2.八千代、街に出る
八千代がふもとに下りてきたときは、既に昼近くになっていた。一人でこんなに遠くまで来たのは生まれて初めてだった。
林を抜け、開けたところに出ると、舗装された道に行き当たった。山間部を通る片側1車線の県道である。
しかし、八千代にとってこんな広い道を見るのは初めてだった。
「すごい大きな道ね、きっと都会に着いたんだわ」
近くにはコンビニが一件あるだけだったが、八千代にはとても立派な建物に見えた。
コンビニ近くのベンチに、お遍路さんが一人座っていた。
「あの恰好は、桔梗先生が教えてくれたお遍路さんね。たしか仏様に仕える敬虔な修行者よね」
若干、八千代の記憶もあいまいだったが、仏門の徒ならば亜米利加の手先ではないだろう。
これまで、老婆の顔しか見たことが無い八千代は、男や女の顔を区別するのに自信が無かったが、ひげがあるので、たぶんこれは男の人なのだろう。
男の人に会うのは初めてだったが、仏門の人なら怖くないと考え、意を決して声をかけることにした。
「こんにちは」
昼ご飯を食べていたお遍路さんは、顔をあげ、八千代のいでたちに度肝を抜かれたが、とりあえず返事をした。
「ああ、こ・・こんにちは」
長い歩き遍路で、お遍路さん本人もいいかげん汚れた格好をしていたが、突然現れた少女の姿はさらにすごかった。
ぼろぼろの上下モンペ服は、たしかに洗濯はされているようだが相当古びており、あちこち継ぎ当てだらけだった。さらに、これまたぼろぼろの大きな荷物を背負っているのである。
まともな人ではないと一目で分かる姿だった。
お遍路さんは固まって身構えていたが、八千代もお遍路さんの手元を見て固まっていた。
「おにぎり!」
そう、しかも白米のおにぎりである。
山間部の一宇村では米は貴重品である。いつも、少しのお米を芋や雑穀と一緒に炊いたものしか食べていない。
特別な日には白米のみで炊くこともあるが、その場合も楠公飯か国策炊きであり、水分が多いことからおにぎりなどはできようはずもない。
白米のおにぎりなんて、八千代の人生で片手で数えられる回数しか食べたことはなかった。
八千代はおもわず尋ねていた。
「そそそ、それ。どど・・どうなされたのですか?」
お遍路さんは多少怯えながらも答えてくれた。
「そこのコンビニで売ってるよ」
「えっ、コンビニ?」
「すぐそこのあの店だよ」
八千代は一瞬戸惑ったのちに理解した。
日本は亜米利加に占領されているので、言葉も横文字に置き換えられているのだろう。亜米利加、許すまじ。
とにかく、店のことはコンビニと言うようだ、覚えておこう。敵性語だが、しょうがない。
そんなことよりも、店で白米のおにぎりが買えるのだ。
もしかしたらいい世の中になっているのかもしれない。
そういえば昨日の昼から何も食べていない。
よし、おにぎりを食べよう。
そう決心し、お遍路さんに尋ねた。
「おにぎりは、おいくらなんですか?」
「ああ、1個150円だったよ」
八千代は驚いた。おにぎり一個が兵学校の給料3か月分である。日本の食糧不足は相当深刻なようである。
いくらなんでも、貴重な財産からおにぎり一個にそれだけ支払うことはできない。
絶望のあまりくらくらする思いだったが、おにぎりがダメだとなると余計にお腹がすいてきた。
考えてみれば、昨日の昼から何も食べていないのだ。
お米は少しなら手持ちがあり、飯盒もあるので、自分で作れないこともないが、荷ほどきをするのも大変だし、薪もない。
貴重な米を使うことは我慢することにしたが、おにぎりを前にして空腹はさらに切迫していた。
しょうがないので、背嚢(リュックのこと)のポケットに入っている大根をかじることにした。
きびしく躾られた八千代は、普段はこんな行儀の悪いことはしないのだが、今は非常時である。しょうがない。
「となり、よろしいでしょうか」
と、お遍路さんに声をかけてベンチに腰掛け、大根を取り出してかじりだした。
大根を握って丸かじりしている娘を、驚愕のまなざしで見ていたお遍路さんに、八千代が尋ねた。
「この町のにぎやかなところへは、どちらへ向かって行ったらいいでしょうか」
「ここらには何にもないよ。
繁華街に行くんだったら、徳島市内に行かないとね」
「徳島市内にはどう行くのですか」
「バスで1時間ぐらいかかるよ。
ほら、そこにバス停があるだろ」
そう言って、お遍路さんはそそくさと立ち去っていった。これ以上関わり合いになりたくないようだ。
「そっか、バスが通るからこんな広い道があるのね」
八千代はつぶやき、少しうれしくなった、バスに乗れるのだ。
乗り物なんて、リヤカー以外には乗ったことはなかった。
バスの乗り方は桔梗先生に教えてもらったことがある。
桔梗先生は、勉強以外にも将来の社会生活に必要ないろいろなことを教えてくれたのだ。先生ありがとう。
バスは短距離なら10銭ぐらいで乗れると言っていたので、1時間乗っていても1円までは行かないだろう。
大根を半分ほど平らげたあと、残りを大切にしまい、バス停に向かった。
バスは2時間に一本ほどとなっているが、時計が無いので、いつ来るのかはわからない。
覚悟を決めて待つことにしたが、幸い少し待っただけでバスがやってきた。
バスの前面上部に、「徳島市内」と書いてあるから間違いなさそうだ。
桔梗先生に教えられたとおり、バスが止まったら後ろの扉から乗ったが、車掌さんがいなかった。
どうやって切符を買ったらいいのだろうと、もたもたしていると、
「お座りください、発車します」
と、運転手が言い、バスは動き出した。
とりあえず荷物を近くに置いて、言われた通り席に着いた。
窓の外を見ると、バスはものすごい速度で走っていた。バスはこんなにも早い乗り物だったのだ。
速度もさることながら、車窓からの景色はすばらしかった。
山間部で育った八千代にとって、目に入るもの全てが新鮮で珍しかった。
しばらくは景色に心を奪われていた八千代だったが、ふと我に返った。
『そうだ、運賃はどう支払ったらいいのでしょう・・』
そう思っていると、バスは止まり、降りる人が運転手の横にお金を入れているのに気がついた。
『そっか、あそこで支払えばいいのね。
でも、いくら支払えばいいの?』
そう思いながら見回すと、前方の上面に料金表が光っているのに気付いた。
そこに番号ごとの料金が表示されていたが、「券なし」の横には720と表示されていた。
八千代は驚いた。
『えっ、7円20銭もするの?
私は切符を持っていないからこの料金よね。
切符ってどこかで事前に買っておかないといけなかったの?
先生はそんなこと教えてくれなかったわ。
それにしても、なんでこんなに高いの?
そっか、日本は燃料も不足しているから・・』
八千代が見ている間に、「券なし」の表示は760になった。
『あっ、増えた。
距離に応じて運賃も上がっていくのね。
どこまで上がっていくのかしら』
八千代は景色を見るのも忘れて、ひたすら上がり続ける料金表を見つめていた。
数字が1280になったとき、バスは止まり、運転手が話した。
「はい、徳島駅前終点です。このバスは車庫に入りますので、皆様お降りください」
『それにしても声の大きな運転手ね。なんか声が天井から聞こえるような気もするけど』
などと思いながら、皆がおりだしたので、八千代もついて運転席の方に行った。
運転主のところに来て、一応八千代は説明した。
「あの、切符がないんですけど」
「はい、じゃ1280円ね」
八千代は耳を疑った。
1280円というと、優に半年は生活できる額である。
「えっ、いくらですって?」
「1280円です」
聞き間違いではなかった。12円80銭ではなかったのだ。
八千代は目の前が真っ暗になる思いだったが、無賃乗車するわけにはいかなかった。
泣く泣く、全財産の半分を支払うことになった。
「えっ、百円札?!まいったなぁ」
などといいながらも、運転手はお金を数えて受け取ってくけた。
でも十円札は受け取ってくれなかった。なぜだろう。
打ちひしがれて、うつむいてバスを降りた八千代だが、ここに至ってようやく理解した。
お金の価値が下がったのである。
これも亜米利加の圧政によるものに違いない。
日本人は経済面でも虐げらているのだ。打倒、亜米利加。
なんとか日本を日本人の手に取り戻さなけば、と顔を上げた八千代は、大きなビルに囲まているのに気付いた。
料金表ばかり見ていたため、街に入ったことに気づかなかったのだ。
桔梗先生から街の様子は聞いており、写真は見たことはあったものの、実際に見るのは大違いだった。
高いビル、たくさくの車と人。
八千代は、初めてフランクフルトの町に来たときのハイジよりも驚いていた。
周囲には多くの人が歩いていたが、八千代の異様な出で立ちを警戒して、八千代のまわりは空白地帯となっていた。
町にはたくさんの店、いや、そう「こんびに」があった。
服のこんびに、本のこんびに、洋食のこんびに・・。
こんびにの前のガラスケースには、価格が書いてある商品もあったが、どれも想像を絶するほど高かった。
こんな値段の物を買える人がいるのだろうか。
しばらく町に見とれていた八千代は、看板に横文字が多いのに気付いた。
「こっ、これは・・。
どうして看板が横文字だらけなの?
いえ、看板だけでなく、服や商品なども横文字だらけじゃない」
そう、やはり日本は亜米利加の占領下にあるのだ。
それに周りを歩いている人は、顔は日本人と思われるのに、髪は茶色かったり、金髪だっりしている人が多い、特に若い人に。
これはきっと、米兵が無理やり日本人に産ませた人たちに違いない。
日本の惨状に涙がでる思いだった。
その時突然、大音量で軍艦マーチが流れてきた。
その曲は、黒く四角い車から流れていた。
車の上には看板がついており、『政府は軍備増強せよ、日本人よ強くなれ!』と書かれていた。
右翼暴力団の宣伝カーである。
「ああっ、日本にも志を持った人たちが残っていたのね。」
八千代が感涙にむせびながら見つめていると、車は止まり、演説が聞こえてきた。
「憲法を改正し、日本国軍を創設せよー。。
政府は靖国神社に参拝せよー。
アメリカは国内の基地から撤退せよー」
なんと素晴らしい人なのだろう。
八千代はふらふらと黒い車に近づいていった。
車は窓まで真っ黒であり、中の様子は見なかったが、八千代は感動のあまりどうしても声をかけたくなり、窓をノックした。
「なんじゃい。」
窓が少し開き、中からドスの利いた声がした。
「わたくし、一宇村の國守八千代と申します。
あまりにもすばらしい主張を伺いましたので、ぜひ一言この感動をお伝えしたくて、声をかけさせていただきました。」
中には複数の人がいるようだった。
窓がもう少し開き、中から八千代を見定めているようだった。
「どっから来たって?」
「今日、一宇村から一人で出てきました。」
中ではごそごそと話している様子で、「家出娘」がどうのという声が聞こえてきた。
他に、「気が変」とか、「器量がいい」とか、「上物」とか。
少しして、中から一人男が出てきた。
「嬢ちゃん、もしかして行くとこが無いんか」
「はい、今から住むところを探します。」
「ほたら、わしらんとこに来るか?」
「えっ、よろしいのですか?あなた方のような志の高い方々と共に行動できるのなら、望外の喜びです。」
「ほうかほうか。
そんなら車に乗れや」
「ありがとうございます。ふつつかものですが、よろしくお願いします。」
八千代を乗せた車は、音楽を停めて静かに走り去った。
八千代を乗せた車は、5分ほど走って四階建てのビルの前で停まった。
ビルには「錦織組」という組事務所の看板がでていた。
車から降りた八千代は看板を見て、ますます感激した。八千代にとっては文字は右から左に読むものだ。
『組織 錦って、錦の心を持った人達が集まっているのかしら。
それとも、錦の御旗を仰ぐ皇軍の方たちなのかしら。
とにかく、きっと、素敵なところね』
そう思いながら感動している八千代に、一緒に車から降りてきた男が声をかけた。
「さあ、姐ちゃん、事務所に入らんね」
「おそれいります。それでお邪魔いたします」
建物の中は全体が土間になっているのか、靴を履いたままでよいとのことだった。そういえば、亜米利加では家に靴のまま入ると桔梗先生が教えてくれた。こんなところまで日本文化への侵略が進んでいるのか。ぐぬぬっ、だめだ、早く何とかしないと。
少し気を静めてまわりを見回すと、中は八千代が思っていたよりも明るかった。天井で明かりが光っていたのだ。ろうそくではない、これが先生が言っていた電気というものだろうか。
事務所の中は意外に殺風景だった。20畳ぐらいの広さに、ソファーセットがあり、奥に事務机があった。
事務机の後ろの窓の上には、「國報生七」と書かれた毛筆が飾ってあった。これはもともと右から左に書かれていたため、八千代にも正しく読めた。ああっ、侵略されながらも日本人の心は失われていないのだ。
八千代は背嚢を下ろし、感動にひたっていた。
部屋には7人の男がおり、最後に部屋に入ってきた男が後ろ手に鍵をかけ、八千代の横の男に目配せした。
それに応じて、八千代の横の男は後ろに回り、八千代を羽交じめにした。
「なにをなさるのですか」
年寄りに囲まれて育った八千代にとって、これまで自分に害意を向けられた経験がなく、今の状況が呑み込めなかった。
この事態においても、なにかふざけているのかと考えていた。
「姐ちゃん、これからええことしようや」
「どうもありがとうございます。でも、どんないいことでしょうか」
「やっぱり、こいつちょっとおかしいのぉ」
周りは一斉にどっと笑い、一人がいきなり八千代の胸をわしづかみにした。
この状況に至って、八千代はようやくあることに思い当たった。
『これって、私に乱暴しようとしているの?
ということは、・・・この人たちはもしかして米兵!?』
八千代は今日まで男を見たことが無かった。ましてや米兵は本に載っていたイラストだけでしか知らなかった。
イラストには角があったので、米兵には角があるものだと油断していたが、そうとも限らないのかもしれない。
そう、きっとこの人たちは米兵なのだ。
よく見ると、金髪の人も3人いる。しまった、なんで気づかなかったんだろう。
愛国者のふりをして・・なんと巧妙な罠なんだ。
「あなたたち、米兵だったのね。
そうとわかれば、容赦しないわ」
男たちは意味が分からず、一瞬顔を見合わせたが、もっと驚いたことに、八千代はするりと羽交じめを振りほどいた。
八千代は合気道の構えをとったが、実は合気道にはあまり自信がなかった。
合気道を教えてくれたばあさまには、試合で3回に1回ぐらいはまだ負けていたからだ。
3回に2回勝つなら勝算はあると思った読者は平和ボケである。負ければ大きな痛手を受ける戦いにおいては、1/3の確率で負ける勝負はするべきではないのだ。
ちなみに、ばあさまがかつて合気道の全国大会で三連覇していたことを、八千代は知らなかった。
八千代はどう対処しようかと、頭を巡らせていた。
カバンの奥にしまったゴボウ剣が唯一の武器だが、取り出す余裕はないだろう。
その代わり、部屋の隅に置いてあったモップにとびついた。
棒術は得意である。
ウメさんに習った剣道、桃子さんに習ったナギナタ、カスミさんに習った槍術を組み合わせ、八千代の棒術は無敵だった。
「さあ、米兵たちよ、この皇国の地から出ていきなさい」
わけがわからない男達だったが、とりあえず小娘一人などどうにでもなると、一斉に八千代に襲いかかった。
・・・・・・
一瞬だった。
一瞬で7人の男は床でうめき声をあげていた。
敵が倒れても八千代は油断しない。敵の頑強さは未知数だし、やられたふりをしているのかもしない。とにかく巧妙な罠をかける連中なのだ。
八千代は倒れた敵に注意を払いながらモップを構えたまま後ずさりし、自分の背嚢にゆっくりと近づいていった。
このまま背嚢をもって、じりじりと後退し、逃げ出すつもりだった。
その時奥の扉が開き、高齢の老人がひとり入ってきた。
八千代は背嚢を背負って、新手に対してモップを構え、相手の出方を伺った。
老人は驚いた様子で倒れた7人を見まわし、手前に倒れていた男に声をかけた。
「おいヤス、これはどういうことだ」
「お・・おやっさん、すいやせん。家出娘を連れ込んで、かわいがってやろうとしたら、このざまで」
「なんだと」
老人は鋭い目で八千代をにらみつけたが、八千代はあわてて弁明した。八千代は年寄りには弱いのだ。
「えっ、あの・・、私をかわいがってくださるつもりでしたの?
もっ、申し訳ありません。私、てっきり米兵が乱暴しようとしているものと誤解していました。
みなさん、日本の方でいらしたのですか?」
八千代の答えに老人は目を丸くし、あらためて八千代をじろじろ観察し、八千代の名札に目を止めた。
「嬢ちゃん、その名札」
「はい、空襲で万一重症になった時、身元と血液型が分かるようにつけているものですが、でも皆さんはどうしてつけていらっしゃらないのですか?」
「いや、そうじゃなくて、あんた、一宇村の國守というのか」
「はい、今日、一宇村から出てきました」
「そっ、そんなら、國守菊という人を知らんかね」
「あっ、それなら私のばあさまです。血はつながっていませんが」
「なんじゃと。それで、菊はどうしてるんじゃ」
「ばあさまは、一昨日にみまかりました。」
「お、おおっ、おとといまで生きておったのか」
老人は突然うつむき、涙をこらえているようだった。
年寄りが辛そうにするのを見かねた八千代は、思わずモップと背嚢を手放し、老人に駆け寄って肩に手をかけながら声をかけた。
「あの・・、大丈夫ですか」
「ああ、ありがとうな。
うん、そうか。
そうか・・。」
嗚咽をこらえながら、老人は決意したかのようなまなざしを八千代に向けた。
「八千代とやら、そこの長椅子にでも座ってちょっと話をせんか」
「はい、分かりました」
素直に応じる八千代に少し笑顔を向けた後、老人は周りの組員を叱咤した。
「てめえらはしばらくそのまま床で正座でもしてろ」
倒れていた連中もあわてて飛び起き、その場で正座した。
八千代に向き直った老人は、改めて話を切り出した。
「さて八千代や、ワシは名を國守孝太郎といってな、ワシも一宇村出身なんじゃ。
そして、國守菊はワシの妻なんじゃよ」
八千代は思いもかけない孝太郎の言葉に驚いた。
「ええっ、ばあさまの・・?」
「そうじゃ。
なんとも不思議なめぐりあわせじゃの」
あっけにとられる八千代に優しい眼差しを向けながら、孝太郎は続けた。
「ワシは大東亜戦争末期に徴兵されて、満州に送られる途中で終戦を迎えることになったんじゃ。
しかし、そのまま露助どもの捕虜となってしまい、シベリアに抑留されてしもうた」
「ご苦労なさったんですね」
「まあな。
とにかく、ようやく日本に戻れたときは、終戦からもう5年もたってたんじゃ。
村に戻ってきたものの、一宇村は影も形もなく、その後手を尽くして探したが、秘密裏に山奥に逃れた村の衆はどうしても見つけることができなんだ。
帰る村もなく、仕事もなかったワシは、市内のドヤ街で地元を取り仕切っていた錦織寅之助さんに拾われ、今はその後を継いでこうしておる」
「そうだったんですか。
ばあさまが元気なうちにお会いできなくて残念です」
「そうじゃな」
孝太郎は虚空を見つめながら頷いたが、気を取り直したように八千代に問いかけた。
「ところで村のことやお前さんについても教えてもらえんかね」
孝太郎の問いに、八千代は一昨日ばあさまに教えられた終戦時の疎開のこと、自身が捨て子でばあさまに育てられたことなどを話した。
うなずきながら八千代の話を聞いていた孝太郎は、しばらく八千代を見つめた後、おもむろに声をかけた。
「菊の孫なら、ワシの孫じゃ。
なあ、八千代や、お前さん行くところがないなら、ここに住まんかね。
こいつらも根は悪い奴らじゃないんじゃ」
望外の申し出に、八千代は喜んだ。
「ありがとうございます。そうさせていただけると、助かります。
皆様も、誤解とはいえ、大変な失礼をして申し訳ありませんでした」
頭を下げる八千代に笑顔を向けたあと、真相を理解していた孝太郎は組員にどなった。
「やい、てめえら、今日から八千代はワシの大事な孫だ。手を出しやがったら命はないから覚えておけ」
組員たちは平謝りするしかなかった。
そもそも手を出せるような相手ではないことを身に染みていた。
そして、八千代の新しい生活が始まることとなった。
注1)楠公飯、国策炊き:
戦時中の節米方法。楠公飯は「この世界の片隅に」で詳しいレシピが紹介されている。国策炊きは、熱湯で米をふやかし、3割ほどカサを増したもの。
注2)七生報国:
文字通り、七回生まれ変わったとしても、そのたび国に尽くすという意味。
注3)ゴボウ剣:
銃剣のこと