7.登校2日目
翌朝、いつも通り5時には目が覚めた。
昨晩は遅くまで、じいさまに借りた本を読んでしまった。
村と違って電気があるため、つい時間を忘れて深夜まで読みふけってしまったのだ。
それにしても昨日読んだ「清水次郎長伝」は面白かった。
ああっ、義理と人情、日本人の心はすばらしい。
すっかり八千代は影響を受けていた。
睡眠不足で眠いものの、早朝訓練をさぼることはできない。
戦闘服に着替えて、モップを担ぎ、駆け足行進である。
じいさまに歌を禁じられているので、どうにも気合が乗りにくいが、とにかく足腰を鍛えるために、今日も眉山を駆けあがることにした。
ただし、眉山頂上は要注意である。
一昨日は、米兵に脅迫されて危機的状況に陥ってしまった。
昨日もここでは何人かの米兵が遠巻きにこちらを見ていた。
やはりここは町全体が見下ろせるため、米兵が盛んにスパイ活動をしているのだろう。
自分が毎日ここに来て、少しでも彼らの活動をけん制しなければならない。
八千代はそう考え、恐怖をこらえながらも眉山頂上にやってきた。
一方、日本への旅行者向けのインターネット掲示板において、徳島板が盛り上がっていた。
ここ数日、早朝にモップを持ったウサギ娘が眉山頂上に現れるとの書き込みがあり、写真も数枚投稿されていた。
おそらく観光キャンペーンだろうが、一見の価値あり、頼めば写真も撮らせてくれる、との投稿者の体験談に対して、たくさんのフォローが集まっていた。
「徳島滞在中。明日の朝は絶対行ってみる」
「オレ和歌山にいるんだが、予定変更して徳島行ってくるわ」
「写真のおびえる表情がたまらん。演技うますぎ」
「これを見に来た」
「だれか名前を聞いてアップして」
「うさぎっ娘たん、ハァハァ」
断っておくが、書いているのは海外のお前らであるため、もちろん英語の掲示板である。
そんなことになっているとは露知らず、八千代が眉山に駆け上がった時には、十数人の外国人が待ち構えていた。
山を一気に駆け上り、はあはあとモップにもたれかかって息を切らていた八千代を、彼らが取り囲んだ。
八千代が気づいた時には、周りをすっかりとり囲まれていた。
『しまった、卑怯な米兵どもは大勢で待ち伏せしていたのか』
彼らは皆、手に口径の大きな短銃を構えて迫ってきた。
『これはもう玉砕しかない』
覚悟を決めた八千代から恐怖のタガが吹き飛び、無心の境地になってモップで薙刀の構えをとった。
その途端、周りから"Oh"だの"Great"だのと言った声があがり、一斉にカシャカシャと引き金を引く音がした。
八千代はとっさに身をかわし、背後の敵に対しても別の構えで対峙した。
周囲から拍手と歓声が上がり、再び一斉に引き金が引かれた。
八千代はあちらこちらと跳ね回って、より激しくなる攻撃を避けていると、周りに一部手薄なところが見つかった。
『これでは多勢に無勢、転進するしかないわ』
八千代は米兵たちの隙をついて囲みを破り、登山道の茂みに撤退した。
背後では大きな拍手と歓声が上がっていた。
今日の徳島掲示板はおそらく大盛り上がりになるだろう。
眉山から駆け下りた八千代はまたしても敗北感に打ちのめされていた。
敵は大勢で待ち構えていたのだ。
銃弾が当たらなかったのは奇跡に過ぎない。
しかし、彼らは周りから一斉に撃ってくるなんて、同士討になることを考えていないバカなのか。
いずれにせよ、彼らは拍手したりはやし立てたりしてこちらをからかっていたのだろう。
八千代はくやしかった。
そんな八千代だったが、事務所に帰って朝食の白米を前にすると、すっかり幸せな気分になっていた。
白米を食べると、どうしても涙がこぼれてしまう。
感涙にむせびつつご飯を食べる八千代に、孝太郎が声をかけた。
「そうじゃ、昨日お前の制服が届いとったんじゃ。
今日からはちゃんと制服を着ていくんだぞ。
ところでお前が今着ているその服、肘が破れておるんじゃないか」
八千代が肘を見ると、たしかに穴があいていた。他に脛も破れかけていた。
古い生地だったし、激しい動きをしたこともあって、生地が耐え切れず、あちこちにほころびがきていた。
今日学校から帰ったら、繕わないといけない。
朝食を終えた八千代は、通学のために制服に着替えた。
あこがれのスカートである。
足元がスースーするのと、緊急時の動作が気になるものの、ついにスカートを履ける日がやってきたのだ。
ハイテンションになって孝太郎に見せに行くと、孝太郎もとても喜んでくれた。
うきうき気分で登校すると、校門前で森洋子に会った。
「おはよう、八千代」
「おはようございます、洋子」
「制服、できたんだね」
「はい、見てください、スカートですよ」
「そっ、そうだね。みんなそうだけどね。
でも、なんだか八千代、疲れてない?目に隈ができてるよ」
「昨日、遅くまで本を読んでたので。
さすがにちょっと、眠いです」
「テストも近いのに、大丈夫?」
「そうですね、学業に差し支えないようにしないと」
会話が弾む二人とは対照的に、周りは二人の姿を見るとそそくさと道を空けていった。
昨日、八千代と一緒に帰った洋子は知らなかったが、あの後学校中に八千代の噂が広まっていたのだ。
二人が教室に入った途端、教室の空気が一変した。
昨日八千代をいじっていた生徒たちは青い顔をしていた。
「なんか変な感じね、みんなどうしたの?」
洋子の問いに対しても、周りはなんでもないと首を振るだけだった。
「まあいいや。ねえ八千代、一時間目は数学なんだけど、あんたどのクラス?」
「私は、数学はAっていわれています」
「八千代かしこーい。私はBだから、別々だね。じゃ、八千代は1組の教室で受けてね」
「はい、分かりました」
「それじゃ、次の授業でね」
洋子は手を振りながら駆けていった。
--- 1時間目 数学II ---
八千代は、一人教科書を持って1組の教室に入った。
席は自由らしいが、後ろは埋まっていたので、一番前の真ん中に座った。
後から何人か入ってきたが、なぜか八千代の周囲の席は埋まらなかった。
チャイムが鳴り、教師が入ってきたが、教師は最前列中央にいる八千代を見ると一瞬ひきつった顔をした後、何事もなかったかのように授業を始めた。
授業は2次関数の微分だった。
既に数学IIIまで学んでいた八千代にとって、2次関数の微分の授業などは退屈な時間でしかなかった。
加えて昨日の睡眠不足である。
睡魔が八千代を捉えようとしていた。
『だめっ、授業中に居眠りなんて、先生に失礼この上ないわ』
必死に眠気をこらえ、教師に意識を集中しようとしていた。
黒板に公式を書いていた教師が振り返ると、そこにはものすごい形相で教師をにらみつける生徒がいた。
例の錦織組組長の孫娘だ。昨日一人で一女レディースをたたきのめしたという噂の恐ろしい生徒だ。
その生徒が、額にしわを寄せて、瞬きもせずに、こちらをにらんでいるのだ。
目の周りの隈が表情の恐ろしさを一層際立たせていた。
こういうのをガンをとばすというのだろうか。
とにかく因縁をつけられないようにしないといけない。
教師は生きた心地もせずに、カチカチになりながらも授業を続けた。
八千代の睡魔は刻一刻と影響力を強めてきた。
ほとんど白目になりながらも、八千代は必死の形相でそれに耐えていた。
どんどん恐ろしい表情になってにらみつけられていくのを感じながら、教師は心の中で家族に別れを告げていた。
教師としての職業魂を恐怖が凌駕して、職場放棄寸前となったところで、ようやくチャイムが鳴り、授業が終わった。
教師は逃げるように教室から出て、廊下に座り込んだ。
ああっ、生きて帰れて、ほんとうによかった。
--- 2時間目 物理I ---
数学の時間が終わり、自分の教室に戻った。
洋子は既に前の席に戻ってきており、真剣な顔で八千代の手をとった。
「八千代、私を助けてくれた八千代のことは信じているからね。
いつまでも私たちは友達だよ」
洋子はさっき八千代と別れた後に、別の友人から例の噂を聞いたのだが、そんなことを知らない八千代は面食らっていた。
「もちろんそうよ。どうしたの?」
「いいの、私はそれを言いたかっただけ」
その時教師が入ってきて授業が始まった。
授業は力学的エネルギー保存の法則だった。
これも、物理IIまで済ませていた八千代には退屈な授業であり、数学の授業の再現となった。
にらむ八千代と、恐怖を押し隠す教師の対決。
八千代の意識と教師の理性のどちらが先にはじけ飛ぶかといった、ぎりぎりの攻防が続き、両者はチャイムで救われた。
--- 3時間目 英語 ---
「さあ八千代、教室を移動するよ」
洋子の声により飛びかけた意識を取り戻した八千代は、洋子について5組の教室に入った。
後ろにいた桑原和子は、八千代の姿を見た途端、目をそらして、小さくなっていた。
席に着いた八千代は、自分に気合を入れなおしていた。
さて、英語の時間である。
日本のお役に立てるために、鬼畜米英の言葉であろうともしっかと習得しなければならない。
眠いなんて言ってられない。
八千代が本気になると、睡魔は去っていった。
授業が始まり、再びアルファベットの紙を広げて覚えるように言われた。
先生に確認すると、Σやπはギリシア文字であり、英語では使わないとのことである。
つまりたった26文字覚えればいいだけとのことである。
しかも、もうすでにかなりの部分は知っていた。
gもグラムではなく、重力加速度のときに呼んでいるジーでいいのだ。
iだって、虚数単位を読むときはアイと呼んでいるのだ。
元々記憶力の良い八千代がやる気になったため、アルファベットはあっという間にマスターしてしまった。
先生は次にローマ字を覚えるように指示し、50音との対比表を八千代に渡した。
日本語を横文字で表現できることに八千代は驚いたが、法則性を理解すると、ローマ字も簡単に覚えることができた。
そもそも八千代は物覚えはいいのである。
先生は八千代の進歩に感心していたが、とにかく後は慣れるように言われ、ローマ字の本を渡された。
八千代は真剣に本を読んでいったが、これもカタカナからひらがなに慣れていったのと変わりはなく、授業時間内にかなりスムーズに読めるようになっていた。
チャイムが鳴り、授業が終わったが、とても充実した授業時間だった。
この分なら英語なんて2~3日で習得できるのではと、八千代は思った。
--- 4時間目 日本史 ---
教室に戻った二人は席に着き、すこしおしゃべりをしたが、すぐにチャイムが鳴り、授業が始まった。
「それでは授業をはじめるぞー、今日は鎌倉時代末期からだったな」
教師のその言葉で、八千代はわくわくした。
鎌倉末期というと楠正成が活躍した時代だ。
天皇に忠誠を尽くした楠正成は、明治から終戦までは大楠公と呼ばれ、八千代が尊敬する人物だ。
大楠公を祀っている神戸の湊川神社にお参りに行くことは、八千代の夢となっている。
もちろん大楠公の活躍は、今更学ぶまでもなく八千代のよく知るところであるが、大楠公の忠臣ぶりは何度聞いてもよいものなのだ。
教師の話は元弘の乱を経て建武の新政に移っていったが、残念なことに、楠正成の話は少ししかでなかった。しかもその後、当時の時代背景を説明した教師は、楠正成が悪党であったと説明した。
教師を尊重する八千代だが、さすがに大楠公を悪党といわれてはだまっていられなかった。
「先生、よろしいでしょうか」
「君はたしか編入生だったね。なんか質問かな」
「いくらなんでも、大楠公を悪党と言うのはおかいしのではないでしょうか」
この教師は八千代にまつわる噂をまだ聞いておらず、歴史に真剣に向き合う生徒がいたことを喜んでいた。
「うん、よい指摘だね。
ここでいう悪党というのは、世間一般でいう悪党のことではなく、当時の幕府に反抗した新興勢力を指す歴史用語だ。
別に楠正成が悪者だといっているわけではない」
「そうですか。それならよかったです。
勤皇の志士、大楠公を悪党とおっしゃったので、驚いてしまいました。
大変失礼しました」
「ははは、君はおばあちゃんにでも歴史をならったのかな、まるで終戦以前の歴史観だね」
「はい、高齢の先生に学びました」
「いや、興味深いね。
そうすると君にとって平将門はどういう人物かね」
「許すべからざる謀反人、逆族です」
「そうだね、日本の歴史上で唯一、天皇打倒を公然と叫んだ人物だからね。
でも今では、当時の朝廷の圧政をみかねて、民衆のために立ち上がった英雄と言う見方もあるんだ」
「まさか、そんなことって」
「歴史の解釈ってそんなもんなんだよ。当時の醍醐天皇が政治をおろそかにしていたのは事実だからね」
八千代は公然と天皇を批判する教師に驚いていた。この先生はアカなのかもしれない。
これ以上この話をするべきではないと思った八千代は、黙り込んでしまった。
教師は八千代が納得したと思い、授業を続けた。
八千代と教師のやり取りをよそに、洋子は教科書に『楠正成×後醍醐天皇』と書いてにやにやしていたのは内緒である。
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授業が終わり、今日も短縮授業なので、もう放課後である。
今日は金曜なので、土日のあと、月曜日からは中間試験となる。
「土日の後に試験ってひどいと思わない。休み中勉強させられるんだよ」
洋子が帰り支度をしながらうんざりした声でぼやいたが、八千代には奇異に聞こえた。
「試験の前って勉強するものなのですか」
「あっ、問題はつげーん。八千代は試験なんか勉強しなくってもだいじょーぶってことかな」
「いえ、そうじゃなくて、こんな試験を受けるのは初めてなので」
「えっ、そうなんだ。でも、試験前には勉強しておかないといい点は取れませーん」
言われてみれば当然のことである。
「でも、勉強するっていっても、何から手を付けていいのか。
歴史の教科書だけでもこんなに厚いですし」
「えっ、何言ってんのよ八千代。試験は範囲があるんだよ。
例えば、日本史は平安時代から鎌倉末期までだけだから、ここだけ勉強すればいいんだよね。
あっ、そっか、八千代は試験範囲のプリントが配られたときはいなかったもんね。
私、教えてあげるね」
洋子はそういって、八千代の教科書の試験範囲の部分にしるしをつけていった。
「洋子、ありがとう。
明日と明後日はこの範囲を勉強すればいいのですね」
「そういうこと」
二人は連れ立って帰っていった。
うちに帰った八千代は、じいさまに帰宅を告げるために組長室に入っていった。
「ただいま、じいさま」
「おお、おかえり八千代や。
お前にプレゼントがある。ほれ」
「なんですか、これ」
「今朝、お前のパジャマが破れておったからの、さっきかなえさんに買ってきてもらったんじゃ。
お前、今までのを気に入っとったようじゃが、もう古いもんじゃから繕ってもまたすぐやぶれるじゃろう。
同じような感じのパジャマを頼んだから、気に入るとよいんじゃが」
戦闘服のことは横文字でパジャマというのかと思いながら、八千代は包を開けた。
中には防空頭巾のついた戦闘服が入っていた。
色は以前のものと異なっていたほか、上下だけでなく手袋とも一体になっており、機能的そうだった。
防空頭巾には日よけもついており、それは一見くちばしのようにも見えるが、実用的だ。
「まあ、素敵。ありがとう、じいさま」
「そうかそうか、気に入ってくれたか。
早速、着てみてくれんかの」
「はい、カバンを置いて着替えてきます」
八千代は急いで部屋に行き、戦闘服に着替えた。
「まあ、これも楽だし、動きやすい。
戦闘服にはもってこいだわ」
八千代はお礼を言うために再び組長室に戻ってきた。
「見てください、じいさま。ぴったりです」
孝太郎は喜ぶ八千代を満足げに見つめ、考えていた。
『やはり女の子はかわいいものが好きなんじゃの。ペンギンのパジャマをあんなに喜んでくれておる』
「ところで八千代や、今日も早かったんじゃの」
「はい、月曜から試験があるそうなので、今は短縮授業というものになっているみたいです」
「そうか、それじゃ、この週末は試験勉強しないといかんのぉ」
「あっ、じいさまも試験の前に勉強することを知ってらしたのですね」
「そらそうじゃ。
で、お前はどんな勉強をすればいいか分かっておるか」
「試験範囲を教えてもらったので、その範囲の教科書を読んでみます」
「うーん、八千代や、お前は大体の科目では充分に学力を持っているが、英語だけが弱点になっておる」
「はい」
「じゃから、今回は英語に特化して勉強するんじゃ」
「この週末に英語を完全に習得すればよいのですね」
「いくらなんでもそれはちと無理じゃ。
その代わり、試験範囲の英語の教科書を丸暗記するんじゃ。
それと、日本語訳をセットで覚えればよい。」
「はい、でも教科書には日本語訳は載っていませんでしたけど」
「それはうちの顧問弁護士の先生に、今晩中にでもつくってもらおわい。
あの先生は英語がペラペラじゃからのぉ」
「わかりました。それではとにかく、まずは英語の教科書を暗記していきます」
「よし、その件はそれでよいとして、
念のために、お前の昼飯をかなえさんに握り飯にしてとっもらってあるから食べてから勉強するんじゃぞ」
「おにぎりっ!わー、じいさまありがとうございます」
「ほー、そうかそうか」
孝太郎はにやにやが止まらなかった。
昼食には、大きなおにぎりが2つも用意されており、それを涙を流しながら平らげて満腹になった八千代は、暗号のような英語を暗記するのに、うつらうつらとなり、その日は一向にはかどらなかった。
とにかく、昨日の夜更かしを反省し、試験が終わるまではじいさまの任侠本を読むのは我慢して、さっさと眠り、明日に備えることとした。