朝礼〜
父が認知症になった。最初に分かったのは二年ほど前の徘徊だった。夜中にパジャマのままで駅に行って、ポケットのゴミを改札に通そうとして、バーに阻まれたらしい。
駅員の「どこに行かれるんですか?」との質問に「さあ、どこ行くんかなぁ?」と質問で返したため、近くの警察に連行され、パトカーで帰ってきた。それ以来ジワジワと症状は進んでいる。
一方我が家には四歳と二歳の子供がいる。高齢者と育児……いわゆるダブル・ケアというやつだ。
私は昨年の夏に準肉体労働から相談業務に転職した。慣れない環境にクレーム対応。胃が荒れて胆嚢にポリープができ、睡眠導入剤が手放せなくなった。
唯一の趣味がなろうでの執筆だったが、自由になる時間は、通勤途中の信号待ちで少しづつ書く程度、遅遅として進まない。しかし睡眠時間を削って書く事はできない。
ドツボやなぁ、などと思いつつ、俯瞰視点の私は、
「仕事は効率化していって経験値が上がれば何とかなるか? 別に辞めても良いしなぁ。子供もほとんど奥さん任せのくせに、何がダブルケアだ。ほとんど寝に帰ってるような私が言える事じゃない。親も別居だし、負担はほぼ高齢の母親にかかってるしなぁ」
とも思う。しんどい、不幸だ、と思っていた部分が、分解するとそれほど深刻なものでは無い、表面的なものだと分かった。そうして余計なものを省き、優先順位をつけると、
「父親がこのまま訳分からなくなって、死に別れても良いのか?」
というしこりが残った。
親父は元生物学者で、生命の起源について研究していた。それ以外の家族は(特に現在近しく暮らすものは)全員が医療介護系の仕事に従事しており、家族の会話では、父親はいつも蚊帳の外だった。
たまに嬉しそうに科学のトピックスなどを説明してくれるが、家族は「また始まった」的な反応しか示さない。みんな理解できないのだ。そして父親は理解できない人間に興味を持たせるような話ができるタイプでもなかった。
だんだん無口になり、老人性の鬱が出始めると、周囲に対する興味が薄れていった。元々研究以外への興味は薄い人だったから、見分けもつきにくい。そして認知症の確定診断が下された。
まったくもって、よくも医療介護関係などと言えるなぁ、と思うかも知れないが、仕事ではできても家庭では中々できないものだ。
お嫁さんがお姑さんを看取るなんて話はザラにあるが、皆さん良くやってるなぁ、と感心する。
と、ここまで父親の悪い面ばかりを並べてきたが、良い点をあげると、いまだ認知症初期の段階、いわゆるまだら呆けと呼ばれる状態で、繋がっている時間も多い。というかまだ殆ど繋がっている。
特に興味のある内容に関しては、いまだに集中力を発揮できる。という事で、試しに昔していた研究の事を聞いてみた。そしたら案外と気分がのって、色々聞き出す事ができた。
残念ながら私に科学的素養が無いためついていけない部分も多く、何度も聞き返しては、ようやく少しだけ理解できた(つもりでいる)
そして母親から聞いた話だが、聞き取り後の父親は上機嫌で、まだら特有の不安感が、少しは薄れていたらしい。
私は「これはいけるかも知れないな」と内心ほくそ笑んだ。というのも、今回私が聞き出した裏には、ある企みがあったのだ。
一つは、父親が引退後に「本を書きたい、論文とかは無理だけど、生命の起源についての分かりやすい本ならいけると思う」と言いつつ、鬱になって書けずに年月が流れ、今や書けなくなったという状況。
一つは私の趣味がネットでの執筆という事。
これは……うまく繋がれば、面白い事になると思った。ありていに言うと、趣味と親孝行の融合である。
私が父親にインタビューしてそれを元に書く。私は趣味の充実と、生命の起源に対する知識、そして親と死に別れる前に、少しでも関係性を作り、理解するチャンスが。父親にとっては、ネット小説とはいえ思いの一部が実現ができる事と、取材という事で熱心に聞く生徒を得る事ができる(ただし史上最低だが)
はた迷惑な思いつきかもしれない。だが、認知症患者は、思い残す事があると不穏になり易い。逆に思い残す事が少ないと、ポカーンと平和な認知症になり易いと思う。
これは学説的な裏付けもあるが、私が認知症の方達をみてきた経験則でもある。
二人にとって良い事ばかり。気の毒なのはそれを読む読者位のものだが、ネット小説だから無料だし、最初に私と父親のために書く作品と注意書きをしておくので、許していただきたい。
この際読み物としての完成度などは置いといて、書けるものを書こうと思う。もともと大したことは書けないし、放っておくと父親の認知症は進むし。親にも私にも時間は無いのだ。
今しかできない、今できる事をやる、という意味では、これ以上のものは無いんじゃないか? と思う。私的利用も甚だしいが、人生を充実させる方法を模索するという意味では、この試みは大きい。
何ならこれのために執筆という趣味を始めたような気さえする。久しぶりになろうで書くことに充実感を覚えている。
ーーと、大仰に構えると疲れちゃうので、
「楽しみながら認知症と関わる」ための、なろうユーザー特化型介護術。
【認知症になった先生の最後の生徒は、買い与えた天体望遠鏡をバズーカ遊びにしか使わなかったバカ息子でした。ご愁傷様〜、チ〜ン】
なろう的長文タイトルを思いついたところで、今日の朝礼は終わり。