第二十一話
「皆様、我らが守護神サーク・シャーの家に、ようこそ」
誰も何も言わない。だが、みんなが顔をあげて、彼女に食い入るような視線を向けている。
ここは確かに守護神サーク・シャーの教会かもしれないが、彼らにとっての守護者だったのは、間違いなく彼女、マグダレーナだ。
一年半前に着任して。当時はその若さから、ろくに相手にもされず。だが、すぐに傭兵どもの狼藉が始まった。他の教会関係者は、次々逃げ出した。助祭もいなくなった。住み込みで働いていた信徒達も、他の都市の教会に移ってしまった。なのに、日々、怪我人は増えるばかり。
窮した彼女は、街の人達から、お手伝いを雇おうとした。だが、負傷した港湾関係者を癒すという行為は、とりもなおさず、街に居座った無法者どもの敵になることを意味する。リックを恐れた市民達は、自分から手をあげようとはしなかった。挙句、彼女は困り果てて、冒険者ギルドにアシスタントを募集するところまでいった。
もちろん、そのための資金なんてない。最低限の援助としての送金が、本部からあるだけだ。見えないところで切り詰めて、今日まで頑張ってきた。
「今日、この日を迎えることができたのは、ひとえに皆様のおかげです。改めて御礼申し上げます」
だが、彼女は。
何の裏表もなく、感謝の言葉を口にした。
「まず、日々、危険を顧みずこの街を守ろうとしてきた方々。あなたがたの勇気がなければ、この街がどうなっていたかわかりません。あなたがたは既に栄光に包まれています」
確かに、傭兵と対峙してきた守備隊や港湾警備員達は、実際に血を流してきた。実際には、赦免状をたてに取られ、何もできないことも多かったのだが、常に恐怖と苦痛に向き合ってきたのは間違いない。
だが、それは彼女も同じだったはずだ。怪我人を治療するたび、リックに睨まれ、最後には拉致までされたのだ。
「かげながら、この教会での救護活動に手を貸してくださった方々。あなたがたの慈愛がなければ、到底救い得ない人々が大勢いました。神はあなたがたのために、天上における報酬を用意してくださっていることでしょう」
直接、手を貸せば傭兵に目をつけられる。だが、思うところがないでもない。
裏口からこっそりと、僅かでも手助けをしてきた人達。勇敢ではないにせよ、善良さならあったのだ。
しかし、その善意も、何かの形をとらねば意味がない。そこで自ら矢面に立ったのは、やはり彼女だった。
「最後に、何もできなかった方々。あなたがたは、或いはご自分を恥じ、或いは落胆し、嫌ってさえいるかもしれません。ですが、私はそこに、神の微笑を見出すのです。あなたがたはある苦しみを避けて、今、別の苦しみの中にいます。その苦痛を自覚していること、それ自体が尊いのです。それはいつか乗り越えられるべき試練です。私にはわかります。神は、あなたがたにこそ、期待しているのだと」
ただ守られるだけの人々。それが大多数だったはずだ。
けれども、彼女は今、手を差し伸べた。遠ざけることなく、また人の輪の中に連れ戻したのだ。
「マグダレーナ様」
そう呼びかける声が、聖堂内のあちこちにポツリポツリと聞こえ出した。
あちこちで嗚咽を漏らす人がいる。
「あなたこそ」
「あなたがピールに来てくれてよかった!」
口々にそう叫ぶ。
人々のマグダレーナに対する敬意と愛情は、この上なく高まった。もう彼女の若さを侮る人などいない。それどころか、これまで出会ったどんな聖職者よりも愛情深く、清らかで、そして強かった。この街の人々が、彼女の献身を忘れることは、きっとないだろう。
そんな人々の感極まった思いが落ち着くのを待って、彼女は言葉を継いだ。
「今日は、皆様にお伝えしなければいけないことがあります」
ゾクッと突き抜ける、嫌な予感。
「私は今日まで、人の徳について語ってきました。中でも、もっとも重要なものは何か。それは『愛』だと、そう述べてきました」
愛。愛? 博愛のこと、だよな?
きっと性愛ではない。ないはずだ。
「私は長く教会に学びました。そこでまず教わったことこそ愛です。孤児だった私を育んでくれたのは教会の愛であり、また今こうして、人々の間で立ち働く機会をいただいているのも、皆様の愛によっています」
でもなぁ。
愛って、そんないいものか?
適量あればちょうどいいけど、あんまり増えると処理に負荷がかかりすぎたりしないか? この三日間のシルヴィアを見てると、そう感じなくもない。
この上負担が増えるとなると……。
「愛は真実でなければなりません。いついかなる時も、まっすぐ心が指し示すままに、愛を実践すること。これこそ、人が生きる意味、使命だと思っています」
うむ。実に素晴らしい考えだ。
しかし、それが問題になることって、本当にないのか?
「愛の前には、富も名誉も身分も、何もかもが価値を持ち得ません。それらは愛の飾りになることはあっても、愛そのものに取って代わる力など持ち合わせていないのです」
要するに、愛が重複すると、恐ろしいことにならないか?
だってそうだ。いつでもプライオリティナンバーワン、それが愛なんだろう?
これが変動順位制をとる他の事物であれば、問題は起きない。ある時は食欲が、またある時は睡眠欲が優先される、というように。その時その時で、適切な選択ができるし、その他のものは、道を譲る。
だけど、愛はというと、そうはいかない。だって無条件にナンバーワンだから。愛が他の愛とぶつかったら? 宗教戦争だ。終わりのないせめぎあいの始まりだ。
「私はこれまで、皆様にそういう真実の愛を大切にするようにと説いてきました」
……具体的には。
俺に他の女ができると、シルヴィアが何を仕出かすかわからない。
予感だけでも、あれだけ嫉妬してきたのに、現実になったら……。
「けれども」
きた。
あかん、これ、あかん。
確かにマグダレーナは美人だ。頭もよさそうだし。気立てもいい。
普通なら、大喜びして飛びつくところだ。
だけどこれ、どう考えても死亡フラグだろ。
「ここに告白します。私は愚かで未熟でした」
この一言に、聖堂内にはざわめきが広がった。
「皆様、聞いてください。私には、教区司祭を務める資格が、既にありません」
ざわめきが一層、大きくなる。
司祭を務める資格がない? では、今になってやめると?
「なぜなら神が、私にも試練を与えたからです。私は真実の愛を知りませんでした。そのことを、思い知らされたのです……」
よせ。
思うのは勝手だが、口にするのだけは。
「……今、ここにいる、勇敢な人、ナールに」
げえっ。
ゲロしやがって。
勇敢じゃない、勇敢じゃない。
見ろ、脂汗が止まらないぞ。
「街を襲った災厄に一人で立ち向かい。幾多もの刃がその身を襲うも恐れず。最後には竜さえ打ち倒した、真の勇者。私は、自分の心が動き出すのを感じました」
うわああ。
俺がドラゴンを倒したっぽいとまで。リックとの会話、聞こえてたのか。あれは自然死だって、そう解釈してくれよ。もう手遅れだけど。
人々は不審がって、そのナールとやらが誰なのか、確認しようと首を回している。
よし、ここは合理的に、俺もそ知らぬ顔をして、周囲を見回そう。そうすれば、誰も俺のこととは思うまい。
「私は今日をもって司祭の職を辞し、己の運命を見極めに参りたいと思います。最後に、皆様に改めて感謝を。今日、この日まで、苦しみをともにできたことに、心からお礼を申し上げたいと思います」
最悪だ。
英雄ナールの物語が広まってしまう。プレグナンシア軍と、それを手引きした盗賊まがいの傭兵団を打倒し、ドラゴンさえ討伐した。かてて加えて、この街のヒロインたるマグダレーナまで、我が物とした……。
こんな大事件になったんじゃ、わざわざリックを片付けた意味がない。
落ち着け。気取られるな。
今、俺がマグダレーナを狂わせたナールその人だと気付かれたら、もう逃げ切れない。
説教が終わって、人々が聖堂を去りつつある。俺もさりげなく、そこに加わって、そっと外に出る。
出たら、走る。
宿屋へまっしぐら。
「シルヴィア!」
「ど、どうした」
「行くぞ! 出発だ!」
目を白黒させる彼女。
汗だくの俺に、のんびりした声で応えた。
「えっと……ナロ? 一日、勘違いしてるのでは。ほら、このピラミア行きのチケット、出発は明日だって」
「わかってるよ! そんなこと!」
「ちょっと、どうしたの?」
「いいから! どこでもいいから、今! すぐ! 出発しないと!」
俺の慌てっぷりに、シルヴィアも顔色を変える。
「まさか……勇者?」
「い、いや、違うけど! でも、急がないと」
「じゃあ、どうして」
「あとで! あとで説明するから!」
マグダレーナに『レア彼女』の効果がかかったらしい、なんて説明できないからな。
ガチャの件は伏せるにせよ、それでも他の女が俺に惚れて、そのために仕事をほっぽり出して追ってくる、なんて伝えたら。
もし言うとしても、無事にここを切り抜けてからだ。
一時間後。
俺は汗びっしょりになりながら、波止場に立っていた。
波止場には一隻の大型木造船。
行き先はピラミアではなく、ゾナマだ。今日、これから乗れる船が、これしかなかった。
構わない。なんならゾナマから、また別の船に乗ればいいのだし。今はとにかく、すぐにでもこの街から逃げること、それが最優先だ。
それにしても重かった。
俺もシルヴィアも、必要以上の贅沢はしなかったから、所持金はほぼそっくりそのまま残っている。
だいたい一ヶ月半の滞在で、金貨百枚も使っていない。それでも多量の出費といえるが、生活費はそのうち三十枚ちょっと。残りは装備品の購入に充てただけだ。
つまり、俺のリュックには、まだ九千九百枚以上の金貨が積まれている計算になる。まだ俺自身の体重より重い。この上、まだ宝石がシルヴィアの荷物に入っている。
なお、この街に来る際に馬車で運んできた荷物は、別途船倉に搬送済みだ。
「さあ、ナール、乗るぞ」
へたりこんでいる俺に、シルヴィアがそうせきたてる。
重い体で重いリュックを担ぎ直し、俺はノロノロとタラップを渡った。
「ふいーっ」
ギギッとロープが軋みをあげる。
帆船が横風を浴びて、波の上を滑りだしたのだ。
秋の初め。海風が心地よい。
俺達は船尾から船首のほうに向けて、のんびり甲板を散歩していた。
「やー、大変だった」
「ナロ、そろそろ説明してくれるか」
「うん、それなんだけど」
真南に向かって、船は帆走している。今はちょうど昼頃。船首のほうから、強い陽光が差し込んでくる。思わず手で庇を作った。
船の先端には、船首像が取り付けられている。たいていは美しい女性の姿を象ったものだ。男の世界に生きる船乗りにとっては、港も女なら、船も女だ。一応、航海の安全を祈願するためのものらしい。それが強い日差しのせいで、真っ黒な影に見えた。
しかし、俺はそこに、もう一人の女のシルエットを見出した。
「あなたに祝福を」
よく通る美しい声。
俺には、それに聞き覚えがあった。
「あ、あああ」
長い金色の髪が、陽光にきらめく。
若枝のように細い身体が、まっすぐに立ち、こちらに向き直った。
「旅は大勢の方が楽しいものですよ。そうは思いませんか?」
足から力が抜ける。俺はがっくりと膝をつき、その場で項垂れる。
一年以上前からピールの街で暮らしてきたマグダレーナ。そんな彼女から、逃げ切れるはずがなかったのだ。