません、クッコロ草を買いたいのですが」
夫婦喧嘩を演じていた男だ。そいつは、焦げ茶色の顔を伏せたまま、白い目だけをグリッと向けてきた。
「おいくらでしょうか」
金貨数枚を取り出す。
「……入れ」
男は家の中に入るよう、手招きした。
はて、何のためだ?
「済みません、お招きありがたいのですが、急いでいます。ここで薬草を受け取ったら、すぐ戻らないと」
家の中は奴らのテリトリーだ。迂闊に踏み入ったら、不意討ちを浴びせられるかもしれない。
そう警戒していると、男は言った。
「金貨百枚だ」
「は?」
「百枚」
「そ、そんな! さすがに、そんなには持ってきてない!」
こいつ。
俺から大金を奪っておいて。
合理的に考えてみる。
こいつの頭の中は、どうなっている?
俺が姿を見せた時、最初に考えたのは報復だ。俺が一人で来たのか、実は森の中に仲間がいるのか。それがわからなかった。
だから、まず俺に家の中に入るように言った。とにかく俺を押さえ込んでしまえば。人質がいれば安心だ。
しかし、俺はそれを拒否した。そして、相変わらず薬が欲しい、急いでいると言った。これをどう解釈したか?
一人で来たらしい。仲間が病気なのも本当だろう。それどころか、こちらの顔を覚えてさえいない。とんだ甘ちゃん、お坊ちゃんだ!
あれだけ大金を持ち歩いていたんだから、どこかの御曹司か何かかもしれない。なら、もうちょっとふっかけてやれ。
「なら、帰れ」
そういって男は背を向け、扉に手をかける。
「なっ……!」
まずい。
こいつらはどうする? 俺が何かの拍子に顔を思い出すかもしれないし、既に見抜かれている可能性もある、となれば。金貨や宝石をここに残しているなら、きっとそれを担いで、さっさと逃げ出すに違いない。
それはまだいいとしても。そうなっては、取り残された薬草の中に、クッコロ草があるかどうかわからない。
「ま、待ってください! 開けてください!」
そう言いながら、俺は念じて、『黒霧』を出現させる。
扉が開き、中からさっきの男が出てくる。
「この剣、業物ですよ。これと交換してください」
奥の手だ。
これならコストゼロで取引ができる。あとで回収すればいいんだからな。
「……地面に置け」
俺が剣を持ったままでは、確かに危険すぎるか。近寄った瞬間にバッサリ、なんてのもあり得る。
俺が言われた通りにすると、男は剣に近寄ろうとする。
「待て」
俺の声に、男は動きを止め、こちらを見上げる。
「クッコロ草が先、先です」
だが、そいつは俺の主張を鼻で笑い、さっと『黒霧』を拾い上げた。その刃先の美しさに見とれながら、家の中に戻っていく。
これは……
交渉決裂だな。
こいつには、取引する気がない。奪うだけ奪ったら、あとはどうでもいいと思っている。
ならば、無理やりでも、もらおう。
どうしようもない。
俺は玄関に向かって走り出す。と同時に、手元に『黒霧』を呼び戻す。
振り返った男は、咄嗟に剣を振り上げる。だがそこにはもう、朧な黒い霞が残るだけだった。
「食らえ!」
泥を蹴散らしながらの一突き。『黒霧』の鋭利な切っ先は、胸から喉までを軽々引き裂いた。
男は声をあげることもままならず、玄関先にしゃがみこみ、そのまま仰向けに倒れる。
そこで、玄関の右側から、十五歳くらいの少年が顔を出す。いきなりのことに動揺したらしい。だが、その隙も見逃さない。
「ぎゃああ!」
さすがに、体の半分が壁に隠れている相手を倒すのは無理だった。だが、右手首から先を切り落としてやった。このままトドメだ。
そう思って家の中に飛び込んだ。そこで気付く。
「くたばりな!」
男の一人目の妻、年嵩の女が、木の棒を持って待ち構えていたのだ。俺は咄嗟に『黒霧』の刃先で受ける。刃が木に食い込み、半ばまで食い込む。
この切れ味に、女は目を白黒させた。驚いたのは俺も同じだったが。しかし、すぐに状況を飲み込んだ彼女は、今度はこの細い剣をへし折ろうと、木の棒を押したり引いたりし始めた。
だが……この剣は折れないし、曲がらない。
「ふんっ!」
俺が刃を滑らせながら引き切ると、あっさり木の棒は両断された。目をむく彼女に、俺は容赦なく逆袈裟斬りを浴びせ、片付ける。
「ああっ、か、母さん!」
俺の右側、足元で、手首を失った苦痛に悶えていた少年が、やっと我に返る。だが遅い。
「ぐ」
その首元に切っ先を走らせる。それだけで沈黙した。
やった。
やってしまった。こうなったらもう、引き返せない。
「ど、どうしたんだい……!?」
中からドタドタと、大股に転がり出てきた老婆。初めて見るが、察するに、こいつが留守番だったのだろう。
俺は無言で剣を振るう。だが、意外にも我ながら冷静だった。
「ぎゃっ!? ぎっ!?」
片手と片足に斬りつけた。これで行動は封じた。殺してもいいが、今はまだ、まずい。
玄関口はもう、血塗れだ。だが、この家にはまだ、少なくとも女が一人と、少女が二人いたはずだ。
壁の向こうから足音が聞こえる。状況を察して、裏から逃げようとしている?
させるか!
俺はとにかく片っ端から扉を開けて、音の聞こえたほうに迫る。
玄関の反対側、山の斜面側の、薄暗く狭い部屋の中で、女が少女二人を急き立てていた。
「待て!」
俺の姿を認めると、進むも退くもならず、硬直する。構わず左手首を切り落としてやった。
「あっ! あああ!」
「きゃあ!」
「ママ!」
少女達は目を泳がせる。
思えばこいつらも共犯者なんだよな。俺達に目潰しをかましやがった。
俺は一人を蹴倒し、もう一人の髪の毛を掴んで引き起こして、首元に刃をあてる。
「おい」
痛みに悶えながら、女は四つんばいになったまま、こちらに振り返る。
「クッコロ草をもってこい」
「ひ……え?」
「もってこい! じゃないと、娘は殺す!」
俺の恫喝に、女はノロノロと起き上がり、部屋を出て行く。
ややあって、彼女は戻ってきた。
「こ、これ……」
緑色の草が一束。これで足りればいいが。
「それで全部か」
「い、今、うちにあるのは」
「よし、ならいい。それを床に置け」
女は、言われた通りにした。
だが……。
俺は、不意に刃を引いて、一人目の少女を絶命させた。
「ひあっ!」
そして、踏みつけて押さえていたもう一人の少女にも、一突き。
「ぐえぅ」
「アミナ!」
「うるせぇよ」
少女達を片付けた俺は、残った女に大股で歩み寄り、髪の毛を掴む。その顔面に、剣を持った手で、拳を叩き込む。
二、三発ほどで済ませると、今度は切っ先を服の襟元に引っかけ、一気に引きおろす。綿飴みたいに服が裂けた。
「や、やあぁ!」
「だからうるせぇってんだ」
もとはといえば、この女は首謀者の一人だ。こいつの演技に引っかかったから、シルヴィアは今、あんなにも苦しんでいる。
となれば、ただで済ませるわけにはいかない。
「や、やめて」
「いい根性してるな? 娘が二人、目の前で殺されたのに、まず自分の心配か」
「ひっ」
いっそ強姦でもしてやろうか。
自分の中で、嗜虐心が途方もなく膨れ上がっていくのを感じた。
だが……。
「ぎっ!」
強姦する代わりに、俺は下着の上から、『黒霧』を突き刺すだけで済ませた。
今は時間がない。シルヴィアのために薬を持ち帰るのが最優先。だから、合理的に考えて、こんな女にこれ以上、手間をかけるわけにはいかない。
だが、まだ息がある。
しっかりトドメを刺さないと。俺は剣を逆手に持って、全身をズタズタにしてやった。
そしてまた、玄関に戻る。
そこにはまだ老婆がいた。
「はっ……あ、あんた」
這いずりながら、俺に尋ねてくる。
「子供、子供達は」
「答えろ」
俺は無視して、強い口調で問いかけた。
「これはクッコロ草か? 嘘をついたら、奥にいる孫を二人とも殺す」
実はもう死んでいるのだが、脅さないと嘘をつくかもしれない。
「そ、そうだ! それだよ!」
「もし違っていたら……」
「間違いないよ!」
「そうか、わかった」
俺は軽い刀身を滑らせて、この老婆の命も絶った。
本当のことを言おうが言うまいが、殺すしかない。生き残ってしまったら。そしてここでの殺戮の事実が伝わったら。リスクしかない。
家の中にいる人間は、これがすべてだったらしい。
念のため、生き残りが隠れていないか、すべての部屋を見回って探してみたが、発見できなかった。
おかしいな? 俺の計算ではあと一人……殺された人夫の息子がいたはずなのだが。しかし、窓には開けられた形跡がなかったし……もし窓から逃げたのなら、そこから多少なりとも雨水が入り込んでいたはずだから……裏口はさっきの一つだけ。となると、どこへ行ったのか。
裏口とは反対側の、奥まった寝室に、金貨の袋があった。やはり、ここに置きっぱなしにして報告にいったのだ。しかし、宝石がない。目方が軽い分、先に運ぶことにしたのだろうか?
だが、今、これを持ち運ぶのは愚策だ。なんといっても重いし、道はぬかるんでいるし、何よりもう夜だ。無事に村まで引き返すのが最優先という状況で、無理をする意味がない。
まずはこのクッコロ草を、シルヴィアのために持っていく。
家の外に出た。大雨が降っている。俺の衣服に飛び散った返り血も、きっと洗い流してくれるだろう。
だが……。
振り返って、改めて家を見上げる。
俺の中には、言い表しようもない快感が広がっていた。或いは解放感、とでも言えばいいのか。
そうだ、解放感だ。
今までずっと我慢していた何かが、スッと消え去ったような。
この感情を、どう説明すればいいのだろう?
だが、浸っている時間はない。
我に返ると、俺はセト村へと走り出していた。