第二十六話
見上げれば大粒の雨。それが灰色の空から容赦なく叩きつけてくる。
指先に力をこめる。雨水で滑ってずり落ちるなんてごめんだ。右手、左手、右足、左足……ちゃんと体重をかけられる状態になっていると確認して、一段上へと手を伸ばす。
「チンタラしてんじゃないよ。それともあたしの尻をそんなにじっくり見たいのかい?」
頭上から降ってくるのは、雨粒だけではない。サビハの容赦ない罵声も一緒だ。
「見たいって言ったら、見せてくれるのか」
俺も負けじと言い返す。とはいえ、彼女ほど登攀に慣れているわけではないから、どうしたって口先だけ。手を伸ばしてイタズラする余裕なんかない。
「金次第だね。いくら出すんだい?」
「銅貨一枚」
「ブタの尻尾でもしゃぶってな」
そんな口をききながらも、さすがは熟練の冒険者。この崖をすっと登りきった。
俺達はというと、あとちょっとかかる。
「じゃ、いくらなんだよ」
「金貨百枚」
「そればっかだな。けど、覚えとけ。散々コケにしやがって」
「おっと、やっぱ金貨千枚」
「ふざけるな。お前の体なんかにそんなに価値があるとでも思ってるのか」
「あったりめぇだろ? モノにしたけりゃ、お前の人生全部差し出しな」
彼女の下品かつ粗暴な物言いに影響されている自覚はある。だが、やむを得ないと割り切ってもいる。
シルヴィアやマグダレーナ相手にはそんな口のきき方はしないし、できないのだが、こいつ相手に礼儀正しい態度を取ると、余計にナメられる。
ただ、俺があんまりひどい言葉を使うと、マグダレーナが少し嫌そうな顔をする。まぁ、サビハの相手は、ヴァン族の集落まで行って帰ってくるまでで終わりだし、とりあえずは我慢してもらおう。
というか、むしろ好都合か。これで俺のことを見限ってくれれば……シルヴィアの不機嫌も治るし、合理的じゃないか。
「割が合わないな。他人の手垢のついた尻なんか」
「ちょっと待てよ。誰のケツに手垢がついてるって?」
「お前だよお前。どうも商売上手みたいだしな」
やっと頂上に肘を乗せ、体を引っ張り上げる。
すると、サビハは俺に手を差し出してきた。態度こそ粗野そのものでも、そこはやっぱりプロなのか、雇い主を守ろうとする姿勢は見せてくれる。
「おら、掴まれよ」
「助かる」
「よっ……と」
体半分が持ち上がり、上半身が頂上の上に転がる。だが、なぜかサビハは手を離してくれない。どころか、余った手で俺の胸倉を掴んできた。
「で、よぉ」
「なんだ」
「あたしゃ今まで、自分の色気をダシに仕事したこたぁねぇんだ」
「それで?」
「ナメたマネしやがったら、突き落とすぞコラァ!」
そういうことか。
「そいつはいいな。ナメたこと言いやがったら、てめぇのケツを勝手にガン見してやる」
下品だ。だが、あえて張り合わねばならない。
でないと、こいつに主導権を取られてしまう。
「フッ……ハハッ、ガキンチョが言うねぇ」
なぜか俺の受け答えが気に入ったらしい。
多分だが、彼女は「弱い奴」が大嫌いなのだ。軟弱な意気地なしというのが。口ばっかりでも駄目なのだろうが、虚勢すら張れない、お上品なだけの人間を軽蔑しているふしがある。
彼女を案内人にしてからのこの二日、何かやり取りするとなると、いつもこんな感じだ。
「このあたし……『黒豹』にそんな口をきくなんてね」
「はぁ? 黒豹?」
「あたしの通り名だよ。この辺じゃ、知らない奴ぁいない」
なんて厨二っぽい。
が、駆け出し冒険者にあだ名なんかつかないだろう。それなりの実績があればこそなのだ。
「ま、言うだけ、見るだけなら好きにしな。けど、勝手にあたしに触った男は、全員手首から先がないからね」
そう言うと、彼女は目を細めた。
そして、崖の下に視線を向ける。
「おい! てめぇら! 遅ぇぞ!」
時間がかかっているのは、なんとシルヴィアとマグダレーナだ。最後尾を登っている。
最初、一番体力がないのは俺かマグダレーナだと思っていたのだが、意外にもシルヴィアがへばってきている。
体力オバケだった彼女にしては、随分と調子が悪いようだが。
「ったくよぉ……少しでも追いつきたいっつうから、無理してこんなところ突っ切ってるんだろうが」
「ぐっ……すまない」
登りきった二人をねめつけながら、サビハは恨み言を口にする。
と、その時、彼女の仲間の一人が、駆け戻ってきた。
「見つけたぞ」
「おう」
「なに!」
ここまでの道程は決して楽ではなかったが、もう追いつけたのか。
山道に入って、まだたったの二日だ。これは運がよかったかもしれない。
「焚き火の跡なんだが」
「わかった。まず見るよ」
それで俺達は、早速その場所へと向かった。
木々が密集して枝を広げた、そのすぐ下に、小さな焚き火の跡があった。
風雨を遮る太い木の幹は壁、地面から迫り出す根は、都合のいい椅子だった。
素人目にも、その焚き火はまだ新しかった。
「まだ一日経ってねぇな」
サビハは、そこからの足跡をじっと目で追う。
木の下を出ると、すぐにぬかるみに出る。大雨のせいで足跡は掻き消されつつあるものの、ちょうど枝の先端のすぐ下、雨で湿っているのに水滴があまり落ちてこない場所では、くっきりと残っていた。
「ひい、ふう、みい……ふん、バッチシ人数通りだ。大人の男が五人、女二人、ガキンチョ二人。余計なのはいないみたいだね」
木陰から、彼女は道の先を見つめる。
折から風も強くなりはじめ、白い水滴が斜めに落ちてくる。よじれた枝に、たなびく葉。雨はそこにぶつかっては弾け、大きな音をたてている。
「この先は……まじぃな」
「何かあるのか」
「んー? 休憩できるぜ。よかったな」
「皮肉がこもってるぞ」
「そりゃあな」
舌打ちひとつ。
彼女は溜息をついてから、説明した。
「この先にあるのは、セト村だ。ヴァン族とクテ族が一緒に暮らしてる」
「えっ?」
「んで、そのまた向こうはナーガ山だ。道がやたらと険しくてな、この雨じゃ、先に進むのも危険だ」
「ってことは……」
「最悪、最悪だが、セト村で待ち伏せってこともあらぁな」
マジか。
村全体と、俺達で戦闘?
「ただ、あたしらの追跡に気付いてるフシはねぇ。運がよけりゃあ、盗んだ連中と出会えるぜ」
「悪ければ?」
「待ち伏せ以外だと、この大雨の前に、奴らが山に入った場合だな。そうなったらもう、追いつけねぇが……」
喋りながら、彼女は雨の中に踏み出した。
「行こうぜ」
しばらく森の中の道を進む。靴の中はもう、水と泥でいっぱいだ。横殴りの風雨に視界も遮られる。
まったくもって、冒険者というのは過酷な仕事だ。こんなものになりたがる奴の気が知れない。ただ稼ぐため、生きるためとすると、あまりに非合理、非生産的だ。ピールの街でも食い詰め者の傭兵どもが悪さをしていたが、要するに、まともに社会で生きられない、掃き溜めどもの行き着く先なのだろう。
日本にいた時には、冒険者という響きに憧れがないでもなかった。だが、ゲームの画面の中からキャラクターを操っていたから考えもしなかったが、よくよく考えると、冒険者の仕事って、いわゆる『4K』なんだよな。キツい、汚い、危険、給料が安いか安定しない。してみると、ゲームをプレイしてキャラに苦難に満ちた冒険を強制していた俺は、差し詰めブラック経営者か。
「止まれ」
いきなりサビハが足を止める。
敵か? と身構えるが、彼女は平静そのものだった。
しゃがみこみ、足跡をじっと見る。正面と、左側の森の中。そちらには獣道が見える。
「弱ったな」
「どうした」
「足跡が二つに分かれてるんだ。いや、もうちょっと込み入ってるというか……」
彼女にしては歯切れが悪い。
「まっすぐ行きゃあ、セト村だ。だが、そっちに向かってる足跡は、二つ、いや、三つ、か? 全部大人の男だな。で、残りはこの森の奥だ」
「どっちを追うか、という問題か」
「いやぁ、そこはそんなに難しくねぇんだ。奴らがヴァン族の本拠地に向かってるなら、こっちの道はねぇよ。セト村に行かねぇって手はないんだ」
「じゃあ、何しに残りはこっちへ?」
「一つには、女二人、子供二人だな。そいつらを休ませる。足手纏いになってただろうからな」
ということは、この獣道を追っていけば、いずれは奴らの片割れに追いつける。休憩するためにそちらに向かったのなら、小屋とか家とか、何か拠点があるはずだ。
俺達は今、八人いる。この人数で襲い掛かれば……足跡からすると、男が二人、向こうにいるのだろうが、勝ち目は十分にある。残った女子供を人質にすれば……。
「ただ、そうなると、残った二人か三人だな。そいつらは、セト村に向かった。あいつらが、村を越えて山まで行きつけたのかどうか、そこだな」
「引っかかるな」
「なにが?」
「いや……俺達の荷物は、結構な重さだったはずだ。男三人で運んだとしても、山道を行くには、結構苦しいはず……」
「んだよ。そんなに嵩張る代物だってぇのか?」
「あ、ああ。まあ」
金貨だけでも、七十キロくらいはあったはず。三人で分けても二十キロ以上。しかも、彼ら自身の装備もある。食料に水、着替え、山中の移動に欠かせない小道具……。
俺ならどうする? 馬鹿正直に全部運ぶだろうか?
「それでも、あたしらが行くのはセト村だな」
「なぜだ?」
「本拠地に盗品を運ぶなら、あそこを通らないってこたぁない。入り口塞いどきゃ、そのうち鉢合わせするってもんだ」
「その鉢合わせが、袋叩きってことはないのか」
「あり得るな! ハハッ!」
その時は、血路を開いて逃げ延びよう。
金も宝石も、あとサビハ達も捨てていく。
「行くぞ」
判断を下すと、彼女はさっさと歩いていく。
それに四人の男もついていく。
だが、後ろでは……。
「シルヴィアさん、大丈夫ですか?」
「む……問題ない。私がこの程度のことで」
「でも、顔色が」
「問題ないと言っている」
明らかに体調が悪そうなシルヴィアと、それを心配するマグダレーナ。
はてさて、どうしたものか?
シルヴィアの武力と献身は得がたい。正直、金や宝石を取られたのは痛いが、それ以上に彼女をこんなことのために失うのは、俺にとって合理的ではない。ここまで調子が悪いのなら、いっそ、諦めるのも手だ。
しかし、そうはいっても、ここでは休めない。
「シルヴィア、体調は悪いかもしれないが、村までは行こう。そこで温かいものでも食べて、今日は休んだほうがいい」
「そんなっ、悠長な」
「俺も疲れてるし、第一、この雨じゃあ、山道も危ないらしい。先に進めないのは、泥棒どもだって同じだ」
「……ナールがそう言うのなら」
それでようやく、彼女は前に進み始めた。
セト村は小さな集落だった。山の中のまとまった土地に、二十件ほどの木造の家が広場を囲んでいた。
宿屋なんか、あるはずもないが……。
「お前ら、ここで待ってろ。あたしが宿をとってくる」
「ああ、任せたほうがいいんだろうな」
「お前らはクテ族の家に泊まれ。あたしらは、ヴァン族のほうに行く。先にお前らだ。いいな」
合理的だ。
彼女らは少しでも情報をとりたい。だから、ヴァン族の家に泊まる。しかし、俺達が直にそれをやると、泥棒達とバッタリ出くわす危険もある。
だから、俺達のことはギリギリまで隠したい。そういうわけで、先にクテ族の家に押し込むのだ。
「一応、少し経ったらお前、ナールっつったか? お前だけは、村の入り口に戻ってこい。フードはかぶっとけよ? それまでに、聞き込みは済ませておいてやる」
「助かる」
こうして俺達三人は、とあるクテ族の家に押し込まれた。しかし、一室しか与えてもらえない。そういくつも部屋がある家ではないので、仕方がないのだが。
全身から雨を滴らせつつも、とりあえずは革の鎧を脱ぐ。シルヴィアとマグダレーナは、布一枚の仕切りの向こうだ。
「ふいーっ」
「お疲れ様です」
向こう側からマグダレーナの声。
「いや、二人とも、お疲れ」
といっておいてから、シルヴィアに対してはともかく、マグダレーナに対しては遠慮がない物言いだったかと思って、慌てて言い直した。
「っと、済みません、ついてきてもらっているのに」
「いいええ。ふふっ、普段はそんな感じでお話なさるんですね」
まったく厄介だ。
彼女にかかった『レア彼女』の効果は、存外に強力らしい。ちょっとやそっとでは、気持ちが冷めたりなど、しそうにない。
「お気遣いなんて、いりませんよ。むしろ、気楽になさってください」
「あ、はぁ」
「ふふっ……あら?」
なんだ?
「シルヴィアさん、服を脱ぎませんと」
「あ、ああ」
「風邪を引いてしまいますよ? どうなさったんですか」
「ああ、な、なんでもない、なんでもないんだ」
はて。
俺がいるからか? 彼女は貪欲だが、羞恥心がないわけでもない。俺と二人きりなら脱げる服、しかしそこに第三者がいたら。
「俺はちょっと出てくる。シルヴィア、ゆっくり休んでくれ」
「あ、待ってくれ。私も、私も行く」
「いや、疲れてるみたいだし、のんびりしてくれ。それに俺一人ならともかく、シルヴィアまで連れていたら、目立つだろう? もしこの村に、泥棒の仲間がいたら」
「あ……ま、まぁ、そうだが」
「じゃ、行ってくる」
くそっ。
せっかく乾いたタオルで体を拭いたのに、また濡れたブーツを履くのか。
ま、仕方ないか。今のこの苦労を労働に換算してみればいい。取り戻すつもりの金貨や宝石の価値と比べれば、どれだけ効率的か。
「マグダレーナさん、あとはお願いします」
そう声をかけて、俺は外に出た。




