5.八千代、高校に行く
翌日、相変わらず日の出とともに八千代は起きだした。
事務所の鍵の開け方も覚えたので、屋外で2時間ほどいつものように自主特訓をしてきた。
ただ、走りながら歌を歌うことは近所迷惑になると孝太郎に止められてしまったことから、いつもよりちょっと気合の入り方が弱かったかもしれない。走りながら勇ましい歌を歌うというのは、気持ちを鼓舞するのにとても有効であることを八千代はいまさらながらに実感していた。
さて、今日は八千代が高校に行く日である。
学校については桔梗先生から色々と話を聞いていたが、八千代にとっては人生で初めての学校である。
学校どころか、同年代の友人さえいなかった八千代にとっては、全てが未知の領域だ。
期待は大きかったが、不安も大きい。
友人はできるだろうか。
友人とはどんな話をしたらいいのだろう。
勉強にはついていけるだろうか。
軍事教練の教官は怖い人だろうか。
学徒勤労動員ではどこの工場で何をするのだろうだろうか。
援農では何時間ぐらい肥くみをさせられるだろうか。
いろいろ心配はあるものの、悩んでいてもしょうがない、案ずるより産むが易しである。
学校には制服があるとのことだが、八千代の制服はまだできていないため、動きやすい私服で来るようにとのことだった。
動きやすいというと、防空頭巾付きのあの戦闘服だが、あれはやめておけと、なぜかじいさまに止められた。たぶん学校に戦闘服ではまずいのだろう。
しょうがないので、結局、昨日と同じく、初日に見つけた赤い花柄の服を着て、靴は適当に底の厚い靴を履いていくことにした。
カバンはじいさまが龍の柄がついたものを貸してくれた。カバンにはノートや筆箱が入っていた。昨日、若い衆に文房具をいろいろ買い揃えさせたとのことである。それと、体操服も入手済みとのことて、一緒に渡された。
それに加えて、じいさまはお金を持って行けと3万円もわたしてくれた。教科書などを買うのに必要だということだ。いろいろ買うのにもかかわらず、配給切符は必要ないとのことである。八千代が現代のしくみを理解するにはまだ時間がかかりそうだ。
それにしても、こんなに大金を持つのは緊張してしまう。いくら物価が違うことは理解していても、3万円は目もくらむ大金である。
八千代のいた小さな村では、人の物を盗む者は誰もいなかった。このため八千代は、お金を盗られるかもしれないという可能性は考えもしなかったが、大金を持つこと自体が初めての経験で、落としたり、無くしてしまうことが心配だったのだ。
「いってきまーす」
事務所の入り口で皆にあいさつすると、
「待て、八千代、モップは置いていけ」
と、じいさまにモップを取り上げられてしまった。得物がないとちょっと不安だった。
学校へは昨日行ったので、迷うことはなかった。
正門で守衛さんに、職員室に行くよう指示されていることを伝えると、昨日も来たことを覚えてくれていたようで、スムーズに通してくれた。守衛にとって、こんなハデな姿の人物は忘れようがなかったのだ。
職員室では教科書と教材を渡され、12000円支払うよう言われた。じいさまが持たせてくれたお金で充分足りてよかった。
クラスは2年2組になった。クラスは1学年に5クラスあり、全学科の平均点がよい方から順に1から5組に分けられているそうだ。八千代は2番目に優秀なクラスということになる。ただ、英語と数学については、その科目だけの成績順に分かれて授業を受けることになるらしい。数学はトップクラス、英語は最低クラスだと言われた。
八千代の担任は、鈴木先生というおっとりした若い女性だった。優しそうな先生でよかった。しかも、なんとなく村の桔梗先生に雰囲気が似ていたため、八千代はかなりほっとしていた。
しかし、先生が八千代を教室に連れていくため、一緒に職員室から出ようとしたときに、職員室内に一人外国人がいるのを見つけ、一気に緊張が走った。
「あ・・あの、先生、外国人がいるのですが」
「えっ、ああ、英語のハルゼー先生ね。オーストラリアの人ですよ」
オーストラリアもたしか連合軍側である。学校内にも敵国人が入ってきているのだ。おそらく日本の教育を管理し、生徒を洗脳するためにいるのに違いない。
ハルゼーという名も気に入らない。ハルゼーといったら、米軍の艦隊司令ではないか。
「あの先生の授業もあるのですか」
「ハルゼー先生が担当しているのは、英語の上位2クラスだけですよ。
國守さんの英語は田中先生に受け持ってもらいます」
よかった。とりあえず、洗脳教育は避けられそうだ。
--- ホームルーム ---
二人が教室に入った時、教室内の生徒はざわついた。整った顔立ちをしてはいるものの、昭和バブルの時代のハデな格好をした妙な新入生が来たのだ。平野ノラの信者か?
「はい、みんな静かに。転校生の國守八千代さんを紹介します。
國守さん、みんなに自己紹介してください」
『えっ、事故紹介?
事故に会ったことなんてありましたっけ。
なんか失敗談を話せばいいの?
そういえば昔、イノシシを捕まえるときに、背中から振り落とされて・・』
などと、八千代が考えこんでいると、緊張しているものと考えた先生がフォローしてくれた。
「お名前と、あと、好きなこととか、なんでもいいから自分のことを紹介してくださいね。」
そうか、そんなのでいいのか。
「私の名前は、國守八千代です。
好きなものは白米。アワやヒエの混じっていない純粋な銀シャリが大好きです。
嫌いなものは、虫下しの時に飲む壬生ヨモギです」
あとは何を言っていいか分からなかった。そもそも自分で自分を紹介するなんて、考えたこともなかった。
『終わりました』とばかりに、先生をにこにこ見つめる八千代に、これ以上は無理であることをさとった先生は、一番後ろの空いている席に八千代を座らせた。八千代の前の席の生徒は、興味津々という顔をして八千代を見つめていた。
--- 1時間目 現代国語 ---
「はいはい、それでは授業を始めますよ。みなさん、国語の教科書、23ページを開いてください」
そのまま国語の授業が始まったが、八千代は教科書を開いておどろいた。仮名がみんなひらがなで書いてあるのだ。なんでカタカナじゃないんだろう。そういえば、編入試験もすべてひらがなを使って書かれていたので読みづらかった。
「それではさっそく、國守さんに読んでもらいましょうか。國守さん、23ページの最初から読んでください」
「はい」
八千代は、桔梗先生から教えられた通りに立ち上がって読みだした。しかし、八千代にとってひらがなの混じった文章は読みにくい。しかも内容が「ニート」についての論説文である。ニート?、ライフスタイル?、ゲーム?、知らない単語だらけで訳が分からず、たどたどしい読みかたとなった。
鈴木先生は、
『編入試験の国語の結果は満点だったのに、緊張しているのかな』
と思い、一段落分を読み終えたところで他の生徒に交代させた。
席に着いた八千代はショックを受けていた。桔梗先生の授業の中でも国語は好きな方だったし、本を読むのも好きである。村にあった数少ない本は、どれも繰り返し読んでいた。しかし、この教科書の内容はまったく理解できなかった。
一方、八千代に代わって続きを読んでいる生徒は、この難解な文章をすらすら読んでいる。自分が井の中の蛙だったことを思い知らされた。
八千代は劣等感に苛まされながらも、一生懸命教科書の内容を理解しようとしていた。
『ニートってなに?職業の一種なの?
一日中家にこもってできる仕事なの?
縄をなったり、ワラジを作ったりしている人のことかしら。
でも内容からは何か生産活動をしているようには思えないわ。
ゲームとかネットとか意味の分からないものを凝視している記述があるわね。
これって、自宅で警備をしているってこと?』
などと、正解(?)に辿りつきかけたとき国語の授業が終わり、休憩時間となった。好奇心旺盛な生徒たちは八千代の周りに集まってきて、わやわやと質問をぶつけた。
「ねえねえ、どこから転校してきたの?」
「趣味はなに?」
「その服、ダサくない?」
「メアド交換しようよ」
「どこのスマホ使ってんの?」
「好きなユニットなに?」
一度にたくさん質問だけではなく、知らない単語がたくさん出てきて、八千代目を白黒させていた。
「も、申し訳ありません、一度にお声がけいただいても・・」
「じゃ、その服ってどこで買ったの?」
「これは祖父の恩人の娘さんのものなんです。
ても、服って買ったりできるのなのですか?
もらったものを繕って着たり、自分で生地から作るものだとばかり思っていたのですが」
「何言ってんのよ、ユニクロやGUに行ったりしないの?」
「すみません、どちらも聞いたことがないのですがお店の名前ですか」
「ええー、あっそうか、もしかして國守さんは地味にしまむら派とか?」
「島村?えっと、日本海海戦でバルチック艦隊を破った時に戦艦三笠に乗っていた島村参謀長のことでしょうか」
「きゃはは、なに訳の分からないこと言ってんの」
「どうも申し訳ありません。なにぶん村で育って何も知らないもので・・・」
年功序列の強い村で育ち、他の住民とかけ離れて若かった八千代は、村では最も低位の立場だったため、他者全てに対して敬意をもって接するのが習慣となっていた。世間知らずであり、妙にへりくだって応対する八千代は、この段階でいじられキャラに確定した。
周りは、あたふたとする八千代が面白く、余計にくさんの質問を浴びせたが、八千代は焦りながらもうれしかった。
『これが友達というものなのね。親しげにたくさん声をかけてくれるわ。楽しい学校生活になりそう。』
八千代はにこにこと同級生の顔を見回しながら、そう思っていた。
「あっ、次の授業は英語だ。早く教室移動をしないと」
誰かがそう言い、八千代に群がっていた生徒たちはわらわらと去っていった。
残された八千代は、どうすればいいのか分からなかったが、前に座っていた生徒が八千代に声をかけた。
「國守さん、英語は私と同じEクラスだから、一緒に連れてくよう鈴木先生に言われたの。英語の教科書を持ってついてきて」
明るく人なつっこい感じの生徒で、八千代はその子について教室を出た。
--- 2時間目 英語 ---
「私、森洋子。よろしくね」
「國守八千代です。お世話になります」
「英語は5組の教室で受けるんだよ」
「そうなんですか」
「うん、でもEクラスはガラが悪くてヤなんだー」
ここの学校は広い範囲の学力の生徒を受け入れているため、生徒の幅も広い。そして、学力底辺のクラスには、ガラの悪い連中が混じっていた。
「席は自由だから、空いてるとこに座ろうね」
洋子は八千代と並んで前の方に座った。後ろの方にはガラの悪そうな生徒が固まっているからだ。
その連中は、派手な服を着た八千代を見つけてにらみつけ、仲間内で何やらこそこそ話していた。
すぐに先生が入ってきて、授業が始まった。
このクラスでは学力の差が大きいため、全体での授業はせずに、個々に課題をさせて、先生が個別に指導する形をとっていた。
八千代はアルファベットを覚えるところから始まった。このクラスでも最も英語が分かっていない生徒は八千代であるため、しばらく先生がつきっきりになっていた。
「これは何と読みますか」
「えー、です」
「これは何と読みますか」
「びー、です」
「よく分かっているじゃないですか」
八千代はaからfとxyzぐらいなら知っていた。数学でよく使うからだ。
しかしgになると、
「グラム、です」
hになると、
「プランクの定数です」
iでは、
「虚数単位のことです」
あきれた田中先生は、AからZまでの大文字と小文字のアルファベットとその読みかたを書いた一覧表を八千代に渡し、これを書きとって覚えていくよう指示した。
その一覧を見て、八千代は思った。
『大文字?小文字?どういう区別なの?
あれ、それにθやΣなんかが入って無いわ。他にπやωなんかも。足りないものがたくさんあるわ。
そっか、この表はアルファベットのまだ一部なんだわ。他にどれだけたくさん覚えないといけないのかしら』
ゴールが見えないことと、そもそも敵性語に対する嫌悪があることから、八千代はどうにも覚える気になれなかった。八千代にとって英語は敵国が使う敵性語であり、忌避すべき言葉なのだ。
気分が乗らないまま周りを見回すと、森洋子は一人で一生懸命頑張っているようだが、その他のこのクラス全体にやる気のなさが漂っていた。
どうしていいか分からない様子の八千代を見とがめた田中先生は、再び八千代のもとにやってきた。
「國守さん、その一覧のアルファベットを順に何度もノートに書き写しながら、ひとつずつ覚えていきなさい」
そう指示された八千代は、しかたなくその通りにしようとした。
『そうね、たしかに桔梗先生のもとで漢字などを覚える際にもそうしてきたものね。
まあノートなんてなかったから、地面に木の棒で書いてたんだけど。
でも、こんな白いきれいなノートに敵性文字を書くなんてことをしていいのかしら・・。
はっ・・、こっ、これは・・貴重な日本の資源を浪費させるための亜米利加の陰謀なのでは』
脂汗をかきながら固まったままずるずると時間が過ぎ、英語の時間が終了した。
授業が終わるとすぐに、洋子が八千代に伝えた。
「國守さん、次は体育の時間だよ。教室に戻って、体操着に着替えようよ」
--- 3時間目 体育 ---
八千代は洋子に従って着替えを済ませ、運動場にでた。
体育はソフトボールだった。まずは洋子とキャッチボールをすることになった。
八千代は石つぶては得意だった。20メートルぐらい離れたところからなら、小石を投げて確実にウサギを仕留めることができる。しかし、ソフトボールは大きくて持ちにくく、石と比べて軽くて妙に指に引っかかる。このため、指を話すタイミングがつかめず、地面にボールをたたきつけたり、すっぽ抜けて暴投になったりした。
それにこのグローブと呼ばれている大きな手袋も使いにくかった。素手では簡単に取れそうな球なのに、これをつけてとる必要があると言われ、やりにくかった。洋子は洋子で結構どんくさいようで、ボールは八千代まで届かなかったり、横にそれたりして、二人はキャッチボールよりも、ボールとの追いかけっこをしている時間が長かった。
そんな二人を教室から見つめる目があった。英語の授業にいた不良の一人だ。名を桑原和子といって、この学校のスケバングループ『一女レディース』のメンバーである。
「ふっ、派手な格好でつっぱっている割には、運動神経はからっきしだね。因縁もつけやすいし、いいカモになるな。
珠代さんに報告しておこう」
そうつぶやきながら、八千代の動きを目で追うのをやめ、授業を無視してスマホでラインを始めた。
先生がキャッチボールを終えるよう指示した時には、同じように走り回っていた二人だが、洋子はぜーぜーと座り込まんばかりに息を切らしているのに対し、八千代は平然としていた。
キャッチボールの後には練習試合が始まった。八千代たちは先攻のチームになり、八千代の前二人はあっけなく三振で戻ってきた。
二人を観察していた八千代は、ボールをあの棒でたたけばいい、ということはなんとなくわかったので、自分の番だと言われると、バットを持って打席に立った。そして、剣道の正眼の構えをとった。
投手はソフトボール部の子だったので、球は早かったが、八千代の動体視力からすると止まっているようなものである。
球が横八千代の横を通る直前にバットを振り下ろし、球を地面にたたきつけた。球はそのまま半分ほど地面にめり込んで止まった。
八千代はその後はどうすればいいのか知らなかったため、そのまま立っていたが、キャッチャーがボールを掘り出して八千代にタッチし、アウトだといわれた。
その後は、グローブをはめて遠くの方まで走らされたり、また戻って来いと言われたり、わけがわからないまま、体育の授業が終わった。
洋子はまた八千代の面倒を見て教室に連れ帰りながらも、八千代は自分と同じようにどんくさいものと思い、同族だと感じていた。また、物腰の柔らかい八千代に好感を持っていたため、あまり友達のいない洋子は勇気をもって八千代に言ってみた。
「ねえ、國守さん、私たち友達になんない?」
「えっ、私の友達になっていただけるんですか、こちらこそぜひお願いします」
「じゃあ、私のことを洋子って呼んでね」
「えっ、あのそれはもちろん。えっと、それでは私のこともそう呼んでもらった方がいいのかしら」
「うん、八千代」
洋子はうれしそうだった。八千代にとっては、村では苗字は使うことなどなく、名前で呼ばれるのが普通だった。だからなぜいまさら名前で呼び合うことを宣言するのかがよく分からなかったが、洋子に倣ってそう言ってみた。とにかく、初めて友達ができたことはうれしかった。
--- 4時間目 情報 ---
次の時間は情報の実習授業だということで、八千代は洋子に連れられて、情報教室に移動した。
情報の授業など、八千代は聞いたこともなかった。
『情報ってなんの勉強なの、情報を集める訓練をするのかしら。もしかしたら、陸軍中野学校のように、諜報活動の訓練をするのかしら。実習って言っていたから、実際に進駐軍の駐屯所に忍び込んで、情報を集めてくるのかもしれない』
などと考えながら、どきどきしていた。
洋子に連れてこられた情報教室は、机にそれぞれノートパソコンが並んおり、八千代もその1つの前に座らされたが、もちろん八千代はパソコンなど見るのは初めてだった。
鍵盤のようなボタンの羅列があり、そこにひらがなや数字やアルファベットが並んで書かれていたので、とりあえずひらがなを読んでみた。
『せらになんかすいてた?なんなのこれは?』
八千代には思い当たるものがあった。
『なるほど、これは暗号の装置ね。きっとこれが、あのエニグマ暗号機なんだわ。友軍独逸から技術提供されたのね』
などと考えていると、先生が入ってきて説明をはじめた。
「はいみんな、前回までC言語の勉強をしてきたので、今日は実際のプログラムを動かしてみよう」
先生はプロジェクターを操作し、サンプルプログラムを表示した。
main(){
int i,x;
x = 0;
for(i = 1; i <= 10; i++){
x = x + i;
}
printf("%d\n", x);
}
「これは1から10までの数字を足して、その結果を表示するプログラムだ。
これを打ち込んで、実行してみろ」
八千代には訳が分からなかった。1から10までの数字を足す?答えは55だ。そんなのは暗算でもできるのに、なぜわざわざそんなことをしなければならないのだろう。
いや、これは暗号の授業だとすると、先生が示したプログラムとやらに何かが隠されているのかもしれない。
八千代はプログラムをまじまじと見つめていると、不審な表記に気づいた。
『あれっ、i=1と書いてある。iは虚数単位なので1ではなく、-1の平方根よ。それにその横、iが10以下と書いてある。虚数では大小関係は定義されていないので、これも間違いよ。
その下も変だわ。x=x+iですって? xに虚数単位を足してもxのままなんて、でたらめもいいとこだわ。どういうこと?』
しばらく考えて、八千代は気づいた。
『そうだわ。なんか横文字らしいものが混じっていて、うさんくさいと思っていたけど・・
これは暗号教育のふりをした、洗脳教育だわ。
虚数単位が1だとか、虚数に大小関係があるとか、虚数を足しても元の数は変わらないとか、いろいろ嘘を教え込んで、日本の科学技術を低下させるための進駐軍の罠なのよ』
そう考えると、全ての辻褄が合った。実際、手元のパソコンの画面のあちらこちらに横文字が表示されている。また、パソコン本体にも大きくVAIOと横文字の表記があった。これが進駐軍の備品であるなによりの証拠だ。
八千代は洗脳を避けるために、授業が終わるまで目を閉じて耳を両手でふさいでいた。
授業が終わったことは、洋子に肩をたたかれてようやく気付いた。
「八千代、居眠りしてた?」
「いいえ、そういうわけではありませんけど」
「恥ずかしがらなくてもいいよ、情報の勉強は難しいもんね。
来週中間テストで、今週は短縮授業だから、今日の授業はこれで終わりだよ。一緒に帰らない?」
周りの生徒も少なくなっており、二人は一旦教室に戻ってカバンを取った後、一緒に校舎を出た。
学校生活初日の勉強が終わったわけだが、八千代はすっかり意気消沈していた。
桔梗先生には勉強のできがいいとほめられてきたものの、今日は一日、どの授業もさんざんだった。
きっと桔梗先生はおだててくれていただけで、同年代の平均からすると、自分は学力も低く、また、運動音痴でもあるのだろう。
しかし、横に並んで歩く洋子を見て、友人との学校生活も悪くないと、気を取り直していた。
二人は、楽しくおゃべりをしながら歩いていた。
「ねえ、八千代はどこに住んでたの?」
「一宇村っていう山の中の村です」
「あっ、私も元々田舎の出身なんだ。一緒だね」
「そうだったの?よかった、私と同じ境遇の友達ができて」
「田舎って大変よねー」
「はい、本当に大変でしたわ」
程度の違いが考慮されていない会話が続いていたが、突然二人は、数人のメンバーに取り囲まれた。
メンバーの中にいた桑原和子が呼びかけた。
「おい、そこの赤女」
八千代はいきなり呼びかけられ、驚いた。
「えっ、私のことですか。私は共産主義者ではありませんよ」
「何言ってやがる。まっ赤な格好をしている赤じゃねえか」
「アカだなんて、やめてください。特高警察が来たらどうするんですか」
「なにを訳の分からないことを言ってやがるんだ」
「八千代、この人たち不良グループだよ」
青くなった洋子が、八千代に伝えた。
「分かってんなら話が早い。
おい、てめえ派手な格好でいきがりやがって。誰に断ってつっぱってんだよ。
そんなに目立ちたいなら、まず上納金を支払いな」
「上納金?」
八千代は訳が分からなかったが、自分が今の世のシステムをよく理解していないことはわかってきていた。
目前の人が支払いを要求しているということは、支払う必要があるということなのだろう。そもそも八千代はカツアゲなどというものの存在は知らないのだ。
「すみません、私、状況をきちんと理解していないもので、失礼いたしました。
それで、いくらお支払いすればいいいのですか?」
「今、いくら持ってんだ」
「手持ちは18000円ですが」
「じぁあ全部よこしな」
「はい、わかりました」
素直に財布を取り出そうとした八千代を洋子がたしなめた。
「だめだよ、八千代」
その瞬間、和子が洋子を平手打ちした。
「よけいなこと言うんじゃねぇ」
頬をたたかれてしりもちをついた洋子だが、和子はなおも洋子の手首をつかんで引っ張り起こした。
「なにをするんですか」
叫ぶ八千代に対して、和子は洋子の胸倉をつかんだまま、すごんだ。
「うるせー、さっさと金をだしやがれ」
ここに来てようやく、八千代は相手が理不尽な要求をしていることに気づいた。
「苦し・・・」
洋子がうめき声をあげた瞬間、八千代は瞬間移動したかのように和子の目前に移動し、和子に正拳付きをくらわした。
その瞬間、和子は洋子を手放して大きく後ろに吹き飛ばされて、倒れこんだ。
自分よりも強い指導者たちに囲まれて育った八千代は、これまで手加減をすることなどなかった。友達を助けようとした八千代は、反射的に和子にも手加減なしのこぶしを打ち込んだのだ。
我に返った八千代は、倒れて動かない和子が気になり、様子を確認しにいった。白目をむいた和子が失神しているのをかがんで確認していると、後ろから声がかけられた。
「へぇー、意外とやるじゃないか。でもそれ以上おいたがすぎると、こいつがどうなっても知らないよ」
リーダーの珠代だった。珠代は5人の仲間と共に洋子を取り囲み、左手で洋子を羽交い絞めにして、右手の指ではさんだ2枚のカミソリの刃を洋子の顔に近づけていた。
「こいつの顔が傷だらけになってもいいのか。いいことを教えてやろう。狭い幅で2本の深い傷をつけたら、縫うことができないから醜い傷が残るんだよ」
と、なんかのマンガで仕入れ知識を誇らしげに伝えた。こいつも厨二病だった。
なんだか二日前にも似たようなことがあった。あのときは、八千代の勘違いで、ヤスさんたちは八千代をかわいがってあげようとふざけていただけだったようだが、今回は違う。相手は凶器をもって、脅迫しているのだ。
こんなことをするのは、米兵しかいないのだ。そう、間違いない。その証拠に、こいつらはみんな揃って金髪だ。
米兵なら容赦する必要はなく、八千代の行動は早かった。
和子の横に落ちていた石をつかむや、珠代が持つカミソリめがけて投げつけた。
石は、カミソリを弾き飛ばし、珠代が痛みで手を押さえた瞬間、八千代はすでに目の前にいた。
八千代は洋子を自分の背後にかくまうや否や、6人まとめて叩きのめした。
倒された本人たちはもちろん、遠巻きに顛末を眺めていた物見高い生徒たちにも、何が起きたのかがわからなかった。ただ、6人があっという間に倒れたことだけは間違いなかった。
倒れた珠代は、うめきながらもまだ八千代にすごんでいた。
「てめえ、覚えてろよ。あたいの彼は、錦織組の若頭の舎弟なんだ。思い知らせてやるから、後悔しな」
八千代はたしかに後悔することになり、頭を下げた。
「まあ、ヤスさんのお知り合いでしたの。また私ったら米兵と誤解してしまいました。大変申し訳ありません」
「なっ、なに、てめえ、錦織組のヤスさんを知ってんのか」
「はい、ヤスさんはうちの若頭ですから」
「うちって・・」
「ええ、私のじいさまが錦織組の組長をしておりますので」
珠代はようやくとんでもない相手に手を出してしまったことに気づいた。
「えっ、そ・・それは失礼しました。こ・・このことはヤスさんにはどうかご内密に・・」
「えっ、どうしてですか。せっかくヤスさんのお知り合いに会えましたのに、今日のことをヤスさんにも教えてあげたら楽しいじゃないですか」
八千代に他意はなかったが、珠代は脅迫されていると感じた。
「あ・・姐御、何でも言うことを聞くから、勘弁してください」
八千代に土下座をする珠代を遠目で見つめていた生徒達は悟った、新たなヘッドの誕生である。
仲間を連れて飛ぶように逃げていく珠代を見送り、八千代は洋子に声をかけた。
「洋子、もう大丈夫よ」
パニック状態で訳が分からなくなっていた洋子だったが、八千代が助けてくれたことだけはわかった。
八千代にしがみついて、泣き出していた。
「わーん、こわかったよー」
「もう大丈夫よ」
二人は仲良く校門を出て行ったが、その日のうちに、八千代の噂は学校中に広まっていた。
曰く、
派手な格好をした転校生は組関係者で、一人で一女レディースに乗り込み、全員をあっという間に叩きのめして、無理やりヘッドの座を乗っ取った、と。
注1) : エニグマ暗号機
大戦中のドイツの暗号化/復号化の機械
注2) : 特高警察
戦時中の治安警察。共産主義者や反戦主義者の取り締まりを暴力的に行っていた。