魔王様と婚約破棄された私
「私、ロレンツォ・ファルネーゼ第三王子はこの場をもって、ベアトリーチェ・メッシーナ侯爵令嬢との婚約を破棄する!」
城の大広間に響き渡る声で言い放たれた瞬間、ベアトリーチェの頭は真っ白になった。
舞踏会がはじまるのを待ちわびていた招待客たちが、一斉にこちらを振り返る。
広間の隅でチューニングをしていた楽団も楽器を置いて顔を上げた。
それまでのざわめきが嘘のように、広間はしーんと静まり返った。
とても嫌な沈黙だ。
ベアトリーチェは胃がキリキリするのを感じながら、唇をキュッと結んだ。
ロレンツォ王子は憎しみを込めた目で、ベアトリーチェを睨みつけている。
その隣、寄り添うようにして立つのは男爵令嬢のエレナだ。
ふたりとも淡い色の金髪をした美男美女だから、並んで立つと華がある。
「やっぱり王子様はベアトリーチェを捨てる気だったのね」
「さんざん噂になってたもの。当然よ!」
「ふふ。ベアトリーチェなんかが王子様とつりあうわけないわ。いい気味」
ヒソヒソとした声で、令嬢たちが心ない言葉を囁き合っている。
噂話ならベアトリーチェだって知っていた。
『ロレンツォ王子は男爵令嬢のエレナに夢中。ふたりは心から愛しあっている』
(だけどまさか婚約破棄されてしまうなんて……)
王家の政略結婚が、恋愛感情で覆るのは前代未聞の話だ。
「言っておくが、破談になったのはすべておまえのせいだからな。陰でコソコソ嫌がらせをしたりするような女を妃になどできぬわ!」」
「嫌がらせ……?」
思い当たる節がまったくなくて、首を傾げる。
「ふん、しらばくれても無駄だ。おまえはエレナを苛めただろう!」
「え……!?」
「おまえの悪行は、エレナからすべて聞かせてもらった! エレナを階段から突き落として殺そうとしたな?」
「そんな、まさか……!」
身に覚えのない話を聞かされ、ベアトリーチェは目を見開いた。
「何かの間違いです……!」
「女の嫉妬ほど見苦しいものはないな」
「違います……! 嫉妬などしていません……!」
「なんだとぉ!?」
王子の額に青筋が立つ。
嫉妬していないと言われれば、それはそれでプライドが傷つくらしい。
「王子である私の言葉を否定するなど不敬だぞ! 不敬罪とエレナへの殺人未遂により、貴様は国外追放だ!!」
「そんな……」
呆然としてロレンツォ王子を見上げると、彼は忌々しそうに舌打ちをした。
「嫌な目で睨みおって! 殺人を企むような悪女であることが顔に出ているぞ!」
酷い言われようだ。
けれど残念なことに、こういう経験をするのは初めてじゃない。
だから思った。
(またこの顔のせいで、悪意があると決めつけられてしまうのね……)
「お前はいずれ王妃になり、この国を牛耳るつもりでいたのだろう。だが、そうはさせん。悪女によって国が傾くことを、この私が婚約破棄によって止めてやるのだ」
ロレンツォ王子はベアトリーチェの細い腕を掴むと、乱暴な仕草で自分の傍へ引き寄せた。
そのまま薬指にはめられていた婚約指輪が外される。
(どうしよう……。私には居場所がないのに……)
ベアトリーチェが青ざめたそのとき――。
「……!」
突然、会場中の明かりがフッと消えてしまった。
急に襲った暗闇に驚き、人々がざわつく。
「まあ、いやだ……。何かしら」
「真っ暗で何も見えないな」
ベアトリーチェも闇の中で身を竦ませた。
(みんなの言うとおり……。それに明かりが一斉に消えるなんて変じゃない……?)
自分の指先すら見えないほどの闇に戸惑う。
その直後に今度は窓の外で、激しい稲光が夜空を切り裂くように駆け抜けた。
――ピカッ、ゴロゴロドーン!!
「きゃああッッ……!!」
光の後を追うように雷が落ちる。
それは魔物の怒号のような、おぞましい轟音だった。
広間に集まった人々は、怯えながら顔を上げ、皆、一斉に窓の外へと視線を向けた。
不自然な速度で、暗雲が天を覆っていく。
魔法の力が働いていることは、一目瞭然だ。
地を揺さぶる音をたてながら、何度も落雷があった。
広間に緊迫感が走る。
「な、なんだこれは……!? 魔法か!? おい、誰か――」
『うッ……うわああああッ……!!』
ロレンツォ様の声を遮ったのは、廊下から聞こえてきた悲鳴だった。
それも、ただ一人のものではない。
男たちの怒号や絶叫が響いてくる。
あれはおそらく兵士たちの声だろう。
広間は瞬く間に混乱の渦に飲みこまれた。
わけがわからないまま、怯えきった婦人たちが悲鳴をあげる。
恐怖は伝染して、人々から冷静さを奪った。
「お、おい!? 誰か!! これはいったいなにごとだ!?」
ロレンツォ王子が真っ青な顔で叫ぶ。
騎士たちは急いで彼の元へ駆けつけたが、答えを返せる者は一人もなかった。
そのとき、不意に扉の向こうの絶叫がぴたりと止んだ。
「……どうして急に静かになったのだ!? ……衛兵! 衛兵!」
閉ざされた扉の外へロレンツォ王子が呼びかける。
衛兵からの返事はない。
代わりに扉の向こうから聞こえてきたのは――。
――カツーン、カツーン。
高らかな長靴の音。
あれは衛兵のものだろうか。
もし衛兵なら、どうしてただ一人きりの靴音しか聞こえないのか。
「妙だな……」
違和感に気づいたロレンツォ王子が、腰元の鞘から剣を抜く。
騎士たちもすぐさまロレンツォ王子に倣った。
数十本のきらめく剣が待つ中、地響きのような音を立てて、扉が外から開かれる。
同じタイミングで雷鳴が止み、雲間から煌々と光る月が顔を覗かせた。
扉の向こうから姿を現した男は、闇を身にまとっていた。
黒衣の上にさらに黒々としたマントを羽織り、紫黒色した禍々しい大剣を左手に携えている。
右手には負傷した衛兵をぶら下げていて、ちょうどいま、その体を床へ投げ捨てたところだった。
倒れた衛兵が苦しげなうめき声を上げる。
ヒッと、怯えた悲鳴が広間から漏れた。
「私の外見を見た瞬間、話も聞かずに襲い掛かってきたから対処した。非戦の同盟を理解できていないのか? もう少し兵士を教育すべきだな」
「……っ」
声をかけられたロレンツォ王子は、ぎりっと唇を噛んだ。
返す言葉が出てこないのだろう。
ベアトリーチェを断罪するための儀式は、完全に中断してしまった。
それどころではない事態になったのだから、当然といえば当然の話だ。
ベアトリーチェをはじめとする人間たちは、誰も皆、知っている。
黒衣に身を包み、鷲の紋章が刻印された大剣を持つ赤目の男の正体を。
黒衣の着用と鷲の紋章は、ある種族の王だけに許された印だ。
人間たちはそれを不吉の象徴として忌み嫌った。
永遠に人間とは相容れない種族。
(その王であるこの人は……)
「魔王……」
誰かが堪えきれず、怯えた声で呟いた。
魔王と呼ばれた青年は、返事の代わりに冷たい笑みを浮かべた。
(やっぱり彼は魔王なのね……。でもいったいどうして魔王がこの城へ……?)
魔族と人間の間には不可侵条約が交わされている。
いくら魔王でも許可なく人間の土地に出入りすることは禁じられていた。
条約を犯せば、全面戦争になる可能性もある。
そのために攻め込んできたのか。
しかし魔王はひとりきり。
仲間が潜んでいる可能性はもちろんある。
そうだとしても、この場に単身乗り込んできた意図はなんなのだろう。
「人間共、そんなに怯えた顔をせずともよい。何も皆殺しにきたわけではない。今のところはな」
魔王は淡々とした声音で、恐ろしいセリフを放った。
恐怖のため息が、貴族たちの一団から溢れ出る。
この場にいる誰もが、どうしたらいいのかわからずにいた。
ロレンツォ王子も騎士たちも、出方を考えあぐねいているようだった。
「ふっ。随分と大人しいな」
魔王は漆黒の短い髪を乱暴にかき上げた。
ルビーのように赤い瞳はこの世のものとは思えないほど美しい。
魔王の肌は透けるように青白かった。
そしてこの世の者とは思えないほど、整った容姿をしていた。
怜悧な美貌という言葉がこれほど当てはまる人を、ベアトリーチェは見たことがない。
それは恐ろしさを宿した圧倒的な美だった。
年齢は不詳。
とても若く見えるし、この世の道理を知り尽くした賢者のようにも見えた。
怯えていたはずの令嬢たちが「はぁっ……」とため息を吐く。
魔王の美貌に魅せられてしまったのだろう。
しかし魔王本人は、令嬢たちの熱い視線など気にも留めていない。
ぐるりと広間を見渡し、最後にベアトリーチェの前で視線を止めた。
一人だけ貴族たちの群れからはみ出していたせいで、悪目立ちしてしまったのだろう。
魔王の口元に浮かんでいた薄い笑みが消えて、すうっと目が細められた。
魔王の視線はベアトリーチェにそそがれたままだ。
ひたむきともいえるその眼差しは、ベアトリーチェをひどく戸惑わせた。
(……もしかして私にたいして怒ってる? ……どうしよう。私のなにかが気に障ったのかしら……。十中八九、この顔よね……? あの……悪意はありません……こんな顔だけれど……)
「おい! なぜ見つめ合っている!? だいたい何故、不可侵条約をなぜ侵したのだ!」
「俺の宝物を苛めていただろう? だから奪い返しにきた」
「宝物だと……? いったいなんのことだ……!? ――我が国がその気になれば、貴様らなど瞬殺だということを知らないようだな! 貴様らの国は我らの温情で生き延びているのだぞ!?」
ロレンツォ王子が喚くが、魔王は完全に聞き流している。
「ようやく会いに来れた……」
魔王が呟いた言葉は、独り言のような声量で誰にも聞き取れなかった。
カツンと硬質な長靴の音を立てて、魔王は大きな一歩を踏み出した。
そのままベアトリーチェのもとへ歩み寄ってくる。
(……! どうしてこっちにくるの……!?)
はっきり言って怖い。
それなのにベアトリーチェはなぜか、魔王から視線を逸らすことができなかった。
魔王はベアトリーチェの目の前までやってくると、静かな動きで跪いた。
(え……?)
困惑したまま呆然と見つめ返す。
黒い手袋を嵌めている魔王の手が、そっと差し出された。
「ベアトリーチェ」
さきほどまでとは違う穏やかな声で呼びかけられ、ハッと息を呑む。
(この人、なぜ私の名前を知っているの……?)
「おまえを助けにきた。さあ、この手を取れ。そして悪しき者たちに罰を与えよう」
魔王はふっと口元を緩めて、嫣然と微笑んだ。
「串刺しにするか? それとも焼き討ちか。おまえの望むとおり、凄惨な血の雨を降らせてやろう」
「く、串刺しー!?」
王子に婚約破棄された時も、なんとか取り乱さずにいたベアトリーチェだったが、さすがにこの時ばかりはそう叫んでしまったのだった。