魔王様と王子様
「そんなに驚いた顔をするな。半分は冗談だ」
(ん……!?)
「半分は本気なの……!?」
思わず突っ込まずにはいられなかった。
跪いた魔王は、ふっと表情を崩して、場違いなほど甘い笑みを浮かべた。
「おまえが望むのなら、冗談では終わらせない。涙を流して命乞いをするほど残酷な報復をしてやろう」
まるで愛を囁くかのような声音で魔王が言う。
ベアトリーチェは怯えたらいいのか、ドキドキしたらいいのかわからずに、頬を引き攣らせた。
(このひと、セリフと表情がまったく合っていないわ……!)
「ベアトリーチェ。私の手を取ってくれないのか?」
「えっ……。えっと、あの……」
ベアトリーチェがたじたじしていると、魔王は待ちきれないというように自分から彼女の手を掴んでしまった。
「……!」
少し強引だったくせに、触れ方はとても優しい。
だからだろうか。
ベアトリーチェは不思議と、触れてくる魔王の手を恐ろしいとは感じなかった。
(……だけど)
いまは罪人として糾弾されている立場なのだ。
それに張り詰めた空気の中、魔王に手を握られ続けているのはさすがに耐えられなかった。
「あ、あの手を……」
「ああ、なんだ?」
(わああ……!)
手を離してくださいと言おうとしたのに。
顔を覗きこむようにして、にこっと微笑みかけられ言葉に詰まる。
どんな状況であっても、壮絶な美形の笑顔は無敵なのだと思い知らされた。
「おい、貴様らなにを見つめ合っている!! 二人の世界に入るな!!」
ロレンツォ王子の怒鳴り声を聞き、ハッと顔を上げる。
魔王はまったく動じていない。
「ああ。おまえたちの存在をすっかり忘れていた」
「ふ、ふざけおって……!!」
オモチャを奪われた子供のように、ロレンツォ王子が癇癪を起す。
なにがそこまで気に入らなかったのか、ロレンツォ王子の体は怒りのあまり小刻みに震えていた。
ベアトリーチェに婚約破棄を言い渡した瞬間より、明らかに苛ついて見える。
残念ながら王子としての威厳は微塵も感じられなかった。
魔王のほうは落ち着いているからこそ、二人の差が際立つ。
やり取りを見守っている招待客たち、とくに若い令嬢たちは魔王のことばかり目で追っている。
それに気づいて、ロレンツォ王子はますます苛立ちを募らせた。
「その者は我が国の罪人だ、勝手に触れるな!」
「『罪人』か。――魔法を使って先刻のやりとり聞かせてもらったが、ベアトリーチェを国外追放するのだったな。それでは我が国が貰い受けよう」
「んなっ!? お、おまえたちいったい、どういう関係なのだ!? まさか俺という婚約者がいながら、この男と……!?」
ロレンツォ王子に睨みつけられたベアトリーチェは、驚きのあまり言葉を失った。
彼の疑っているようなことなどあるわけがない。
公衆の面前でそんな疑惑をぶつけられるなんて……。
(恥ずかしくて、消えてしまいたい……)
魔王はそんなベアトリーチェの手を引き、さりげなく自分の後ろに下がらせた。
(まさか……庇ってくれた?)
ベアトリーチェは瞬きを繰り返しながら、魔王の広い背中を見上げた。
なにが起きているのかは相変わらず理解できない。
(でも……ここにいる人々の中で、もしかしたら魔王だけは味方をしてくれているの……?)
ただ魔王に助けられる理由なんて、まったく思い当たらなかった。
そんなふうに戸惑うベアトリーチェを背に庇ったまま、魔王が口を開く。
「ロレンツォ王子、今の発言は聞き捨てならないな。元、だろう?」
「は? ……なんだと?」
「元婚約者だ。もう彼女はおまえに縛られてはいない」
魔王がきっぱりとした口調で言い切る。
ロレンツォ王子は屈辱のあまり耳まで真っ赤にさせた。
「そ、それは……場合によっては撤回してやってもいい……!」
「今さら惜しくなったのか? しかし己の愚かさに気づくのが遅すぎたな」
「遅いものか。私は王子だ! この国の人間を好きにする権利があるのだ!」
途端に招待客たちがざわつきはじめた。
「撤回って……婚約破棄をか? それとも国外追放のことを言ってるのか?」
「どちらにしたってありえないわ。そんなコロコロと変えられるような話じゃないのに……」
「王族だからって、気まぐれで刑罰を与えるのは問題だぞ。明日は我が身かもしれん」
「そもそも今回のこと、国王陛下は御存じなのか……?」
「陛下がご不在のタイミングに合わせたのが怪しいような……」
「おい! 口さがないことを言っているとおまえらも不敬罪に問うぞ!」
ロレンツォ王子に怒鳴りつけられ、貴族たちは口を噤んだが、その目には不満と疑念の色が浮かんでいる。
「くそっ……」
王子さすがにまずいと思ったのだろう。
慌てふためきながら再度、発言を撤回した。
「ふ、ふん。刑罰はちゃんと施行するに決まっているだろう!」
「そうか。では先ほどの話に戻そう」
そう言って魔王がベアトリーチェのほうを向く。
ベアトリーチェは緊張しながら魔王を見返した。
相変わらず右手は握られたまま。
「魔族の暮らす魔国では色々と勝手が違うだろう。だがおまえが不自由なく暮らせるよう、できる限りのことはする。ともに来てくれるか?」
「……!」
まるでプロポーズのような言葉を聞き、令嬢たちの間から悲鳴に近い声がもれた。
魔王に乞われている当のベアトリーチェは、目を丸くした状態で固まっている。
(魔国で暮らす……)
それは今のベアトリーチェに与えられた唯一の希望だった。
貴族の令嬢が身一つで国外追放され生きていけるわけがない。
こういうとき地位の高い親が国王へ掛け合ってくれて、罪が軽くなることもある。
でもベアトリーチェの両親には期待のできない話だ。
父は娘を政治のための駒としか思っていないし、優しかった母は他界した。後妻として家に入った若い義母からはお荷物扱いされ、はやく結婚して出ていって欲しいと面と向かって言われたことさえあった。
魔族たちの国がどんなところかはわからない。
未知のものへの恐れはもちろんある。
それになぜ魔王がそこまで言ってくれるのかが一番謎だ。
でも自分を見つめてくる魔王の赤い瞳は温かい。
彼を信じてみるのが一番だと思えた。
「あの、それでは……よろしくお願いします……」
「そうか、受け入れてくれるんだな……。よかった。必ずおまえを幸せにしよう」
魔王は完璧に整った美貌を甘くとろけさせて、ベアトリーチェに微笑みかけた。
(……っ)
顔がカアッと熱くなるのを感じて、思わず俯く。
「もうこの場に留まっている理由はないな。少しじっとしていろ」
「え? ……あっ!?」
膝裏に手を回され、軽々と抱き上げられる。
「わああっ……!?」
「私の首に手を回せ」
(そんな恥ずかしいこと……!)
でもしっかり掴まっていないとバランスが取れない。
ベアトリーチェが真っ赤な顔でしがみつくと、魔王は微かな声でフッと笑った。
「ま、待て! このまま逃すと思うか!」
「おまえとの話は終わりだ。ベアトリーチェ、行こう」
魔王はベアトリーチェを横抱きにしたまま広間を横切ると、バルコニーから外へ出た。
「このまま、おまえを連れて魔王城へ向かう」
「は、はい……!」
その直後、ベアトリーチェの耳に馬のいななく声が聞こえてきた。
蹄の音は間違いなく、あの暗い空のほうから近づいてくる。
(どうして空から……!?)
恐れと動揺で目を見開き、天を仰いでいると――。
「……! うそ……あれは……」
稲光を縫うようにして、闇の彼方から姿を現したのは、燃えるような赤毛を持つ一角獣だった。
魔王はベアトリーチェを馬の背に乗せると、後ろから抱きしめるようにして手綱を握った。
彼からは夜に咲く花のような、甘く澄んだ香りがした。
異性とこんなに密着したことはもちろん初めてだ。
(心臓がドキドキして苦しい……)
こうしてベアトリーチェは王子の手から奪い去られ、魔王城へ導かれたのだった。