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帝国国防婦人 八千代  作者: 日之本オタ
3/21

3.新しい居場所

 ここの事務所は4階建てで、かつて別の会社の建物であったものを買い取って、改築したものだということである。

 そのため、1階が組事務所であり、2階には食堂などの共用施設があり、3階と4階が居住施設になっている。孝太郎の他、組員のうち3人が3階に部屋をもらって住んでいるらしい。


 孝太郎は八千代に4階の部屋を使うように言った。

 なんでも、30年ほど前に先代の組長の娘が使っていた部屋だが、親の仕事に嫌気がさして家出して、そのままになっているそうである。


「八千代や、あの部屋は先代の娘さんがいつ帰ってきてもいいように、ずっとそのままにしてきたが、さすがにもういいじゃろう。部屋には服も残っているから、お前が自由に使ったらいい」


 孝太郎は八千代にそういった後、若い衆の一人に向かって言った。


「おい、ヒロ、八千代を2階の厨房に連れて行って、パートのばあさんに引き合わせろ。そんで、ばあさんに八千代をぐるりと案内するよう伝えるんじゃ」


 八千代は、『パアトだなんて変な名前の人ね。外国人かしら』と思ったが、ヒロと呼ばれた若者に連れられて2階へと向かった。ヒロはなんだか少しビクついているようだった。

 建物の中を階段で上がっていくなんて変な感じだった。屋根裏以外には、こんなのは八千代は知らなかった。

 でも、そんなことよりも、実は八千代は切迫した状況だった。村をでてから一度も『お花を摘みに』行っておらず、膀胱(ぼうこう)が破裂寸前なのをさっきから我慢していたのだ。

 2階に上がった途端、限界を感じて、八千代はヒロに尋ねた。


「あの・・」


「はっ、はいっ!」


 声をかけられて飛び上がるヒロに構わず、八千代は続けた。


「ご不浄(ふじょう)を使わせてもらえませんか?」


「えっ、ご、ごふじょー?」


 ヒロには意味が分からなかたっが、八千代の様子からもしかしてと思い、答えた。


「もしかしてトイレのことですか」


 今度は八千代が理解できなかった。


「トイレってなんですか?

 そうじゃなくて、雪隠(せっちん)のことです。あの、(かわや)です」


 やはりヒロの知らない言葉ばかりだったが、どうもトイレのことを言っているように思えた。


「あの、便所ですよね」


 やっと二人が共通に知っている単語が出てきた。


「そうです、お便所です」


 よかった、通じた。でも喜んでいる場合じゃない。


「その、お便所はどちらですか」


「そんなら、その突き当りです」


「ありがとうございます、荷物お願いします。」


 だんだんと小走りになっていく八千代を見送りながら、ヒロが声をかけた。


「オレ、こっちの部屋で待ってるから、終わったらきてくださいね」


 焦りながらも八千代は考えていた。


『どうして2階にお便所があるのかしら、2階から下まで落とすのかしら

 高いところに作ったら、お釣りが届かないからなの?』

 

 そう、八千代は汲み取り式のポッチャン便所しか知らないのだ。

 ちなみに、『お釣り』とは、ポッチャン便所に投下した際に、下から跳ねてくる飛沫(ひまつ)のことである。

 でも、そんなことはどうでもいい、今は緊急事態なのだ。


 奥まで来た八千代は、便所と書かれた2つの扉の前にいた。

 1つの扉には青の人型、もう1つには赤の人型が描かれていた。赤の人型は(はかま)をはいたような形だった。

 服装によって使う便所が異なるのだろうか。モンペと袴では脱ぎかたが違うので、分けているのかもしれない。

 それなら今はモンペなので、青い方に入ればいいのだろう。

 八千代が扉を開けて飛び込むと、男が一人向こうを向いて立ったまま用を足しているところだった。

 男は振り向いて驚き、


「わわっ、女はとなりだ」


と、叫んだ。

 どうやら、男と女で便所を分けているようだ。でも、なぜ分ける必要があるのだろう。女しかいない村で育った八千代にはよくわからなかった。

 とにかく、八千代は隣の便所に向かうことにした。


 それにしても、あの男の人は立ったまま用を足していた。

 座ってした場合は、緊急時には対応が遅れるから、常に周囲を警戒して立ったまましているんだろうか。

 見上げた心がけの人だ。

 服を濡らさないように立ったままするために、なにか道具があるのかもしれない。あとで見せてもらおう。


 などと考えながらも、隣の女子用に飛び込んだ。

 そこは3つの個室が並んでいた。

 そのうちの1つに飛び込んだが、そこは八千代の知っている便所ではなかった。


「えっ、これはなに」


 椅子のようなものがあり、フタがしてあった。

 フタを開けてみると、中に水が入っており、やはり便所とは異なっている。


「ここって洗濯をする所なの?入口には便所って書いてあったのに」

 

 まわりを見回すと、古ぼけた貼紙に『洋式便器の使い方』と書いてあり、その下に説明図があった。

 そこには、『大便および女子小用』とあり、便器に腰をかけている絵があった。

 一刻の猶予もない状態だった八千代は、後先考えずにその図に従い、まあいいやと自然現象に身をゆだねた。


 解放感に酔いしれる間もなくふと我に返った八千代は、荒縄を探した。そう、用を足した後は、荒縄で(ぬぐ)わないといけないのだ。

 しかし、まわりに荒縄はなかった。しまった、用を足す前に確認しておくべきだった、と思っても後の祭りである。

 そもそもそんな余裕は、さっきまでの八千代にはなかった。


 ふと横を見ると、いくつかの(ボタン)が並んでいた。

 なんだろうと思い、その中で「おしり」と書かれたものに指を当ててみた。


 「ひゃあああ!」


 思わず声を上げてしまった。なんと、いきなり下からお尻に攻撃を受けたのだ。


挿絵(By みてみん)


 八千代は、いついかなる時も悲鳴をあげないよう訓練されていたはずだった。

 潜伏時に声を上げると、命にかかわるからだ。しかしこんな攻撃は想定外だ。

 ぐぬぬ、なんという不覚。これは米兵の罠なのか。

 あわてて息をひそめてまわりの気配をうかがった。

 よかった、敵が近くにいる気配はない。

 こんなに驚いたのは久しぶりだったが、我に返ると納得した。お湯で洗ってくれたのだ。

 落ちついてみると、なんとも気持ちのいいものだった。

 その横には、「止」の釦があったので、それを触るとお湯は止まった。


 なるほど、亜米利加式の便器はこうなっているのか。亜米利加の技術、おそるべし。


 釦の下には、巻紙が備えられていた。

 柔らかくてきれいな紙だった。村で(こうぞ)から作っていた紙とは大違いだった。

 以前は用便後に紙を使ったこともあったと桔梗先生が言っていたが、まさかこんなにきれいな紙で拭いたりはしないだろう。そう思ったものの、お尻を濡れたままにできないので、ごめんなさいと言いながら必要最小限を切り取って拭きとった。


 八千代が立ち上がると、突然ごおーっと音が鳴り、再び八千代は飛び上がり、身構えた。

 よく見ると、便器の中が水で洗われてきれいになっていた。

 うーむ、亜米利加の技術、ますますもって油断ならない。近い将来、こんな高度な技術を持った敵と戦わなければならないのだ。気を引き締めてかからければいけない。


 個室から出て、あたりを見回したが、手を洗う水が入った(かめ)が見当たらなかった。

 その代わり、入口近くの流し台に、醤油樽の底についている蛇口のようなものが壁から生えていた。

 もしやと思い、ノブをひねると水が出てきて、手洗うことができた。

 むぅ、便所とはこんなに驚きの連続となる場所だったのか。



 もたもたしながらも、なんとかひと仕事すませた八千代は、ヒロが言っていた部屋に戻った。

 部屋にはヒロと一緒に初老の女性(だと思う)が待ってた。


 ヒロは、

 「そんじゃ、あとはこのかなえさんに色々聞いてください。じゃあ」

と言い残して、逃げるように去っていった。


 かなえと紹介された人は、80歳に近いと思われる老婆で、こちらを向いてにこにこしていた。


『よかった、外国人じゃなくて』

と思いながら、八千代はあいさつした。八千代は年寄りとは親和性が高いのだ。


「はじめまして、國守八千代です。今日からお世話になります」


「これはこれは。

 わたしゃ、水谷かなえだよ。

 八千代さん、組長さんのお孫さんだって?」


「はい、なんかそういうことみたいです。」


「そうかい、そんじゃついてきてくださいな、まずはその荷物を部屋に持って行って、着替えなきゃね」


 二人は4階に上がっていったが、途中3階で靴を脱ぎ、素足となった。ここから上の居住空間では、素足での生活であるとのことだ。

 よかった、日本の習慣はなくなってはいなかったのだ。

 かなえは八千代を連れて、途中、風呂や便所の場所を教えてくれた。


「お風呂は入るときに電気をつけて、出るときには必ず電気を消してくださいね。

 そうすると、誰かが入ってるかそうでないかが一目で分かりますから」


「電気って、これでつけたり消したりできるんですか。

 すごいですね」


 スイッチの使い方を教えてもらいながら驚く八千代に、かなえは苦笑いをしていた。


「それと八千代さん、お風呂の脱衣室に入ったら、忘れないように必ず鍵をかけてくださいね」


「はぁ・・そうですか」


 返事をしながらも、八千代には鍵をかける必要性が理解できなかった。

 そもそも八千代の村には男はおらず、子供のころから村の池で素っ裸で水浴びをしていたのである。

 八千代は疑問を口にしようとしたが、一番奥の部屋に入りながらのかなえの説明に遮られた。


「ここが、真紀子お嬢さんの部屋だったんだけど、今日からは八千代お嬢さんの部屋にしていいそうだよ」


 その部屋は8畳ぐらいの部屋で、寝台と机があり、窓にはかわいいカーテンがかかっていた。もう30年も部屋の主はいないと言っていたが、きれいに掃除がなされていた。きっといつ帰ってきても迎えられるよう管理されていたのだろう。

 いずにせよ、八千代が見たこともないきれいな部屋だった。


「こんな素敵な部屋を私が使ってもいいの」


八千代には信じられない思いだった。


「はい。あと、こっちにはいろいろな服があるから、自由に着てくださいね、背格好も八千代お嬢さんと同じぐらいでしたから、合うと思いますよ。」


 かなえは押入れを開けて、中を見せた。押入れにはカラフルな服がたくさん吊るされており、八千代には驚くべき光景だった。

 こんな御洒落(オシャレ)な服は別世界の物だった。村にあった数少ない雑誌の中に戦前のものが一冊あり、そこに当時のモ(注1))たちの巻頭グラビアが載っていた。さっそうとしてモダンな服を着こなした彼女たちは、色褪(いろあ)せた写真の中であっても輝いていた。その憧れのモガ達のような服が目の前にあり、これを着られるのだ。

 実はこれらの服は昭和の時代の物であり、今となっては時代遅れであるが、もちろん八千代にはそんなことは分からなかったし、かなえも気づかなかった。

 八千代は感動に震えながら、おそるおそる手にした服をよく見ると、それはスカートだった。

 スカート、憧れのスカートである。


「ああっ、スカートだわ」


 八千代にとっては女を際立たせる神聖な衣服である。そういえばさっきの便所の前の赤い人型は、袴ではなくて、スカートを履いた姿だったのか。

 しかし、これまで八千代はスカートを履いたことはなかった。野良作業では邪魔になるし、いざというときに身のこなしに支障があるかもしれないからだ。

 スカートを履けるというのは八千代にとって強い誘惑だったが、習慣というのは恐ろしいものである。いざというときのことを考えると、安全が確認できるまではスカートを履くことはできなかった。

 その代わりに、動きやすそうなシャツとズボンを選んだ。


「これを着させていただいていいでしょうか」


 遠慮気味に尋ねる八千代に、かなえは笑いながら答えた。


「この部屋の物はもう全部八千代お嬢さんのものだから、自由に使っていいのよ。

 でもその前に体を洗った方がいいわね。

 ずいぶん汚れているみたいですから。

 お風呂は沸いてるし、今誰も使ってなかったから、入ってきたらどうですか」


 そう言われてみると、村での訓練の後、ばあさまが倒れたり、お墓を作ったり、山を降りてきたりと、ずいぶん動いたのだが、汗をぬぐう間もなかったことに気づいた。

 これでは人を不快にさせてしまうかもしれない。


「はい、そうさせていただきます」


 そう言うなり、八千代はあっけにとられるかなえの前で躊躇(ちゅうちょ)なく服を脱ぎ始めた。

 上半身裸となり、さらにモンペを脱ぎだした八千代を見て(あわ)ててかなえは八千代を制した。


「ちょっとまって、お嬢さん。

 ここから裸でお風呂までいくつもりなの?」


「はい?

 今はそんなに寒くないから、大丈夫ですよ」


「何言ってるんですか、ここには男も住んでいるのですよ。

 4階にはお風呂の時ぐらいしか上がってきませんが、もし廊下で鉢合わせしたらどうするんですか」


 女だけの村で育った八千代にはよくわからなかったが、男がいるところでは裸になってはいけないということらしい。


「とにかく、風呂の脱衣場で鍵をかけてから服を脱いでください。

 手ぬぐいはそこにありますから。

 入浴後、着替えたら食堂まで戻ってきてくださいね。

 わたしゃ先に行ってますから」


 そう言って、かなえは扉を閉めて、降りて行った。


 残された八千代は、さっき脱いだ服を羽織りながら、かなえのさっきの言葉を考えていた。


『なんで男が住んでいると、裸で廊下を歩いてはいけないのかしら』


 そういえば昔、桔梗先生は『夫となる人以外の男に肌を見せてはいけません』って言っていたが、すっかり忘れていたことに気づいた。そういうことなのだ。

 これまでと異なり、男が近くにいる生活となるのだから、桔梗先生の言葉をよく思い出し、失敗のないようにしなければならない。

 他に何と言っていたのか。

 そう、たしか『男の人は立ててあげないといけない。男の誇りを傷つけてはいけない』と言っていた。

 あと、『男と歩くときは、三歩下がってついていかないといけない』とも言っていた。

 それらから考えられることは・・


「そっか、男の人は保護して守ってあげないといけないんだわ。三歩下がって護衛するってことね。男って弱いみたいだから」

 たしかに、彼ら7人は皆、弱かった。

「でも、それならどうして戦争には男が行くのかしら。

 ・・そうだわ、戦いは攻めるよりも守る方が重要だから、強い女たちが国に残って重要な守りを担っているんだわ。

 きっとそうね」


 納得した八千代は、手ぬぐいと着替えを抱えると、かなえの言葉に従って風呂に向かった。

 脱衣場ではちゃんと鍵を閉めてから服を脱ぎ、浴室に入った。

 風呂は広く、洗い場には3人分の椅子と蛇口が並んでいた。


「こんなに広いなら、他の人とも一緒に入れるじゃない」


とつぶやきながらも、


「そっか、男の人とは入ってはいけないってことになるのか。

 私、間違わずにやっていけるかしら」


などとちょっと不安になっていた。


 とにかく、風呂は気持ちが良かった。

 村では、汗をぬぐうのは基本的に水、ごくまれにお湯を(おけ)に張って、それで手ぬぐいを湿らせて拭き取るだけであった。

 特別な時に小さな浴槽のお湯に浸かることもあったが、村の者みんなで共用するため、とても綺麗なお湯とは言いがたいものだった。

 それに比べて、ここでは広い浴槽にきれいなお湯が満たされている。

 さらに驚いたことに、洗い場の蛇口からは水だけではなくお湯も出るのである。

 また貴重な石鹸も無造作に置かれている。

 こんな世界があるとは想像もできなかった。

 もしかすると孝太郎じいさまは、とてつもない大富豪なのかもしれない。


 あまりの気持ちよさに長湯して、湯あたりしそうになった八千代は、後ろ髪をひかれながらも風呂から上がり、脱衣場で新しい服を身に着けた。

 部屋に戻ると、部屋には姿見があり、そこに映る自分を見てうれしくなった。

 派手なシャツと桃色のズボン(パンタロン)に包まれた自分はとても新鮮だった。


「まあ、軽くてとても動きやすい、それになんてハイカラなのかしら」


挿絵(By みてみん)


 まるで雑誌のモガの一人になったようだった。

 足取りも軽く、階段を降りて行った。



 2階の食堂では、かなえが用事をしながら待っていた。

 八千代に気づいたかなえは手を止め、お茶を飲みながらお互いのことをいろいろと話した。

 ここのお茶はとてもおいしかった。一宇村のお茶の木とは違うのだろうか。

 どうやって茶葉を処理しているのか、後で教えてもらおう。


 かなえは昼前にこの事務所に来て、全員分の昼食を用意しているそうだ。

 その後、掃除や買い物などを行い、ここに住んでいる4人分の夕食を作った後、自宅に帰っていく。

 ちなみに朝食は、住み込みの組員が当番制で作っているとのことだ。


 八千代がこれまでの暮らしを説明すると、かなえは目を丸くしていた。

 八千代は自分の生い立ちが一般的ではないことを初めて理解した。

 それに、かなえは、今の日本は別にアメリカに占領されているわけではないと説明してくれた。

 あの町の様子からすると、とても信じられないことである。

 かなえも八千代をだまして洗脳するための工作員なのだろうか。

 いや、かなえの様子からは不審な点は感じられない、きっと、かなえ自身が騙されているのだろう。

 とにかく米兵は巧妙なやつらなのだ、決して油断はできない。

 そして八千代は気づいた。


『そうか、私は山中で暮らしていたため、米兵の洗脳から逃れられてきたんだわ。

 日本を亜米利加から救うのは、現状を正しく認識できている私の使命なのよ』


 そう思い、責任の重さに身が震える思いだった。


 話し込んでいると、5時になっていた。

 ここの時計は村のものと異なり、振り子が無く文字盤だけなのに動いている。不思議だ。

 

「あらあら、もうこんな時間。急いで夕食の用意をしなくっちゃ」


 かなえがそう言いながら立ち上がった。


「きょうは孫の誕生日だから、早く準備を済ませて帰りたいのよね」


 そそくさと厨房へと向かうかなえに、八千代が声をかけた。


「かなえさん、私に作らせてもらえませんか。村ではずっと私が作っていましたから」


 『働かざる者食うべからず』が身にしみついている八千代にとって、ここで住まわせてもらう代わりに何かしないと落ち着かないのだった。


「きょうはそうしてもらえると助かるねぇ」


 かなえはそう言いつつ、厨房を一通り説明してくれた。

 冷蔵庫という食品貯蔵庫には驚かされた。夏でも、食品を低温に保ってくれるらしい。

 他にも、米びつ、お湯も出る水道、炊飯器、自動食器洗い機などというものまであった。

 なにもかもが空想の世界にでてくるようなものばかりだ。

 何よりも衝撃だったのは、ガスコンロというものだ。釜土(かまど)で薪に火をつけなくても、つまみをひねるだけで火がついた。

 これは伴天連(ばてれん)技というやつか。亜米利加の技術なのか。敵の技術がこんなに高かったのであれば、日本が敗北したのも理解できる。

 八千代はくやしかったが、便利になること自体はとても助かる。


「夕食は、お嬢さんのを含めると、5人分作ってくださいね。それぞれの分をそこのトレイに乗せて出せばいいからね」


と、かなえは四角い皿を指さした。


『トレイ?たしか便所のこともそういっていたわね。食器と便所が同じ呼び方だなんて、やっぱり敵性語は下品だわ』


などと考えつつも、八千代は調理台にあったねぎを指して尋ねた。


「このネギも使っていいのですか」


「はいな、もちろん。冷蔵庫のものも含めて、食材は自由に使ってくださいな。」


 手早くねぎを洗い、刻みだした八千代の手際の良さを見て、かなえは安心して任せられると思い、

「それじゃ、よろしくね」

と、帰っていった。


 残された八千代だが、もう献立の内容は決めていた。

 そう、・・おにぎりである。

 昼間のお遍路さんのおにぎりが目に焼き付いていた。


「あと、みそ汁と、それに戸棚にはメザシもあったわ。なんて贅沢なのかしら」


 八千代はうきうきしながら準備した。

 食材も、白米も、自由に使えるなんて。


「5人分だから、お米は2合、いえ贅沢して3合炊いてしまおうっと。うふふ、なんだかバチが当たりそうね。」


 炊飯器の使い方はよくわからないので、部屋から持ってきたお釜に()いだ米を入れ、慎重に水加減をした。いつもとは異なり、粟やヒエは混じっていない。白米だけの水加減にしないといけないのだ。念入りに水加減を確認し、お釜をガスコンロにかけた。

 ネギ以外にみそ汁の具材を探すため、冷蔵庫を開けると、食材が豊富に入っていた。

 八千代が見たことのない食材も多かった。

 透明な紙の包に入った肉もあっったが、852円という値札を見て恐れをなした。物価が変わったのは理解してても、こんな高いものは恐ろしくて使えない。

 その代わり、豆腐があったので、これを使うことにした。5人分なので、1/4丁も使えば充分だろう。


 八千代は豆腐を(さい)の目に小さく切り、ネギと一緒に煮込んだ。


「そうよ、味噌も節約しなくていいんだわ。おいしいと思う量を使っていいのよ」


 貧乏性が身にしみついている八千代だったが、今日は気が大きくなっていた。

 いつもの倍近い味噌を使い、おいしいと思える味付けにした。


 そのうちご飯が炊けたので、おにぎりも5個作った。粟やヒエの入っていないおにぎりはつやつやと美しかった。


「さあ、できたわ。これらをトイレ・・あれっ、トレイだったかしら。とにかく、これに乗せてっと」


 完成である。

 トレイに乗ったコンビニサイズのおにぎりが1つ、小さな豆腐とねぎの入ったみそ汁、それにメザシまでついているのである。こんな豪華な料理は見たこともない。


 ちょうどその時、7時となり、皆が食堂に集まってきた。


「はーい、ちょうど用意ができたところです」


「おお、今日は八千代が作ってくれたのか」

と、孝太郎はうれしそうだった。


 八千代はにこにこしながらそれぞれにトレイを配った。

 若い女性に配膳してしてもらい、嬉しそうにしていた組員たちだが、トレイをみて固まってしまった。

 その様子を見て、八千代は自分の失敗に気づいた。

 しまった、調子に乗りすぎた。さすがに、食材を贅沢に使いすぎたのだろう。自分は何を浮かれていたのだ。


 しかし、孝太郎の口から洩れた言葉は意外なものだった。


「うん、まあ・・ちと量が少ないかのぉ」


 八千代には意外だったが、これでは少なかったようだ。

 男というのは大量に食べ物が必要なのかもしれない。


 でも量はともかく、味付けには自信がある。なんといっても、今日は味噌をふんだんに使ったのだ。


「あの・・みそ汁のお味はどうですか」


 おずおすと尋ねる八千代に、孝太郎が答えた。


「うん、ずいぶん薄味じゃの」


 塩が貴重な村で育った八千代は、薄味に慣れていた。どうやら味覚もかなりずれているようだ。


 みんなを満足させられなかった八千代はがっかりしたが、とにかく自分も、昼の大根まるかじり以来の食事をとることにした。 

 みそ汁はとてもおいしかった。いつものただのお湯みたいな汁とは異なり、味噌の味がしっかりついている。それにネギだけではなく、豆腐まで入っているのだ。

 メザシなんて何年ぶりだろう。存在を忘れるところだった。こんなにおいしいものだったんだ。

 それに何と言っても、白米のおにぎり。ああ、白米よ。私は今、白米を食べているの。粟もヒエも芋も入っていない、純粋な白米。食べるのがもったいない。

 一粒一粒、しっかりとかみしめて食べよう。

 ぽろぽろと涙をこぼしながら、おにぎりをちまちま食べる八千代を、周りは奇異な目で見つめていた。


挿絵(By みてみん)


 八千代が半分も食べないうちに、若い連中は食事を終え、「コンビニになんか買いに行こうぜ」とか言いながら席を外した。

 八千代と二人になった孝太郎は、まだ涙を流しながらおにぎりを食べている八千代に声をかけた。


「なあ、八千代や、お前が食事の支度をする必要はないぞ」


「えっ、どうしてですか。私にできることはさせてもらえませんか」


「うん、気持ちはわかるがな、かなえの仕事を奪ってはいかん。あのばあさんはここの仕事で孫と生活してるんじゃ」


 このまま八千代が食事を作ると、組員が栄養失調になるという理由は、孝太郎は言わなかった。


「申し訳ありません、それは気づきませんでした。でも、ここでお世話になるんですから、何かさせてください」


「お前さんぐらいの歳の娘なら、そんな気遣いはせんでええ。ところで、今何歳だ」


「はい、今年で19です」


「ん?そうか、数えか。じゃ、満17歳というとこかな。ということは、高校2年ぐらいかの。それで、村では勉強をしていたのか」


「はい、桔梗先生が勉強させてくれました。

 先生が亡くなる1年前に『もう中学卒業の学力はあるから、高校の勉強に移るわね』と言っていましたので、高校1年ぐらいの学力だと思います」


 桔梗はもともと大阪で女子高等師範学校の教師をしていた。戦争が始まる直前に村に帰ってきて、終戦とともに山中に逃れてきたのだ。桔梗にとって唯一の生徒だった八千代へに対しては、教師としての全ての情熱をかけて教育を施していた。ちなみに、桔梗の言っていた中学は旧制中学のことであったため、実際のところ八千代は現在の高校の課程をほぼ修了していた。


「どうじゃ八千代、学校に行ってみんか」


「えっ、学校ですか」


「そうじゃ。お前さんは特殊な生活をしてきたんで、だいぶずれとるとこがあるようじゃ。

 学校で同世代の友人を作って、もっと今の世になじめるようにならんといかん」


「はい、私も学校にはあこがれていましたけど、でも、いいんですか」


「ははは、構わん、構わん。

 役場にもワシの知り合いがおるし、ある高校の理事にもコネがきく。

 そうときまれば、明日にでもさっそく手をまわして来ようわい」


「ありがとうございます。じいさま」


 孝太郎は、はっとなった。

 『じいさま』・・なんといい響きなんだろう。

 わざと聞き返した。


「ん?なんじゃって?」


「じいさま、本当にありがとうございます」

 

 『この感動、永遠(とわ)に忘れじ』、孝太郎は心に刻み付けた。


注1): モガ

モダンガールの略。流行の最先端のオシャレな女性のこと。

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