中
吉良と研究をしていて始めて雨が降ったのは、二人になって三日目のことだった。館内で涼んでいる間に夕立が来て、一気に土砂降りになった。雨の日のデータも欲しいと思っていた私は、かばんの中から折りたたみの傘を取り出しつつ、エントランスに向かって駆け出そうとして…止められた。
「行かないで」
それまでに聞いたこともない、今にも消え入りそうな弱気な声で、吉良は私を後ろから抱きしめた。完全に思考の停止した私はフリーズしてしまう。そのとき、中年のおじさんが館内に入ってきた。開かれた扉を抜け、雨気が一気に博物館になだれ込んでくる。そのとき、吉良の体から陽だまりの匂いが消えるのを感じた。ぐっと私を抱く腕に力がこもる。
「き、ら?」
「ごめん」
観念したように私を離した吉良を振り向くと、俯いた彼がいた。そして。顔を上げた吉良の目は、紅だった。
「その目、何で」
「僕、人間じゃないんだ」
彼がゆっくりと差し出した手のひらには、水でできた馬がいた。馬は彼の腕を駆け、肩まで来ると、私を見た。
「こやつが、吉良様の話しておられた人間ですかな」
馬が、しゃべった。もはや私は、突っ込む気など失せていた。私が受け入れようと否定しようと、これがきっと現実なのだ。だったら私は、吉良のそばにいよう。
「わしが話しかけても冷静さを保っておる。吉良様、こやつ、本当に人間ですか」
ひたと、吉良の人間とは思えないほど冷たい手が私の頬に触れた。
「うん。暖かい」
「吉良くんの手は、冷たいんだね」
「だから、太陽が出ていないと人間じゃないんだ」
ああ。だからあの日、陽だまりの中の吉良があんなに暖かく見えたんだね。
「何をおっしゃいますか吉良様。憎き太陽のせいで、魔力を封じられているというのに」
馬が前足を高く上げ、興奮したようにまくし立てる。
「でもそのおかげで、ちとせに会えた」
今度こそ、心臓をつかまれた気がした。紅い目の吉良は藍の目のときよりもきれいに笑う。これが本来の吉良の姿なのだ。
彼の魔力は、水を操る力だった。太陽の出ていない夜の間と、水に有利になる雨の間だけ、彼は不思議な力を使えるのだった。私は何故か彼を嫌いになったり、人外のものを恐れるということをしなかった。むしろ彼の優しさに、好きが大きくなっていくのを感じていた。紅い目の吉良に会うたびに会うたびに、この恋を認めざるを得なくなっていく心があった。
雨の日は、吉良は決して外に出ようとしなかった。彼曰く、雨の中などにいると魔力が増大しすぎて、身の丈に合わぬ行いをしてしまう可能性が大きくなってしまうのだそうだ。彼の魔力でできることは、ミズノイノチという、その名の通り水でできた生き物を生み出すことだった。一度ひまわりをミズノイノチに変えてくれと頼んだことがあった。しかし、それをしてくれることはなかった。既に形あるものの命を水に移すことはできないのだそうだ。私はよくわからないが、吉良の魔力は何でも作れるということではなく、さまざまな規定があるらしい。その規定に沿う範囲で、吉良はさまざまなミズノイノチを私に見せてくれた。晴れの日はひまわりの観察をして、雨の日はミズノイノチと遊ぶ。
しかし、そんな楽しい日々は突然に幕を閉じた。
改札をくぐると、いつも通りに一番線のホームに向かうべく、階段を上がっていった。そのとき、私の傘からぽたりと落ちた雫が…小さなネコになった。何で。息が詰まりそうになるのを感じながらその小さなネコを見つめた。
「俺を、この上に連れて行って。早く落ちすぎてしまったんだ」
懇願されるがまま、私は手を差し出していた。何で七年も経って、今更ミズノイノチが現れるの。何で突然吉良はいなくなってしまったの。何で吉良は私に何も告げずに博物館に来なくなってしまったの。聞きたいことは山ほどあったけれど、どれも口にすることはできなかった。聞いてしまったら、七年の時を越えて現れたこの小さなつながりさえも消えてしまいそうで。
「着いたよ」
小声でネコに告げる。ホームには、平日の午後らしい寂しく感じない程度の人がいた。私の手のひらにちょこんと座るネコに気づいている者はまだいない。ネコはひげをぴんと伸ばして、空を見上げた。
「俺は、自分のわがままのせいでたくさんの者を傷つけた。その中に、あなたも入るんだよ、優しい人間のお人よ」
「…どういう意味」
聞き方が恐る恐るになってしまったのは、相手がミズノイノチであったからであろう。私がミズノイノチから傷つけられたこととして心当たりがあるとすれば、それは吉良のことでしかなかった。
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