07. 友
ハルカは朝食を食べないまま、玄関を出て学校へ向かった。
急ぎ足で登校しないと遅刻することは明白だが、そんな事はどうでもいい程の不安を抱えて、とぼとぼと通学路を歩いた。
ミユナが忘れられていた状況と、自分の状況が重なるのは気のせいだろうか……? ポツリと空席のできた教室の光景が、ハルカの頭から離れない。
途中、踏み切りの前で立ち止まり、電車が通り過ぎるのを待つ。さっきまで晴れていた空はいつの間にか厚い雲に覆われていたが、傘を持ち歩く人は少なく、ハルカも例外ではなかった。
やがて踏み切りが開いて再び歩き出すと、誰かに背中を押されて前のめりになった。
「なにゆっくり歩いてんの? 遅刻するでしょうが!」
声を掛けてきたのは、急ぎ足で学校へ向かおうとするサキだった。
目の前にサキが現れただけなのに、急に視界が眩しく感じられて、ハルカは目に涙をためた。
そんな彼女の様子にサキは少し戸惑うが、すぐに時間がないことを思い出す。
「ほら、行くよ!」
サキは棒立ちするハルカの手を取ると、彼女を引き連れるように歩き出した。グイグイと進んで行くサキの後ろ姿が、凍えるハルカの心を少しづつ溶かしていく。
「ねえ、間に合うかな?」
「大丈夫だって。私がどれだけ修羅場を潜ってると思ってんの?」
まったく褒められた事ではないと思いながら、サキの返答にハルカは安堵した。
(良かった。ちゃんと会話できてる……)
最後の方には二人で駆け込むように校門へ入ったのだが、昇降口まで来たところで始業のチャイムが鳴り響き、二人は下駄箱の前に倒れ込んだ。
「はぁ、はぁ、間に合って、ないじゃん……」
「はぁ、はぁ、まぁ、そういう時もあるってことで……」
チャイムがなった後の静けさの漂う校舎で、呼吸を整えたハルカは、真剣な様子でサキの方に向き直った。
「ねぇ、サキ。ミユナのことなんだけど、下駄箱の中にあの子が残した伝言が置いてあったの……」
ハルカがミユナの下駄箱を指差すと、サキはその中を覗き込んで置いてあった紙を手にした。
「思い出さないで……。どういう意味?」
やはり不思議そうな顔をするサキに、ハルカも分からないと首を振る。
「メッセージの意味は分からないけど、それを見たときに思い出したの、ミユナのこと……」
「え……?」
「わたし達、いつもミユナと一緒にいてさ、楽しかった思い出が沢山、沢山あった……」
「本当に? 信じられない……」
しかしサキもまた、写真に写る楽しそうなミユナの姿を思い出して、ハルカの話が絵空事ではないと悟る。
「それと、もしかしたらね、わたしもサキに忘れられちゃうかも……」
ハルカの表情には不安と焦燥が入り混じっていて、その静かな呟きにサキの胸がざわめく。
「どうして……?」
心配そうに聞くサキに、ハルカは悲しそうな目を向けた。
「わたしね、家族にはもう忘れられちゃったから……」
え……? と言葉を失ったサキは、ふと昨日の出来事を思い出した。
それは、倒れたハルカを保健室へ連れて行く前の事。
『あれ、誰か校舎の前で倒れてる……。ハルカ?』
サキが遠目から気付いた時、一人ぐったりと倒れているハルカを、通り掛かった女子たちが我知らぬ顔で横切って行くのを見たのだ。談笑しながら歩く余裕はあるのに、横たわるハルカには声すら掛けなかった。まるでハルカのことが見えていないみたいに……。
(あれも、もしかしたら……)
サキは色濃くなる不安を抱えながら、ハルカの手をそっと握りしめた。
「私は、ハルカのことを忘れたりしないよ。絶対に……」
朝のホームルームも終わりに差し掛かる頃、二人はそっと教室の扉を開けた。
「お、おはようございます……」
急にシーンとなった教室へ恐る恐る入ると、担任の竹内が怖い顔で待っていた。
「さっさと席に着きなさい」
そう言われて、二人は粛々と自分の席に着いた。
「もうすぐ夏休みだからって気が抜けているのかしら。サキは後で職員室まで来なさいな。いいわね?」
「えっ、私だけですか……?」
不満げな顔のサキに、竹内は怪訝な面持ちで言う。
「はい? 遅刻してんのはあなただけなんだから、当たり前でしょ?」
ちょっと待って……とサキは内心で動揺した。
教室にはハルカと一緒に入ってきたのに、先生と話が噛み合っていない。
窓際に座るハルカも同じように異変を感じたのか、怯えるように体を震わせていた。
(ハルカ……)
サキは一人静かに立ち上がった。
「先生、ハルカもですよね……?」
そう言ってハルカの席まで移動すると、彼女の肩に手を添えた。
「ハルカだって遅刻ですよ……?」
クラス全員の視線を一手に浴びながらそう言うと、竹内は初めてハルカに気付いた様子だった。そして教壇から降りるとハルカの席まで近づいてきた。
「……あなた、どこのクラス?」
二人は担任の信じられない言葉に目を見開いた。
見ればクラスの誰もがハルカの事を白い目で見ている。
(いったい何が起こってるの──?)
サキはハルカの手を取ると、一緒に教室を出た。
「ちょっと、どこへ行くの!?」
先生の叫ぶ声が聞こえるが、構わずに教室を離れる。
二人は階段を一気に駆け上がると、誰もいない屋上に出た。
外は湿った風が強く吹いていて、どんよりと暗い雲からは今にも雨粒が零れてきそうだった。
「はぁ、はぁ、どうしよう……。みんなハルカのこと……」
息を切らせながら、サキも不安の色を隠せないでいる。
「ねぇサキ……、わたし分かった気がするの」
ハルカは額の汗を手で拭いながら、擦り切れそうな心をなんとか繋ぎ止めている。
「たぶんミユナのこと、思い出したからだよ」
「どういうこと……」
難しい顔をするサキに、ハルカは自分の考えを伝える。
「わたしがお母さんに忘れられたのって、ミユナの事を思い出した直後なの。もしも思い出した人から忘れられていくとしたら、ミユナの『思い出さないで』っていうメッセージの意味にも繋がる……」
「そんなことって……」
信じられないような現象も、今の自分たちの状況を考えれば一笑に付すことすらできない。
「だからね、サキ。この先もし、わたしの事を忘れたとしても、その時は思い出さないで欲しいの……」
ミユナの結末が悲惨な死だったことを思えば、サキには絶対に巻き込まれてほしくなかった。
「なに言ってんの……? そんなの無理だよ」
「聞いてサキ。わたしね、サキと出会えて本当に良かった……」
すべてを失いそうな今、サキが自分にとってどれだけかけがえのない存在なのかが分かる。
彼女への感謝は、伝えられるうちに言葉にしないといけないと思った。
(あれ……?)
ハルカの言葉を聞きながら、サキは自分の中に得も言えぬ違和感を覚えた。
それは目の前にいるハルカが急に薄く感じられて、すぐそこに居るのに意識が向かないような感覚……。
一方のハルカは、自分の言葉に照れながら遠くを見詰めている。
「今まで、ありがとうね。サキ」
恥ずかしそうに言うハルカの横顔が、サキの瞳に映った。
(ハルカ、ごめんね──)
ぱらぱらと小粒の雨が降ってきて、ハルカは押し黙っているサキの顔を覗った。
「サキ……?」
ハルカの呼びかけにも応じず、機械のように無表情になっているサキを見て、ハルカの背筋が凍った。
「嘘だ、嘘だよね……」
不安を呟くハルカとは目も合わせずに、不思議そうに辺りを見回したサキは、黙って教室へ戻っていってしまった。
あまりに一瞬の出来事に、ハルカの心は音を立てて崩れていく。
(そんな……。サキまで……)
視界が滲み、その場にへたれ込むと、ポロポロと大粒の涙が頬を伝った。
少し遠くの曇り空を、号哭のように雷が鳴いている……。
雨空が微睡む中、ハルカは河川敷を一人歩いていた。
(わたし、これからどうしよう……)
学校には怖くて居られなかった。誰からも忘れられ気にもされない疎外感は、ハルカの足を自然と校舎から遠ざけた。
まだ下校する時間には程遠く、こんな時間に校外を歩いていたら不審に思われそうだが、生憎ハルカのことを気に掛ける者など誰一人としていない。
それどころか自転車に乗るおばさんがハルカに気付かずにぶつかりそうになり、今では普通に歩く事すら危険になったのだと感じた。
そんな事もあって、ハルカは人通りの少ない川沿いの道を歩いている。
(忘れられただけじゃない。まるでわたしの事が見えないみたいに、みんなわたしに対して関心がないんだ……)
やがて項垂れるハルカに追い打ちをかけるような大粒の雨が降り注いできて、ハルカは河川の高架下まで逃げ込んだ。
斜面の上に座り膝を抱えると、激しい雷雨にため息をついた。
(なんかもう、疲れた……)
雨で濡れた制服が体温を奪い、体を震わせながら目を閉じる。
そんなハルカを一匹のカラスが遠目から見ていた。
高架下の隙間で羽を休めながら、じっとハルカの方を見つめる目には、ミユナの姿が映っていた。
触れる事も声を掛ける事もできない霊体は、それでもハルカのことを励まそうと、彼女の背中を優しくさすっている。ハルカの隣にそっと寄り添いながら……。