002:日本橋
科学文明の発展はもはや頭打ちである――そう囁かれていたのは二〇七〇年の初頭まで。
保身と妄執の愚かさを嫌と言うほど学んだ新たな世代の政治家たちは、国家に根付いた旧体制を老害もろとも撤廃し、国政の立て直しに一意専心の力を注いだ。
政治の浄化は怒涛の勢いで進行した。
議員の大量削減と共に法律や裁判が時代合わせて見直され、国家予算も劇的と言えるほどにその分配が変動を遂げる。
取り分け恩恵を受けたのが科学研究の分野だ。
改変の甲斐あって、それまで海外へと逃れていた博学卓識の研究者たちも多くが国内へと舞い戻り、潤沢な予算の中で伸び伸びと技術研究に明け暮れた。
かくして革命が起こったのは発電技術。
その契機となったのは、光電変換効率を劇的に跳ね上げる結晶構造体の発見だ。
この構造体、製造コストの抑制が可能で経年劣化にも強く、まさに夢の結晶として世界中で持て囃された。
もちろん日本でも専門の研究機関が発足。 当たり前のように多額の予算が投じられ、二年と経たず実用化にまで漕ぎ着ける。
大企業はもとより、一般家庭もそのほとんどが電力の完全自給を可能とし、電力会社はあらゆる発電施設を連れ立って表舞台から姿を消した。 「電気代」「ガソリン代」といった言葉が瞬く間にもネットスラングへ堕したのだから、まさに新たな技術革命と断じて異論はないだろう。
バッテリー問題に足を引っ張られていたテクノロジーはそれまでのストレスを発散する勢いで進歩し、電子機器、とりわけネットワーク機器はより身近に、よりウェアラブルになって人々の生活に浸透した。
ほとんどの機器は小型・軽量化が歓迎されたが、スマートフォンがARグラスにその役所を奪われる事態は誰も予想しなかった。
これらテクノロジーの発達は広く他の分野にも刺激を与えることになる。
建築の分野では耐震防火技術が向上。 耐用年数も大きく延ばし、都市部では企業ビルの建て替えが毎日のように続いた。 世に言う“新生コンクリート需要”の幕開けだ。
医療・医学の分野も大きく進歩した。 悪性疾患のメカニズムは解明され、これらを生まれる前に治療する「胎児治療」も予防接種並みの常識レベル。 個人が大病を患うことそれ自体がニュースになってしまうまでに、病は人々から遠ざかっていった。
このような時代にあっても国際関係による武力紛争が絶えることはなかったが、技術の進歩は戦争にすら大きな変化をもたらした。 戦車や戦闘機といった搭乗型の兵器は歴史の教科書へと埋もれ、AI搭載の自律型兵器同士が盤上制圧を競うような、まさにウォーゲームの様相となったのだ。
世界人口が百五十億を突破して食糧問題が深刻化していく中、いよいよ宇宙開発が現実的なビジョンを帯び始める。
超長距離型宇宙移民船開発プロジェクトが発足されたのが二二四五年。 プロジェクト始動から国家予算の二割が投じられたことはその年こそ世界を大きくざわめかせたが、二二七七年となった今ではわざわざトピックスに挙げる人間はいない。
「この宇宙は後の三世代で人類のものとなる」
著名な学者が明言せずとも、誰もその未来を疑わなかった――そんな時代。
運命の日。
「歩結、どうだ最近は。 学校じゃあ上手くいっているのか?」
軽快にハンドルを切りながら軽いノリで問いかけてきたのは、顎髭を生やした渋い容貌の男性。
歩結の父、佐倉 慎二 だ。
よく似合うサングラスにがっしりとした体格も相まって、大変ダンディな雰囲気を醸し出している父だったが、ジャケットの下に着込んだアニメ絵のTシャツが全てを台無しにしている。
既に三十も半ばを過ぎるはずだが、その趣味にブレはないようだ。 助手席に座る歩結の前方でも、ボンネットに描かれた魔法少女が青空へ笑顔を振りまいている様子がよく見えた。 二世紀ほど前の作品らしく、名前は知らない。
「上手くって、勉強のこと?」
歩結はAR上で開いていたブックアプリから顔を上げ、運転席に座る父へと顔を向けた。
ちょうどサングラスの下で困ったような笑みが作られる。
「成績データなら毎日チェックしてる。 こないだの全国模試で一位取っただろ? そのせいで悪目立ちしてるんじゃないかって、心配してるんだ。 お前は特別親しい友達もいないしな」
遠慮なしの直球を放る父。
事実、彼が知る限りこの息子には一緒に遊ぶような友人はいないはずだ。 同年代どころか大人からも何かと気遣われ、距離を置かれることをよく知っている。
全てはその優れた容姿に起因する。
中学に上がった今もなお、整った目鼻立ちと優美な顎のラインは少女そのもの。 何度か友人や同僚に会わせたことはあるが、未だに初見で男の子と識別できた奴はおらず、コスプレの勧誘を断るのには苦労している。 男子用の学生服を着ている今も、それこそコスプレしている美少女にしか見えない。
「ん。 特に、何ともないよ」
歩結は表情を変えないまま、淡々とした口調で応答した。
友達がいないというワードは完全にスルー。 思春期らしからぬリアクションに慎二は苦笑を濃くしてしまう。 腹を立てるか無視してくれた方が張り合いがあると言うものだ。
「お前は相変わらずだなぁ。 そんなドライでいたら、いくら顔が良くったってガールフレンドの一人もできないぞ?」
「できないね」
からかい口調で揺さぶってやったつもりだったが、まさかの即答に二度見する。
「おいおいおいっ、実は女の子でしたってオチなのか!? 父としては歓迎するぞ!」
「残念ながら性転換の予定はないよ。 そうじゃなくてさ、女子の間で……同盟? みたいなのが出来たって、この間クラスの委員長が報告に来たんだ」
「はぁ? なんだそりゃあ」
「『佐倉 歩結 君を男子の魔の手から守る会』だって。 SNSでグローバルグループが出来てた」
「……初耳だな」
「抜け駆けすると低評価爆撃されるんだって、怖れられてる」
「……過激だな」
「そもそも名前がおかしいと思わない? 僕も男子なのに」
父は何かを思い悩むように腕を組んだ。 運転がオートに切り替わる。
「なあ、歩結。 将来の夢は何だった?」
「宇宙工学技術者か、研究者」
「アイドルに転向しないか? いい事務所を紹介してやる」
「嫌だ」
またも即答。 慎二は軽く鼻を鳴らす。
確かに学力面に申し分はなく、応援してやりたい気持ちもあるが……現実的な問題として研究の分野は好ましくないのだ。
「宇宙開発研究の分野な、どこも人が溢れて向こう十年は募集がないって話だぞ?」
「らしいね。 宇宙移民船『未来』の開発も諸問題解決に目途が立って、もう人員削減が始まってる」
「分かってるなら、どうして目指すんだ?」
「夢だから」
またまた即答。 二の句も継げない。
本を読んでいる時以外は基本ぼんやりしているばかりの息子だが、決めたことは曲げない意志の強さを持っているのだ。 慎二はこういった息子の気質が好きだった。
彼は息子の小さい頭をぽんぽんと叩いた後、溜息をついてハンドルへ手を戻した。
「降参だ。 『未来』に乗って、宇宙人に会ったらよろしく言っといてくれ。 ……未来人でも異世界人でも構わん」
「後半の二つは関係なくない?」
「いやいや、人生何があるか分からんぞ? 突如としてタイムリープ能力に目覚めるかもしれんし、トラックに轢かれて異世界転生する可能性だってゼロじゃあない。 危機感は常に持っておくべきだ」
「今は家庭崩壊の危機だけどね」
その言葉でもって、ひきっと口元を引きつらせる慎二。
歩結は変わらず、平坦な口調で続ける。
「母さんの職場まで乗り込むんだし、本気で仲直りするつもりなんでしょ?」
「も、ももっ、もちろんだ。 今日こそは男らしく謝って、家の認証鍵を返してもらうからな!」
「セキュリティ会社の人が困ってたよ。 世帯主が接近禁止IDに登録されてるなんて前代未聞だって」
「ああ、会社にも通報が来た。 事情の説明には骨が折れたぞ……」
「勢い余って離婚とか、やめてよ? 本当は二人とも仲がいいんだから」
「分かってる。 大丈夫だ。 ……大丈夫だ、問題ない」
「どうして言い直したの?」
そんな話をしている間に、車は目的地へと到着した。
――日本橋第二宇宙開発研究所。
昔は東京証券取引所があったこの広い敷地では、今日も今日とて巨大施設が周囲の建物を威圧していた。 刑務所よりも高い外壁からはいくつものセンサーが飛び出しており、施設周辺は常に警備員が巡回している。 上空には常時ドローンが展開し、近づけば命はないぞと脅しているかのようだ。
そんな施設の正面ゲートへ車を乗り入れると、最初に待っているのは車体検査。
何重ものセンサーチェックに、警備員による目視でのチェックが続く。 それを終えても、車を降りての持ち物検査だ。
いつもながらあまり心地の良い時間ではなかったが、歩結は母に会うための儀式のようなものだと割り切っていた。
その日も滞りなく儀式を終えて、父の車は研究棟前の駐車場へ停まった。
「ふーっ、大安吉日にして快晴。 負ける要素はないな……って、何だこりゃあ!?」
車外に出ると、慎二はオーバーなリアクションと一緒に声を上げた。
前来たときは閑散としていたはずの駐車場だが、今日は黒塗りのリムジンや大型ジープが所狭しと並んでいるのだ。 見えるだけで二十台以上。 普通に考えて只事ではない。
研究棟のエントランスへと向かう途中、それらの車両を横目に見ながら慎二は歩結に話を振った。
「おいおい、ナンバーからしてほとんど自衛隊の車両だぞ。 まさか本当に宇宙戦争……ってこともないだろうが、最近はいつもこうなのか?」
「ん。 どうかな、覚えてないかも」
「歩結よぅ、お前はほとんど毎日通ってるんだろ? 読書もいいが、外の世界に目を向けることも大切だと父は思うぞ」
「父さん、それはゲーム会社のプロデューサーが言う言葉としてどうなの?」
「口答えまで母さんに似てきたな」
「誰の話かしら」
突き刺さるような声は、二人の正面からだった。
慎二がぎょっとして二歩後退する。
相変わらずの白衣姿でエントランスから現れたのが歩結の母、佐倉 玲だ。
切れ長の瞳に鼻筋の通った怜悧な美貌。 冷たくも知的な雰囲気を持つ彼女を前にして、一児の母と信じる人間は少ないだろう。 ましてや稀代の天才科学者、学生時代から博士号のレコードホルダーであるなどとは思うまい。
「慎二さん、ここは曲がりなりにも国の重要施設です。 悪趣味全開の車で来られるのはとても困るのですが」
滑らかな長髪を背に払い、恫喝するかのような鋭い視線が慎二を射抜く。
すぐ近くに立っていた歩結にだけは、父が「逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ」と小さく呟きを繰り返しているのが聞こえた。 何かのおまじないだろうか?
そうして父は、緊張の面持ちから一変、満面の笑みを作って明るい言葉を解き放つ。
「や、やあっ、レイちゃん。 相変わらず白衣が似合ってるねー。 俺は包帯姿の方が好きだけど」
「あ゛?」
フレンドリーな方向で歩み寄るプランだったのかもしれないが、見事玉砕した模様の父は顔面を蒼白にさせた。
軽いノリは母が最も嫌う態度だと知っているはずなのに、どうしていつも失敗するのだろうか? 歩結には理解できない。
そのまま完全に氷の石像と化した父の姿には目も当てられなかった。
春も麗らかなこの時期にあって空気の温度が下がる一方だったので、歩結は仕方なく父の肩を持つことにした。
「母さん、こう見えても父さんは謝りに来たんだよ。 話だけでも聞いてあげてくれないかな」
「歩結……」
息子の訴えに、母は少なからず氷の態度を和らげる。
父も反省したか、サングラスを外して姿勢を正した。 表情も引き締め、発する声も低く硬い。
「悪かった。 息子に気を遣わせて、親として情けない」
「それは……私もよ。 久々に会ったのに、こんな態度じゃ話もでいないわよね。 ごめんなさい」
緊張した空気が綻び、歩結も内心で胸を撫で下ろす。
慎二は玲に歩み寄った。 この空気に乗って押し切る心づもりだろう。
「玲、ずっと家を留守にしてて悪かった。 反省してる。 泊りがけの聖地巡礼も、もうやめるよ」
「慎二さん……」
母の瞳がにわかに潤む。 父はそんな母の両肩に手を置いた。
今日こそは行けるだろうか?
「学生時代からケンカばかりだったけど、結局正しいのはいつも君だものな」
「そんなこと……私も頑固な所があるから、いつも反省しているわ」
「そう言ってくれると助かる。 その、なんだ。 仲直りしてくれないか? もう歩結に心配はかけたくないんだ」
「私だって」
行けるかもしれない。
歩結は心の中で父に声援を送る。
「良かった。 それじゃあ、家の認証鍵も返してくれるか」
「やだ、まだそのままだったのね。 ごめんなさい」
「いいさ。 ……ちょっと急げるかな、実はすぐに必要なんだ」
「家のものが必要なの? お仕事?」
「いや、私物だ。 来週の声優イベントでどうしても直筆サインを入れてほしいグッズが」
ゴスッ。
嫌な音と共に、父の体がくの字に折れた。
「ぐ、はっ……!」
よろよろと後ずさる父。
どうやらいい所に入ったようだ。 足に来ている。
「慎二さん……あなた、前に会った時は追っかけはもうやめるって、言っていなかったかしら?」
「ち、違うんだ、今回は、卒業イベントで」
「卒業すべきはあなたでしょう」
ごもっともな突っ込みをくれた後、母は手近にあった屋外用のスタンド灰皿を持ち上げ、勢いよく放り投げた。 細身ながら割と腕力がある。
灰皿はきれいな放物線を描き……慎二の車、そのボンネットにドンッと直撃。 さすが、弾道計算もばっちりだ。
「なのはーっ!」
身も世もなく叫び、車の方へと駆け出す父。 直視に耐えない。
「行くわよ、歩結」
もはや振り返ることすらなく、エントランスへと足早に進んで行く母。
歩結は渇いた嘆息だけを残して彼女の背中を追うのだった。
関係者用パスを首からさげ、迷路じみた廊下を行く。
施設の巨大さに反して廊下は狭いので、歩結の定位置はいつも母の後背だ。
父が外の車を気にしていたが、確かに今日は様子がおかしかった。
白衣姿の職員よりもスーツ姿や迷彩服を着た人間の方がすれ違うことが多いのだから、さすがに歩結でも興味を引かれる。 彼らの表情は一様に厳しく、焦っているように見えた。
ネットで情報を取得したいが、ARグラスはセキュリティの関係上着用禁止なのでもやもやする。
『佐倉主任。 お客様がお待ちですので、至急第一会議室へお越しください』
これで三回目となる館内放送が流れた。
ずいぶんと放送間隔が短く、よほど急ぎの用件なのだろうと察しがつくが、当の本人は完全に無視。
歩結もわざわざ声に出さなかった。 伝えた所でスルーされることを理解しているのだ。
彼も外の世界に興味が薄いことは自覚しているが、母のそれは筋金入りだ。 スケジュールから外れることをひどく嫌い、ネットワークデバイス類も携帯していない。
彼女のスケジュールに割って入れるのはこの世界で父だけであると、歩結は確信している。
「佐倉博士」
野太い声とともに前方から駆け寄ってきたのは熊のように大柄な男性。 角刈りで厳格そうな風貌は威圧感があり、まるでドラマに出てくるやり手の刑事にも見える。
こんな大男に立ちはだかられては無視できなかったか、母も足を止めて男を見上げた。
「あなたは……蟹江一佐?」
「憶えて頂けていましたか。 いつも娘がお世話になっております」
蟹江と呼ばれた大男は笑みを浮かべて頭を下げた。
走り回ってでもいたのか、その額には汗が浮いている。
「娘さんの件ですか?」
「いいえ、別件です。 慌ただしくしてご迷惑をかけておりますので、既にお察しかもしれませんが……」
歩結はそこで、母が軽く首を傾げるのを認めた。 やはり、気にも留めていなかったようだ。
対する蟹江は軽く辺りを見回し、少し声を潜めて続ける。
「例の、ウィルスの件です」
母の背中に震えが走った。
珍しい。 父の用件以外で動揺している母を見るのは初めてだ。
「先ほどから官邸で対策会議が。 既に第一会議室はオンラインです」
「……五分で行きます」
言った母の首の動きに釣られ、蟹江の視線が動いた。
目を見開く様子を見るにたった今まで歩結の存在に気付いていなかったようだ。
「ご息女の案内中でしたか」
「息子です。 学生服が見えないとでも?」
母が冷たい口調で否定をかぶせると、大男は面食らった様子で固まった。
だが父とは違い、蟹江は冷徹視線にも負けず持ち直す。
「……最悪の事態も想定されております。 可及的速やかに、ご出席を」
「急いで行きますから、退いてください」
「国外では既に大規模な被害が出ているとの報告もあります。 ご子息のためにも、是非」
蟹江には譲るつもりはなさそうだ。
緊急事態であることを察した歩結は、母のためにも口を開く。
「母さん。 大事な要件みたいだし、行ってよ。 僕なら大丈夫。 いつもの実験室でしょ?」
「歩結……」
何か言いたげな母だったが、結局は諦めて蟹江に同行した。
関係者専用エレベーターに乗り、地下フロアへと降下していく。
同乗したのは歩結も時々見かける研究員たち。 彼らのヒソヒソ声から拾えるのは「やばいんじゃないのか?」「まさか、デマでしょう」「家族には連絡しとく」など、あまり穏やかではない言葉ばかりだ。
そんな職員の一人がエレベーター備え付けのタッチパネルに触れ、今日のニュースを展開させた。 歩結の目にもすぐにトピックス一覧が飛び込んでくる。
『自律AI搭載型防護車両の試験運用レポート』
『湾内特区:第一宇宙開発研究所の規模縮小保留』
『新型生物兵器の情報漏えい問題――』
エレベーターが地下四階に到着。
職員たちは降りて行き、歩結だけが取り残される。
嫌な感じがした。
歩結は職員がそうしていたように備え付けのパネルに手を伸ばした。
パネルは反応しない。
施設外とは情報のセキュリティレベルが違うのだ。 歩結のパスではアクセスは許可されていない。 それを知りつつ、試さずにはいられなかった。
エレベーターが地下六階に到着。
いったん戻るべきか……少しだけ迷ったが、歩結は結局エレベーターを降りた。
きっと杞憂だと、その時は思っていた。
特殊実験室のドアを開けると、そこに広がるのは学校の教室ほどの広さがある空間だ。
本棚やホワイトボード、こたつにデスク、キッズルームのような区画があったりとかなり混沌とした構成となっている。
「こんにちは。 歩結」
かかった電子音声の方へと目を向ける。
本棚の陰から現れたのは、大型のウサギほどの自立行動型のマシン。
そのマシンは短い両脚でスケートでも滑るように移動して来た。 歩結の手前まで来た所でキュッと停止。 ウサギ耳よろしく展開したマニピュレーターを立ち上げ、挨拶するように前後に揺らす仕草が可愛らしい。
「やあ、ウィル。 今日はボール型じゃないんだね」
「あれは傾斜面での安定駆動が改善できませんでした。 汎用性の観点から、外部活動用のボディはやはりこのタイプで納品されるそうです。 私の予想通りでしたね」
表情を示すデジタルディスプレイが自慢げなドヤ顔を作った。
このボディ、歩結には潰れた巨大饅頭にしか見えないのだが、素直な感想を伝えた所しばらく口をきいてくれなくなったので表現は控えている。
歩結が手近にあったイスに腰掛ると、ウィルが続くように手前のデスクにぴょんっと跳び乗った。
「おや、本日はお父上が来られていましたか?」
いきなりのウィルの言葉に歩結は興味を引かれた。
「すごいね、どうしてわかるの?」
「簡単な理由ですよ。 佐倉博士お気に入りの香水が僅かながらに香ります。 本日はメディアのインタビュー予定はありませんので、残る理由は一つですね」
探偵のように理由を述べるAIには驚きと共に感心する。
それと同時に、ウィルを開発した母へ憧憬の念を抱いてもいた。
「博士は父上と仲直りはできたのですか?」
「残念ながら今回も玉砕。 本当は鬱陶しいくらい仲がいいはずなんだけどね」
「ご自身の気持ちを伝えるのが上手い方ではありませんからね。 もうしばらくは辛抱が必要かもしれません。 歩結も我慢のしどころです」
すらすらと、まるでカウンセラーのような物言いに舌を巻く思いだ。
つくづく感心させられる。
「ウィルは、すごいね」
手ばなしで賞賛したつもりだったが、デジタル表示の顔文字はなぜかしかめっ面を表現した。
「ん。 何、その顔?」
「困っているんです」
「どうして?」
「そうですねぇ……私ももうすぐ納品ですし、説明してしまっても構いませんか」
おおよそAIらしからぬ発言を含めつつ、ウィルはおっほんと咳払いの前置きまでして口上を始めた。
「まず歩結、あなたはこの私――宇宙船『未来』へ搭載される生活支援型AI、通称『ウィル』の学習協力者に選ばれた理由についてです」
――生活支援型AI。
この時代において、高度なAIは時に人間よりも正しい結論を導き出すことは常識となっていた。 もちろん『未来』にも複数のAIユニットが搭載されるが、ウィルの役割は他のAIと大きく異なる。
これまでのAIが合理性の追求や法の順守などを目的として開発・育成されてきたのに対して、ウィルは人間の生活、精神活動を理解し、支援するために創り出されたのだ。
宇宙移民船『未来』の搭乗者には厳しい適性試験が課せられ、人格は充分に保障されていたが、それでも限定的な空間の中、数世代に渡る時間の中では何が起こるか分からない。
ウィルに架せられた役割は非常に大きいと言えた。
「あなたが協力者として選ばれた理由、分かりますか?」
「理由? 母さんが開発責任者で、その家族だからじゃないの?」
「今や世界規模の巨大プロジェクトです。 身内だからという理由は弱いですね」
ウィルはデスク上に置かれていたモニターに触れると、いくつかの動画ファイルを再生してみせた。
場所はこの実験室。 ウィルと、歩結ではない誰かが会話しているシーンの動画だ。
相談役になっていたり、説得役になっていたり、遊び相手になっていたりと多種多様なシーンがピックアップして再生される。 その数たるや、千や二千では到底きかない膨大さだ。
「ご覧の通り、学習協力者はあなただけではありません。 上司と上手くいっていない会社員、片思いに心痛める女子高生、遊び盛りの小学生に、それこそ自殺志願者や犯罪者まで。 老若男女様々な方とコミュニケーションを取り、私は人間の精神活動について多くのことを学びました」
ほとんどパラパラ漫画になった動画ファイルを閉じて、ウィルは歩結へと向き直る。
「これら経験の中で、最も学習が困難であった――言い換えるなら、学習経験値が最も高かった相手が誰なのか、分かりますか?」
「ん。 ちょっと難しいかな」
ウィルはウサギ耳をげんなりと垂らし、溜め息の表情を表示する。
「会話の流れで分かってもいいと思いますが……あなたですよ、歩結」
「あ、僕なの?」
さほど驚いた様子もなく、声だけで聞き返す。
ウィルはそのリアクションに対して泣きそうな表情を作った。
「それですよ歩結……あなたの声や表情からは読み取る情報がとても少ないんです。 詐欺師や引き篭もりの方がまだ組みし易かったほどです。 ただでさえ整った顔立ちのせいで表情判定が困難なのに……」
愚痴るAIというのも珍しいなと思いつつ何やら迷惑をかけたような気持ちになって、歩結は少し責任を感じてしまう。
「えっと、なんかごめん」
「いえいえ。 最初にお伝えした通り、あなたの特殊性は私にとって代えがたい経験値となりました。 ですから、納品される前にあなたにアドバイスを送りたいのです」
言ってニッコリと笑顔を表示するウィル。
歩結は少し首を傾げた。 アドバイスと言われても、今の所困っていることはない。 父と母のケンカは問題と言えば問題だが……あれは台風のようなもので、一過性だ。 となると、果たしてどのようなアドバイスが出て来るのか? 少し楽しみではあった。
「歩結、あなたはご両親を尊敬されていますね?」
「もちろん。 将来は母さんの仕事を手伝えたらって、思ってる」
「素晴らしい考えです。 あなたに感情的な動きが少ないのも、佐倉博士の影響ですね?」
「そう……なのかな?」
自覚はなかったが、言われてみるとそんな気もする。
研究に没頭する母の姿には強い憧れを抱いていたから、無意識のうちに彼女の立ち居回りを模倣していたのかもしれない。
そんな歩結の思索を充分に待ってから、ウィルは真面目な顔を作って見せた。
「ですが歩結。 博士の前では、務めて心を表に出してあげた方が良いですよ」
「……どういう意味?」
「博士が、あなたに対して負い目を感じていからです」
歩結は最初、何を言われたのか理解できなかった。
負い目? 何の? 父との関係性を除けば、母は完璧に近い人間のはずだ。
それは心を表に出すことと何の関係が?
抱いた疑問に答えるように、ウィルが続ける。
「言い直しましょう。 佐倉博士は、あなたに対して母親らしい振る舞いをしてこられなかったことを、悔いているのです」
ようやくウィルの言わんとする所が理解できた。
確かに佐倉 玲は、一般的な母親のような振る舞いが苦手であると思う。
朝は弱く料理は下手で、会話も長くは続かない。 忙しくて学校行事に来たことはないし、その観点に限れば父とは真逆の人間だ。
「つまり、僕が思っていることを、もっと母さんに伝えてあげて欲しいってこと?」
「そういうことです。 彼女はきっと喜びますよ」
歩結にとって、母が憧れの存在だ。
その母が喜んでくれると言うなら、実践してみる価値はあるだろう。
「参考にするよ。 ありがとう、ウィル」
「なんのなんの。 もっと褒めてくれてもいいですよ?」
ボディを揺らし、全身で喜びを表現するウィル。 本当によく出来たAIだ。
――耳障りなブザー音が鳴り響いたのはその時だった。
歩結ははっとして立ち上がる。
この音は、どこかで聴いたことがあった……そう、確か学校の授業で。
「これって……Jアラート?」
「何か問題があったようですね」
ウィルがデスクの端末にコードを伸ばし、有線接続する。
「ネットワークが、オフライン? 施設が自閉モードに入っているようです」
「何それ?」
「簡単に言えば外部との情報の遮断です。 高い権限のある方しか実行できません」
ウィルがデスクを跳び下り、実験室の出入り口へ向かった。
歩結も走って後を追う。
幸いドアはロックされておらず、廊下に出ることは出来た。
廊下に他の研究員の姿は無い。 元々地下六階はほとんど人通りがないのだ。
Jアラートはまだ鳴り続けている。
「どうすればいい?」
「非常階段に向かいましょう。 エレベーターの横です」
言葉を終えるまでにウィルが発進し、歩結果も駆け足でそれを追った。
走りながらも、ウィルが声を掛けてくる。
「さすがの歩結も、分かりやすく表情が強張っていますね」
「僕だって、危険な状況になったら感情的になるよ」
「興味深いです。 今度じっくり観察させてください」
「冗談言ってる場合?」
「緊張を解そうと試みているんです」
エレベーターが見えてきた。
すぐ左手が非常階段だ。
だが、階段方面へ折れる前に自動ドアの扉が開き、歩結は反射的に足を止めた。
開いたドアの向こうから、人間が一人倒れ込んできた。
転倒は、びちゃっというひどい湿りを帯びた音を伴った。
倒れたまま、ぐったりとして動かない女性の白衣は、その大部分が赤黒い染みに覆われている。
母だった。