第十話
「どうした? ナロ殿」
「いや、腰が……」
「馬車に慣れていないせいだ。それにあと少しの辛抱だぞ」
ワンピース姿ながらに軍隊言葉が抜けないシルヴィアと、俺は今、エキスタレア王国の南の国境付近にいる。馬車を乗り継ぎ、何日も旅をしてきて、やっとここまで来たのだ。
都に戻った後、シルヴィアは早速、国王との謁見に赴いた。そこで、悪魔ナロの討伐を報告し……褒賞を与えられるところを固辞して、なおかつ騎士をやめると宣言した。
彼女なりのケジメなのだろう。忠義より恋人を取った以上、もはや騎士など名乗れない。
それに、俺の傍にいるなら、一緒に王国を出る必要がある。
「ふふっ」
「どうした、の?」
「いやあ、なに。王都にいる間は、私はがんじがらめだったな。こうして自由に外を出てみるというのは、解放感があっていい」
無理もないか。
軍隊組織の上のほうで、いつも王室の人々を守ってきた。緊張で気が抜けない日々を過ごしてきていたのだろうから。
ん? そういえば。
「あのさ」
「なにかな」
「シルヴィアって……今、何歳?」
この質問に、彼女は途端に口篭った。見る見るうちに、顔が朱に染まっていく。
「じゅ」
「じゅ?」
「十九歳……ナ、ナロ殿より、年上、なのだが……」
はて?
「ナロ殿より、少し、少しだけだが、年嵩なのだろう? だが、これはもう、どうしようもない……」
ああ。
些細なことだ。
俺は彼女の腰に手を回す。
「あっ」
それだけで、シルヴィアは、ビクッと体を震わせる。
抱き寄せられると、ヘナヘナと腰砕けになって、体をすり寄せてくる。そのまま、そっと唇を重ねる。
これが女の本能というやつか。
……王都を出る時には、大変だった。まさか堂々と俺を連れ出すわけにはいかなかったから、荷台の中の木箱の中に隠れるしかなかった。同じく箱詰めの甲冑の下敷きになって、丸一日。狭苦しいのもだが、自由にトイレにいけないのには困った。
二日ほど不自由してから、とある村で最初の貸し切り馬車を帰した。そこで俺を箱から出した彼女は、ただの貴族の娘が、旅の途中で従者を雇ったという台本を演じてみせた。また新しい貸し切り馬車に乗り、王国の南へと向かい、二日後に乗り換えた。ここで彼女は、ただシルヴィアとだけ名乗り、服装もより簡素なものに取り替えた。この時点で、従者という俺の立場もきれいさっぱり消えてなくなった。
実に合理的だ。そして、隙がない。
貴族の娘で、元騎士団副団長のシルヴィアが、職を辞して旅に出るというのは、ちょっとしたニュースだ。人の噂になるのは避けられないから、完全なお忍びは不可能。旅の途中で何をしていたかは、多かれ少なかれ、人の耳目に触れる。だから、彼女は噂を「ボヤケさせる」ことにしたのだ。
王都を出る時には、俺を発見されないことが最優先だ。しかし、どこかで箱から出さねばならない。第一、旅の途中で箱詰めの人間が発見されたら、噂にもなりかねない。そもそも、何のために彼女が騎士団をやめたのか、それが大きな謎でもあるからだ。その箱の中の男が、彼女の出奔の原因だとしたら? 憶測はときに事実を指し示す。だからシルヴィアは、王都を離れてしばらくしてから、俺を従者にした。
彼女ほどの身分なら、従者を雇うのは当たり前。冴えない男が後ろからついていき、荷運びをする。誰も違和感は抱かない。王国から出るだけなら、そのままでもよかった。だが、ここで更にもう一段階を踏んだのが、彼女の賢いところだ。
貴族の娘のシルヴィアは、どこへ行ったのか? その消息をぼやけさせるため、あえて途中でまた馬車を乗り換え、ただ同じ名前の、しかし違った外見の人物になってみせた。男はいるが、従者ではない。どちらかというと、中産階級の新婚夫婦だ。
これは、追跡する側から考えると、かなりややこしい話になる。確かに同じ名前の人間が男と馬車で移動した。しかし、微妙に前の情報とは相違点がある。この微妙さに、もしいるとすればだが、捜索者は戸惑うはずだ。ただの町娘の跡を追っても仕方がないのだから。
完全な嘘でないというのも、ミソだ。どこかでバッサリ足取りが途絶えていたら、調査する側は、そこに何か理由があるはずだと、強い手応えを感じてしまう。消してはいけないのだ。中途半端なものをみせる。
もちろん、今の時点で監視者がついていれば、こんなごまかしに意味はない。だが、噂は時間とともに変化するもの。あとからシルヴィアの行動に疑念を抱いた誰かが調査を開始しても、これでは事実に辿り着けまい。
そして今。
王都を離れて一週間近くが経った。
この馬車に揺られるのも三日目。御者は前のほうに座ったきりで、そのすぐ後ろには山盛りの荷物。馬車の一番後ろに、俺とシルヴィアが座っている。
人目につかない場所だから、自然、俺達も大胆になる。最初、洞窟で俺に一目惚れした時には野獣のようだった彼女も、こうしてワンピースを身につけ、そっと抱き寄せられると、途端に何年も前からそういう女だったかのように、しなやかに身を寄せてくるようになった。噛み付くのでなく、ついばむように。柔らかい唇で、俺の唇をそっと挟み込む。
俺は調子に乗って、残る手で、彼女の豊満な胸に手を伸ばす。ずっしりと、それでいて柔らかな感触を楽しむ。
「あっ……ま、待って」
さっきまでの武張った口調は影を潜め、途端に女らしくなる。
「それは……」
恥じらいながらも、それ以上は許さないつもりらしい。
「あ、明日。明日、国境を越えて、街に入ったら……お願い」
合理的に考えれば、すぐに理解はできる。今は旅の途中で、ろくに身を清めることもできない。そんな汚らしい状態で、俺に抱かれたくなどない。ちゃんと宿屋に入って、お湯をつかって、きれいになってから肌をさらしたいのだろう。
理屈はわかるが、それでいてキスばかりせがむのでは、俺の方が欲求不満になるというのに。本当に男心がわからないやつだ……と思ったが、それも当たり前か。この年まで、ずっと剣を振り続けてきた硬派な人間が、どうして男女の機微に通じていようか。
構わず、胸を揉みしだく。
「あっ! あっ……ナロ様、ナロ様ぁ……」
恥ずかしくてならないのだろうに、それでいて、俺にしがみついてくる。
これはいいプレゼントをもらった。初めてあの女悪魔に感謝する気にもなろうものだ。
「そういえばさ」
「あっ、は、はい?」
「これから、どこ行くんだっけ」
「それは」
身を起こしながら、一息つく。やっと我に返って、シルヴィアは説明した。
「グオーム王国だ。王国といっても、エキスタレアよりは遥かに領土も国力も小さい……同盟国ではあるが、実質、属国だな。すぐ西側のプレグナンシア王国は、両国にとっての敵国なのだが、グオームのほうはこの通り、移動も容易だ」
「ふうん」
「私達が行くのは、王国第二の都市、ピールだ。大きな港町で、ここからなら、あちこちに船も出ている。気候も暖かく、住み心地もいいというぞ」
大都市で、あちこちに船も出ている、か。
逃げ出すにも、隠れるにも、暮らしていくにも都合よし、だな。
「なるほどね……で?」
「で、とは……ひゃん!」
また大きな乳房に手を回し、揉みしだく。
逆らうこともできず、耳朶まで真っ赤にしながら、なおも彼女は俺に体を預けてくる。
「いつになったら女の子らしい話し方ができるようになるのかな?」
「それはっ……だって……ああっ、ナロ、ナロ様、私……」
女というのは。
いったん男に惚れると、こうも別の顔を作り出せるものなのか。
ま、付き合う人の数だけ顔があるというからな。今までの王都での人間関係と、俺とのそれは、まったく別物で、だから彼女も、あっちの人格とこっちの人格の間を、いったりきたりする。
とりあえず、面白いし、このままでもいいか。
天気は快晴。
馬車はカポカポと暢気な音を立てて、緑の丘と丘の間の、曲がりくねった道を行く。
いろいろあったが、過ぎ去ってみれば順調だ。
エキスタレア王国の外に出れば、追っ手もかかるまい。こうしてみれば、面倒な義務やしがらみだらけだった日本にいるより、この異世界の方がずっと居心地がいい。空気もきれいだし、何より思い通りになる女もいる。
それに、ひどい目にも遭いはしたものの、結果オーライ。悪魔認定されたらしい俺は、勇者ではなくなった。つまり、魔王退治の仕事とやらも、しなくていい。これからは、美人で有能な彼女に支えてもらいながら、のんべんだらりと暮らせば、それでいい……。
そんな俺の上機嫌に水が差されたのは、ピールの宿屋で、無事、シルヴィアとの初体験を済ませた後だった。
「ぱんぱかぱーん!」
もはや見慣れたピンク色の空間。プカプカ浮かぶ女悪魔が、俺の目の前で盛大にクラッカーを鳴らしたのだ。
「ヒャッホー! 脱・童貞! お・め・で・と・うっ!」
「うるせぇよ」
「やー、お姉さん、感無量だなー」
畜生、この出歯亀め。ずーっと見てやがったのか。
「ういういしくて、たどたどしくて、もどかしくて、へったくそで……あー、いいわー」
「この変態」
「見てただけの人より、やってる人のがずっと変態じゃん? ま、いいけどさー」
急に恥ずかしさが溢れ出てくるから、そういうの、やめてくれ。
「あれからすぐ、君、疲れて寝ちゃったんだねー」
「そりゃ、旅の疲れだってあったからな」
「シルヴィアちゃんは、まだまだ元気みたいだよー?」
「へっ? 先に寝たみたいに見えたけどな」
「起きてる起きてる。まだ構ってほしいみたいだったけど、君が一回でヘトヘトになってたから、寝たふりしてるだけなんだってば。やっさしいなぁ、シルヴィアちゃんはー」
ぐぐっ。
なんか、やたらと自分が情けなく思えてきたぞ。
「ほら」
例によっていつものごとく、ピンクの膜が一部薄くなり、向こうが透けて見える。映っているのは寝たままの俺の肉体と、その横に寄り添うシルヴィアの姿だ。
俺が完全に眠りこけていると気付いて、彼女は身を起こす。そしてじっくり寝顔を観察し、そっと口付けをする。一度では気が済まず、何度も何度も。
「ひっどいよねー」
「ん?」
「シルヴィアちゃん、はじめてだったのになー、終わったらさっさと男が寝ちゃうんだもん。アフターフォローも何もなしで放り出されてさー。きっと今、寂しいんだろうなー」
あー、くそっ。
「じゃあ、起こしてくれよ」
「やだ」
「なんでだよ」
「そんなことまでしてあげる義理はないしー? それにぃ」
ねとつく視線を向けながら、女悪魔は言った。
「なによぉ、私が取り持ってあげたようなものなのに。新しい彼女ができたら、全然私を呼びもしないで、そっちばっかり」
「安くないんじゃなかったのか? いつ俺がお前の彼氏になった?」
「安くないし、彼氏にもなってないよ? っていうか、あんま趣味じゃないしー」
「じゃ、いいだろ」
「それはそれ、これはこれ」
わけがわからん。
「っていうのは冗談で。一応、忠告ね?」
「なに?」
「彼女の効果は、永久じゃないから」
「は?」
なんだって!?
「んー、だって、そうでしょ? 現実の恋愛でも、時間が経てば、だんだん気持ちは冷めていくものだし」
「いや、でもこれ、魔法とかそういうのじゃないのか」
「そうだけど、もう発動は完了してるからねー。あとは君がいかに魅力的な男になってみせるかで、どれだけ長続きするかが決まるわけだね」
「マジかよ」
これは頭の痛い問題だ。
あわよくば、ずーっと彼女に寄生して生きていこうと思ったのに。
第一、どうやって魅力的な男になればいいんだ? 彼女は、家柄のおかげもあるとはいえ、二十歳前の若さで騎士団の副団長にまで登り詰めた人物だ。武勇や知性だけでなく、美貌まで兼ね備えている。平凡な高校生だった俺に、何ができるというんだ。
「そんなに悩まなくても、すぐには問題にならないよ」
「なんで言い切れる?」
「だって、もう彼女は、いろいろ君のために捨てちゃったからね。身分も、貞操も」
「それが?」
「だーかーらー。もう、逃げる場所も帰る場所もないってこと。相手しか頼れないのは、シルヴィアちゃんも同じなんだからね」
そういうことか。
言われてみれば、納得だ。
「ただ、女の子ってのは、どんどんハードルあげてく生き物だからねー、レベルあげてかないと、いつかは愛想つかされるかなー」
「いやなこと言うなぁ」
「現実、そんなもんだよ? ほら、君のいた日本の、夫婦問題専門のカウンセラーだって、言ってたよ。旦那さんのほうは、いつも同じことをしてくれる奥さんに感謝するけど、奥さんのほうは、いつも同じ仕事しかしない旦那を、だんだん見下すようになるって」
「それ、誰の話だよ」
「ってことで」
女悪魔は指を一本立てて、俺に言い放った。
「これからもバンバン殺して、バンバンパワーアップしましょうー!」
「結局それかよ!」
どうやら、俺の受難は、始まったばかりみたいだ。