第二十三話
「ぐふっ……おのれ、騎士たる私が、このような醜態を……」
「今日、今日で終わるから……うぷっ」
二人して寝台の上に寝転がり、呻くばかり。
食事も喉を通らない。
「さあさあ、この薬湯をお召しになってください、お二人様」
そこに降り注ぐ天使の声。
俺とシルヴィアは、しっかり船酔いにやられていた。
初日こそ、天気も上々、この上なく快適な航海となったが、二日目からみるみる空模様が怪しくなり、すぐさま暴風雨となった。
船乗りの腕がいいのか、船が沈む気配はなく、そのうち雨も止み、強風だけが残った。それでも波は変わらず高く、揺れは収まらなかった。
何の対策もしていなかった俺、それに海上での活動経験がなかったシルヴィアは、完全に動けなくなった。一方、港湾都市に一年以上暮らし、船酔いのことが意識にあったマグダレーナはというと、ちゃっかりと薬を用意しており、今もピンピンしている。
その結果がこれだ。
「さ、一口ずつですよ」
「う、む、んっ」
「恥じることはありませんからね、誰でも病気になることはあるんですから」
「ぐっ……す、済まない……」
「あっ、ベルトを緩めてくださいね、締めないほうがいいんです」
迂闊だった。
船酔いの知識はあっても、船旅の経験はなかった。だから、すっぽりとその辺の問題が抜け落ちていたのだ。
何より、先を急ぎすぎたのもある。ゆっくりと航海について考える前に、とにかく逃げようとした。
船は今日中にも、ケンティアイ港に到着する予定だという。
ゾナマきっての大都市であるゴヤーナの玄関口だ。
「これは、下りてからも少しだけ、休まれたほうがいいですね」
「そ、そんな、こと、はっ」
「ご安心ください。ゴヤーナにも、サーク教の教会施設がありますから、そちらに泊めていただきましょう」
完全にマグダレーナのペースだ。
現実問題、体調不良のまま、新しい土地で動き回るなど、危険極まりない。
これでは、彼女を撒くなんて、夢のまた夢だ。
左右に突き出た半島に囲まれた、ほぼ円形の湾内に入ると、波も静かとなった。
それにしても、周囲はほぼ緑一色だ。すぐ足元の海はエメラルドグリーンで、前後左右の陸地は、全部鬱蒼と茂るジャングル。当然のことながら、外は日差しが強く、非常に暑い。それに湿気も凄まじい。
しばらくして、船が岸辺に繋げられると、順次下船となった。俺達は大荷物があるので、そんなに機敏には動けない。割と最後のほうになってから、船員にチップを払って、荷物を波止場まで出してもらった。
思えば、グオームまでは馬車の移動だった。そこでずっと同じ宿に泊まっていたから、この山積みの荷物をどうするかなんて、あまり考える必要がなかった。しかし、これではいかにも不便だし、非効率的、非合理的だ。荷物を減らすことを検討したほうがいいかもしれない。実際、シルヴィアの金属鎧とか、使ってないものがかなりあるのだし。
「それでは、私が馬車を呼んできますね」
マグダレーナが小走りになって、通りのほうへと向かう。
その間に、俺とシルヴィアは、小声でやり取りする。
「しっかり捕まってしまったな」
「どだい、この荷物があるのに、逃げるなんて無理だ」
「だが、このままでは……ナール、私達に付き合わせると、彼女まで危険な目に遭いかねん」
それも懸念点だ。
ガチャで引き当てられただけで、いきなり俺達に巻き込まれて死ぬとか……。
もっとも、それを言い出したら、シルヴィアこそ被害者そのものなのだが。
但し、本人にその自覚はない。
「荷車しか見つかりませんでしたが、呼んできましたよ! さ、荷物を載せましょう」
やってきたのは、浅黒い肌の人夫が二人。白目だけギョロッとした中年男と、その息子だった。白い半袖シャツを着ているが、微妙に薄汚れている感じがする。それにしてもこいつら、まったく愛想がない。どころか、その無表情さは、どうにも俺を不安にさせた。
「助かる」
シルヴィアは礼を口にする。
「いいええ、せっかく学んだゾナマ語が生かせて、ちょっとだけ私も楽しいですし」
「ゾナマ語?」
「えっ?」
あっ、そうか。
「シルヴィア、もしかして」
「ああ、私はこの土地の言葉はわからない。自由に話せるのは、エクス語だけだ」
俺は召喚勇者の特典で、勉強しなくても、どこの言葉も理解できるようだが、彼女らにはそういう問題があったか。
「でも、エクス語って、言ってみれば世界共通語ですから。どこでも使えますよ」
「だが、ゾナマでは」
「ゴヤーナみたいな都市部でなら、わかる人も少なくないと思いますけど、奥地に向かうと、通じないほうが多くなると思います」
これは厄介だな。
或いは、この世界の住人でない俺が、自ら会話や交渉を主導しなければいけない。そんな場面も出てくるかもしれない。
俺自身は意識できないが、今の会話は、エクス語とやらでやり取りされているのだろう。エキスタレアでも、グオームでも、エクス語で話していたに違いない。初めて出会ったあの時、治療を受けている際に、マグダレーナは俺が遠くから来た外国人らしいと気付いたから、「こちらの言葉がお上手」などと言ったのだ。
とすると。俺がこちらのゾナマ語で自由自在に話すところを見られたら、なんて思われるだろう? しかも、俺にはゾナマ語を話しているという自覚がないのだ。
そんなやり取りをしている間にも、雇われた男二人が、黙々と荷物を荷台に載せていく。無言で、笑顔もない。話しかけるのも難しそうな雰囲気を漂わせている。
小さな荷物だけ持って飛び出してきたらしいマグダレーナは、自分のリュックを背負っているが、俺のもシルヴィアのも、重すぎるし、何より元気が出ないので、こちらに運んでもらうことにしよう。
「じゃあ、教会まで行きましょう」
半病人の俺達はなす術もなく、彼女に引っ張られて歩いていく。
港を離れて、しばらくろくに舗装もされていない道を歩いた。最近、雨が降ったらしく、足元はぬかるんでいる。赤茶けた泥が荷車の車輪にへばりつき、たまに飛び散る。
うっかりすると、足元の水溜りを踏んでしまう。その近くを、小さな羽虫が飛びまわっている。
虫や泥を払い落としながら、シルヴィアは不快そうに眉を寄せる。
この高温多湿。日本の夏以上かもしれない。グオームも南国ではあったが、カラッとしていて、日陰は割合、涼しかったりもした。だが、こっちは一年中真夏に違いない。
街までの一キロ程度の道程で、既に説明のつかない妙な疲労感が、体にしみこんできていた。
まだ地面が揺れている気がする。
実際、揺らめいて見えるが、それはきっと、陽炎のせいだ。
船酔いの影響で気持ち悪くて仕方ないのに、今日はカンカン照りで、しかも風がない。
ようやく、街の入り口が見えてきた。入り口といっても、はっきりと城壁とか、門があるわけではない。あちこちに掘っ立て小屋のような建物が並んでいて、それが無秩序に広がり、だんだん密度が高くなってくる。いつの間にか街になっていた……そんな感じだ。
古びた木材と、石ころを組み合わせた粗雑な印象を抱かせる家々の間を、俺達は汗を流しながら歩いていく。あちこちから、何かが腐ったような臭いがする。
街中では通行人が多くなる。体の不自由な赤ん坊を連れ歩く女が、片手を突き出して、物乞いをしている。牛などの家畜もいて、それらがしばしば足を止めるので、荷車も前に進めなくなったりした。
この時点で、俺はもう、ゾナマが嫌になりかけていた。気候は最悪だし、不潔感があるし、それに何より、地元の人間の表情がどうにも好きになれない。
そう、表情なのだ。
笑顔がない。ムッとした感じの、日本だったらもう、インネンつけてるというレベルの緊張感ある表情。
そういう顔をした連中が、ズカズカと歩く。目の前に人がいても道を譲らないし、避けようともしない。
こいつらは、他人に関心がない。
と同時に、他人や社会に対して、配慮しようという意思がない。
それがありありとわかる態度だ。
現に、マグダレーナはあちこちで、通行人に声をかけようとする。
「あ、あの! 済みません! サーク教会を探しているのですが」
しかし、大半の男は、ろくに顔を見もせずに歩き去っていってしまう。
「マグダレーナさん」
俺は、口を挟んだ。
「通行人は駄目です。できれば、商店の人とか、そっちのほうで訊いた方が」
「はい。ですが、なぜですか?」
本当にわからない、といった様子で、彼女はそう言った。
ああ、そうか。
頭は悪くない。シルヴィアもそうだが、きっとマグダレーナはもっと賢いのだろう。
だが、彼女もある意味、世間知らずなのだ。
「土地に根付いた身分のない人間が、信用できますか?」
商店を経営しているなら、滅多なことはできないはずだ。あそこの誰某が変なことを言った、と後々問題になる。
通行人は、その場限りで何を言い出すかわからない。
「人は皆、神様の子ではありませんか」
しかし、彼女は素敵な笑顔で、俺の問題提起をスルーしてしまった。
だから、そういうことじゃないんだって。
そんなやり取りをしているところに、一人のゾナマ人の中年男が、近寄ってきた。
「お前、お前、達。エクス、大陸、から、きた?」
「おじさま、私はゾナマ語を話せます」
「うん? そうか?」
この土地の人間には珍しく、その男は、笑顔を浮かべて話しかけてきた。
「ホテルに案内しよう。少し値が張るが、いい部屋がある」
「いえ、おじさま、私達はサーク教会に行きたいのです」
「サーク教会はなくなった。今はホテルに泊まるしかない」
「そうなんですか!?」
はて?
内心に疑問がよぎる。
「済みません」
俺は割って入った。
きっとゾナマ語に切り替わっているはずだ。
「では、教会があった場所はどちらですか? 教えていただければ幸いです」
俺は、彼をじっと見つめる。
こいつはおかしい。
教会がなくなった? 絶対にないとは言い切れない。特にこの世界では、ニュースの伝達は遅い。だから、マグダレーナの知らない組織再編があっても、不思議ではない。
だが、ここはゾナマでも最大規模の都市のひとつだ。しかも、北の大陸からの船が到着する場所でもある。こんな重要なところに設置した施設を、教会組織が簡単に手放すか?
「ええっと……」
男は、目を泳がせ始めた。
「ちょっと、ちょっと待て。訊いてくる」
そう言うと、男はさっと離れていった。
「場所をご存じないのでしょうか」
「嘘ということもあるかと」
「そうなのですか?」
「ホテルに連れて行けば、マージンをもらえるとか、そういうことかもしれない……」
体調が悪くて頭がまとまらないが、なんとか十分な注意力を保とうと、踏みとどまる。
「待たずに先に行きましょう。なにか、悪い予感しかしない」
だが、俺がそう言った次の瞬間に、さっきの男が走って戻ってきた。
「場所がわかった。案内する」
「まあ、ありがとうございます」
これ、そこまで連れて行ったら金くれとか、そういう流れになるんじゃないのか。
金額言わずに申し出てるから、ボラれるかも。
でも、まあ、いいか。金ならあるし。何より荒事になれば、シルヴィアがいる。もっとも、頼みの彼女も、元気はなさそうだが。
しかし、歩き始めてしばらく。
それらしい場所に行き着く気配はない。
教会がそんな遠いはずがない。渡航してきた信者をまず受け入れるべき施設が、そんな辺鄙な場所にあるなんて、少しおかしいのではないかという気になりはじめたところだった。
「……このバカがっ!」
「キャア!」
なんだ?
「やめっ、やめてよ、父さん!」
「うるせぇ!」
見れば、道の真ん中での暴力沙汰だ。
打たれて泥だらけの地面に転がっているのが、恐らくだが、男の妻だろう。二十代後半から、三十くらい。
一方、腕を振り回している男。こちらは四十過ぎほどか。筋肉がしっかりついていて、ガッシリしている。
後ろから、そんな親の暴力を止めようとしているのが、十五歳くらいの少年だ。
「この売女が! 他所の男に色目を使いやがったな!」
「そんなこと、してません」
「うるさい! だいたい人妻のくせして、髪の毛を見せびらかして歩きやがって! それでも俺の妻か!」
髪の毛を引っ張って引きずり回し、また頬に一発。
周囲には、他にも関係者と思しき人間がいる。十歳くらいの娘とその妹。あと、もう一人、打たれている女より年上の女性がいるが、あれは?
「あんた、もうその辺で……マヒバももう、悪いことはしないよ」
「お前もうるさい! 女が夫に意見するな!」
すると今度は、その年嵩の女も殴られ始めた。
察するに、この二人は、両方とも男の妻だ。
そして、若い方がどうやら、他所の若い男に浮気……というか、見とれていただけか? 髪の毛を出していたことを咎められている。この辺では、女性は結婚したら、髪の毛を隠さなければいけないという風習があるようだ。
しかし、これだけの騒ぎが起きているのに、街の人の反応は。
遠巻きにして見物するでもなし、仲裁するでもなし。見事なまでに、無反応。すっとよけると、さっさと歩き去ってしまう。まるで視界に入っていないかのようだ。
「……これは、なんとひどいことでしょう」
気の毒でならない、といったように、マグダレーナが頭を振る。
「どうしたのだ、マグダレーナ殿」
「ああ、シルヴィアさん、あれは妻が髪の毛をさらして歩いたのを咎めて、夫が暴力を振るっているのです」
「髪の毛?」
「なんでも、それが他所の男を誘惑していることになるらしいのです」
「馬鹿げている! そんな程度のことでか!?」
ゾナマでは、随分と男尊女卑の傾向が強いらしい。
「だが、打たれている女は、二人いるようだが」
「はい。それは、止めに入ったもう一人の奥方にも、あのように……」
「なんだと!」
いい加減、我慢の限界だったのだろう。目の前の出来事だけでなく、ここに至るまでの不快極まりない状況に。
目の前で繰り広げられる理不尽に、シルヴィアはカッとなった。
「おい! 貴様!」
大股に進み出て、シルヴィアは怒鳴りつける。恐らく、エクス語で、だ。
「恥ずかしくないのか! 大の男が、往来でそんな風に女を殴りつけて!」
「ああ? なに?」
「髪の毛くらいなんだ! 私を見るがいい! この女が、実際に他所の男と密通した証拠でもあるのか!」
「何を言ってるのかわからん!」
「だいたい貴様は、二人も妻がいるのだろう! それが浮気を責めるとは、どれだけ自分勝手なのだ!」
うぐっ、耳が痛い。
俺、浮気した……ことになるのか?
「シルヴィアさん、いけません!」
現地の人間相手に喧嘩とは、いかにも分が悪い。第一、言葉が通じていない。
「気の毒ではあります。私も心が痛みます。でも、今はいけません」
「なぜだ!」
「私達は今のところ、ただの外国人なのですよ? 下手なことをすれば」
これは、俺も首を突っ込んだほうがいいか?
「シルヴィア、俺達には関係ないことだ。手を出さないほうが」
「っ……! ナールっ、様……しかし、どうなのですか! 勇者として」
「暴力はよくない。それはわかる。だが、今ここでこんな風に騒ぎに首を突っ込んだら」
これはまずいな。
シルヴィアのストレスが想像以上に膨れ上がっている。
彼女らしからぬ、この苛立ちようときたら。
この状況をどう収拾しようか、合理的な方法を模索していた時、足元に気配を感じた。
「あの、お兄ちゃん」
ふと、声をかけられたので、下を見る。
この夫婦の二人の娘だ。
「ん? なにかな?」
両手に何か、包み込んでいる。
「見て」
こんな時に、いったい、何を……
パァン!
……んぐっ!?
ぐっ、なんだ、これ!
目が! 鼻が! 痛い! 痛い痛い痛い!
目から涙が止まらない。
凄まじい刺激だ。
なんだこれ、もしかして、香辛料かなんかで作った爆弾か?
痴漢撃退スプレーみたいな?
涙を鼻水を流しながら、なんとか半目を開ける。
辛うじて視界に映ったのは、同じく目元を覆う二人の少女と、俺と一緒に香辛料爆弾の餌食になったシルヴィアとマグダレーナ。
そして……。
木の棒を振り上げて襲い掛かってくる、四人の男女。
「うぬぅぁあぁっ!」
反射的に腰の剣を抜いて、前に突き出す。
だが、あまり暴れるわけにはいかない。間違ってシルヴィアやマグダレーナを傷つけたら。
「こ、このぉっ!」
だが、目潰しをくらっても、シルヴィアには戦いの勘があった。
いや、足音や気配で、なんとなく敵を察知できるのかもしれない。
一閃、それで若い男の持っていた木の棒が真っ二つになった。
次は、年嵩の妻のが。
素早くはないものの、重みのある一撃を、的確に放っていく。
「ちっ! このアマ、腕がたちやがる!」
「ズラかるよ、グズグズすんな!」
こいつら、何しに……ハッとした。
気付けば、俺達をここまで案内した中年男も、姿が見えない。
そして。
いつの間にか、俺達の荷物を運んでいた荷車も、それを引っ張っていた親子二人組も消えていた。