003:彼の日常
「――母さんっ!」
血塗られた白衣姿が眼前から掻き消え、前へと伸ばした手が空を切った。
何が起こったのか。 しばし意識が追い付かず、歩結は手を伸ばしたまま硬直する。
「大丈夫ですか? 歩結」
ウィルの気遣わしげな声も耳に入らない。
歩結はゆっくりと上体を起こし、辺りに視線を巡らせた。
左手には小型のデスク。 その上では二枚のモニターに並んでウィルがこちらに顔を向けていた。
右に向けば大型テーブルの上に生活物資の山があり、その向こうには今後の行動方針をまとめたホワイトボード。 『秋葉原』に赤い×印が付けてある。
猿の異形個体に追い掛けられた記憶とともに、歩結はここが第二宇宙科学研究所の地下六階実験室であることに思い至った。
また、あの日の夢だ。
頭を振って、カプセル型のベッドから降りる。
ウィルがもう一度声を掛けてくるが、構わずに簡易型のシャワーボックスに飛び込んだ。
学生服を脱いで内臓の洗浄機へ放り込み、熱いシャワーを全身に浴びる。
歩結は胸を押さえながら、ゆっくりと、深く呼吸を繰り返した。
血塗れで倒れた母の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
胸に沸き起こる感情は、恐怖よりもずっと深い、後悔の念。
――あの時、口出しせず母と一緒にこの実験室まで来ていれば。
悔やみきれない感情が熱い涙となって溢れ出しそうになり、歩結は大きく目を開いて上を向いた。
こんなことではいけないと弱い心を叱咤する。
自分は、この世界で強く生きていく。
そう心に決めたではないか。
誓いを再確認してシャワーを止めると、すぐに強い風量が全身を舐める。
壁面の一部がスライドして洗浄の完了した学生服が差し出された。
もう一度だけ深呼吸。
シャワーボックスを出ると、ウィルが気遣わしげな表情を表示してこちらを見上げていた。
「おはよう、ウィル。 無視してごめん」
「おはようございます。 それは構いませんが……ホントに大丈夫ですか? やっぱりこれをベッドとして使うのは止めた方がいいのでは?」
「万が一のことがあるし、寝てる間もモニターしてくれるこのカプセルの方がいいよ」
人体凍結処理用カプセルは、未知の感染病などがあった場合の緊急避難用途として『未来』に搭載予定であった医療マシンだ。 古い映画で『コールドスリープ』などと言い換えれば分かり易い。 このカプセルはコンディションチェックにも使用できるので、歩結はベッドとして使用していた。
生乾きの髪をタオルで拭きながらカプセル上部、小型ディスプレイに現れた数値を確認する。 呼吸器官、循環器系をはじめ、内臓疾患の兆候は見られない。
ウィルがまだ何か言いたそうにウサギ耳を揺らしていたので、軽く頭を撫でてやった。
歩結の朝は忙しい。
切り傷や打身などに薬品を塗り、軽い柔軟運動を終えたら向かい側の大型実験室に移動する。
目の前にそびえるのはドーム状のプラント施設。 ガラス越しに見えるその中は、樹木や川などが再現された人口自然環境だ。
これをぐるりと目視確認して回った後、モニタールームに入ってドーム内の生態状況を確認する。 ……カエルの個体数が減少傾向にある。 懸案事項だ。
人工太陽照明や循環している水や土の質など一通りのチェックを終え、大型実験室を後にする。
次に足を向けるのは凍結実験室。 幸いにして実験の最中であったものは多くある。
医薬品、輸血用血液、飲料水……。 どれを取っても生命線なので、作成したチェックリストでしっかりと管理している。
衣服なども保存されていれば服に困ることはなかったのだが、贅沢は言えまい。
他にも大型の3Dプリント機器や過酷環境実験室、簡易手術室などあるが、さすがに全てを見て回ることはできない。 必要なものは既に製造するか持ち出したので、これらの確認は週に一回としていた。
そうしてようやく朝食の時間だ。
今朝のメニューは、ベーコンレタス“風”サンドイッチ。
トレイに載せて元の実験室――通称『ベース』へと戻り、デスクの上でコップ一杯の水と一緒に頂く。
見事に再現されたベーコンを咀嚼しながら、歩結は空いた手でモニター上のアイコンをタップした。 メールとSNSには今朝も新しいポップアップはない。
軽く嘆息してから『ALIVE』とだけ書いたメッセージを自分のアカウントに登録された送信先アドレスに一斉送信する。 リアクションはないが、繰り返す。
「歩結、食べながら操作するのはあまり感心しませんよ」
「逆だよ。 食べてることを意識したくないからしてるんだ」
「何言ってるんですか。 しっかり味わってあげて下さい、バッタサンドイッチ」
「……どうして言うのさ」
げんなりと食欲を失ったが、貴重なたんぱく質である以上無駄にはできない。
残りの半切れを水で流し込み、早々にトレイを片づけた。
AM10:00を回る頃、歩結の屋外活動は始まる。
今日の行動方針はもう決まっているので再確認の必要はない。
いつものようにバックパックの中身を確認すると、ARグラスをかけて非常階段へと向かった。
正面ゲートを出ると、まずは付近の道路一帯に設置した簡易ワイヤートラップの状態を確認。
この辺りは緑化が進んでいないため獣たちに遭遇する可能性は低いが、警戒を怠ることはできない。
「天気があまり良くないですね」
ウィルに言われて初めて気が付いた。
確かに今日は曇天だ。 雲の流れも速く見える。
「雨になるかな……まだ降られたことはないけど、体に悪影響あると思う?」
「可能性はあります。 サンプルを採取して分析すべきでしょう」
となると、あまり遠出は出来そうにない。
次なる目標地点は浅草。
浅草のゲームショップにおける『オーバード・ノア』のイベント開催まであと三日だ。 次をしくじれば、目標金額の達成は難しくなる。
だが、焦って行動を起こして狂暴な獣に遭遇すれば、その瞬間に現実世界の方がゲームオーバーだ。
「分かった。 ルートの目算をつけたら、いったん戻ろう」
「了解です」
ちょうどそのやりとりを終えた所でアスファルトが途切れた。
眼前にそびえるのは瓦礫の山脈。
多層構造化した首都高の、その成れの果てだ。 ずっと工事が続いていた記憶はあるが、まだ旧製コンクリートのままだったのだろう。 元が道路とは想像ができないほどの惨状だ。
迂回路などは存在しないので、アスレチックの要領でコンクリートの山を登る。
安定した足場にはチョークで印をつけてあり、それを追っての登頂だ。
いつものルートなので安定して頂上へ到着。 一気に視界が開ける。
都内とは思えないほどの見晴らしが良いのは、多くのビルが倒壊しているためだ。
三百年が経っているのだ。
大型の地震や台風は何度もあったはずで、その都度弱った建物から崩れていったのだろう。 いずれ全ての人工物が瓦礫と化すのは必然だが、“新生コンクリート製”を銘打った建物群は未だしぶとくその姿を維持していた。
事実、いくつかのビルや住宅は人が出てきても驚かないほど綺麗な形を保っている。
ARグラスのスイッチを入れ、撮影モードをON。 同時に指先を仮装ペンに設定。
隅田川沿いに北上するのが最短ルートに見えるが、水場は獣と遭遇しやすい。 なるべく人工物の形が残った場所の方が遭遇率が低いのを、彼は経験から知っていた。
完全な形の残っている建物アクセスポイントとして見立て、それを繋ぐような形でルートを構築していく。 崩れている建物が多いので秋葉原へのルートよりは構築が楽だが、その分視界が開けていて危険だ。 ゲームではないが、装備は検討が必要だろう。
不意に強めの風が吹き付けてきた。
歩結は身を縮み込ませる。
「日が出てないと、結構冷えるね」
「今日までの平均気温が二十℃を切っていますからね。 真夏の気温ではありません」
「冬になったら、どうなると思う?」
「屋外での活動が自殺行為になると思います。 早々に目的地へ到達すべきです」
「……だよね」
力なく答え、神妙な表情で両手に息を吹きかけた。
あらかたのルート検討を終えて下山する。
振り返ってビルの合間に見えるのは東京駅だ。
日本橋駅付近は陥没状態だったため、ベースからは一番近い大型駅だった。 歩結が最初の目的地として定めた場所でもある。
生きている人間がいるのではないかと、希望を持っていたこともあったが……完全に魔窟だった。
正面こそ駅の形を残しているが、そのすぐ裏は完全なジャングル状態。 それもそのはず、駅の裏手は皇居だったのだ。 狂暴化した獣たちが魍魎跋扈するそこは、歩結からすればほとんど異世界と化していた。
緑化の侵攻は凄まじいものがあり、日比谷公園から浜離宮の間は完全に森で繋がってしまっている。 これにより渋谷、新宿、品川をはじめ、都心方面への道は閉ざされている状況だ。
……浅草の次は、確か小岩駅付近にある大型ゲームショップだったか。
かなり距離が開いていく。 当然ながら、同時に危険度も増していくことに……。
「足元、注意してください」
ウィルの声にはっとする。 思考に沈んで現実がおぼつかなくなる悪癖はなかなか直ってくれない。
歩結は「ごめん」とだけ謝って、慎重に首都高の瓦礫山脈を下山した。
ベースへと戻ったら、すぐに簡単な地図を作成。
午後からは予定を変更して『オーバード・ノア』のキャラ育成に入った。 次のイベントの適正レベルは15なので、それほどハードルは高くない。
経験値三倍ゴブリンたちのお陰でかなりレベルが上がったので、狩場を変えてコボルトを狩る。 なかなかオイシイ経験値量だ。
回復POTが切れたら街へ戻り、補給と装備修理を終えたらまた狩場への繰り返し。
やっていることは完全に引きこもりのニートだが、残念ながらこのゲームには命がかかっている。
四時間かけてレベル17に到達。
いい加減疲れてきた。
「歩結、他のスキルは解放しないんですか?」
ウィルが画面上で点滅を繰り返す“スキルUP”のマークを見ながら聞いてきた。
当然、歩結だって気付いている。
「そりゃあ解放したいけど、弱いスキルだったら怖いよ。 取得はいつでもできるから、いざという時のために残してるんだ」
「マニュアルには振り直しが出来る、と書いてありましたが?」
「それね……課金要素なんだ」
「あっ……」
空気が淀む。
ウィルはデジタル表示の視線を器用に泳がせた。
「えーっと、自動的に取得されるスキルもあるって、書いてありましたよね?」
「そっちは大体生産系だから、使えるのがあるかどうか……」
生産系のサブスキルはレベルに応じて自動的に習得されていく仕様だ。
キャラクターが生産職の場合はこのサブスキルにスキルポイントを割り振ることで合成や製薬など特化することが出来るが、剣士:sakuraには全く関係ない。
レベル17で解放されたサブスキルはといえば――
「……露店は、開けるようになったね」
「お力になれず申し訳ありません!」
「そんなことないよ。 すごく助かってる。 ウィルがいなかったら、僕はとっくに獣の胃袋の中だよ」
「そう言って頂けると助かります……せめて私にもゲーム操作ができれば」
「絶対やめてよ? AIの操作が検出されたら即アカウントBANだから」
ウィルはウサギ耳をしおらせた。
「露店、か」
せっかくなので、歩結は大通りのど真ん中。 一番目立つ噴水前どっかりと腰かけ、ゴミアイテムばかりの店を開いた。
店名は『ALIVE』。
ウィルが難しい角度にボディを傾かせる。
「皮肉と言うかユーモアと言うか……こういう所はお父上に似たのでしょうね」
「どうかな。 父さんならもっと露骨に笑いを取りに行きそうだけど」
歩結が笑顔を作る。
最近の彼は、年相応に表情が動くようになってきた。
だが、それは意識してそうしているものだと、ウィルは認識している。
デスクのモニター上に露店を残し、歩結はそのまま別の作業に入った。
使用している機材の手入れ、武器になるガジェットの選定、体力づくりのためのトレーニングと、やることは多いのだ。
……なので露店の商品が売り切れていたことに気付いたのは、夕食を終えた後だった。