第5話 ブランシュ編 3
ブランシュ家の大きい玄関にて、窓から差し込む無数の光をその身に浴びブランシュ領公の娘リディはでかでかと飾ってある肖像画を儚そうに見つめていた。
その肖像画とは、現ブランシュ家当主、ユーリ・ブランシュの姿絵である。
細く冷たい印象に見える目に赤い瞳、黒髪を後ろに下げ同じく黒色のスーツ風な服を着て椅子に座り冷たく笑うその姿はとうてい善人には見えない。
しかし、そんな冷たい印象のある絵を見ても焦がれる者がいる。このリディである。
その切なそうな瞳を閉じ両の手を祈るように重ねる。その姿は子供ながらに儚く、とても美しい。
そしてリディは鈴の音が鳴るような声でここにいない父に向って言葉を紡ぐ。
「ああ、私のおとうさま……どうかいつまでもその怖い瞳で私たちを見守って下さい。
……天国で」
「いや、普通に生きていますから」
リディのボケにツッコミを入れる黒髪のメイド、アニエス。
紛らわしい場面だが、アニエスが言うようにリディの父ユーリは生きている。
ただ単に、リディが目覚める少し前に長期の仕事で家を空けているだけだ。
その事はもちろんリディ自身も分かってはいるのだが、先日メイドの一人が「そろそろお父上様が帰られる頃ですよ」の発言を聞いて気持ちが高ぶってしまい、毎日こうして肖像画に向かって話しかけているのだ。
そんな状態のリディにアニエスは要件を伝える。
「はぁ~、お嬢様。昼食の準備が出来ましたので食堂に向かいましょう」
「今はいらないかなぁ~」
「ダメですよ、ちゃんと食べないとお体に悪いです」
「じゃあアニエスが代わりに食べといて」
「いや、私の胃とお嬢様の胃は連結してないので」
「じゃあ繋げといて」
無茶苦茶な事を言って頑なにこの場を動こうとしないリディに眉を顰めるアニエス。
しかしもう何日もリディを見てきているアニエス。その扱い方もちゃんと心得ている様だ。
「……いいのですか? 奥方様やジル様は――」
「――うわぁぁ!! マッハで行くよぉぉぉぉ!!」
リディは家族に弱い、と言う事はもうすでにブランシュ家に勤めている人間なら誰しも知っている共通認識。そしてその効果も見ての通り。
テコでも動こうとしなかった少女がまるで羽の様である。
「ちょ、お嬢様! 急に走られては危ないですよ!」
駆け出すリディを急いで追いかけるアニエス。しかしリディがいきなりピタッと止まるものだから思いっきり転んでしまう。
「痛っ! お嬢様!? 急に止まられても危ないですよ!!」
鼻を押え涙目のアニエスを無視して、もう一度父の肖像画を見るリディ。
そんなリディをジト目で見るアニエス。
「お嬢様? もうそのくだりはいいですよ。そんなに殺したいのですか? 御自分の父を」
「どうか天国で見守って下さい……アニエス」
「いや、私!?」
令嬢とメイドの漫才が見られるのも、この世界ではブランシュ家だけである。
その後、食堂についたリディだが、母も兄もそこにはいなかった。その事をアニエスに問いただすと「私はただ、奥方様やジル様はすでに食べ終わっています。と言おうとしただけですよ?」としたり顔で言ってきた。
リディは悔しそうに
(いつか右の眉毛だけ全剃りしてやるからな)
とささやかな復讐を決意するのであった。
*****
それから数日後、リディはこの世界の知識を集めようとアニエスと共にブランシュ家の書庫に来ていた。
大分遅い行動のように思えるが、別にリディにとってこの世界の事なんて実際はどうでもいいのだ。
では、なぜ今になってそのどうでもいい知識を勉強しようと思ったのか?
(話についていけないんだよね~)
書庫の扉を開けながらそんな事を思うリディ。
そう、リディは家族との会話についていけなくなる事が良くあるのだ。
前日の食事中でも、アリアンヌとジルが国家の情勢やらについて話し合っている時も、リディは全くその内容が理解出来ず、ひたすらヌポーと上を向いていたのだ。
その事をアニエスに相談したら「それなら勉強しましょうか」の一言があり現在に至る。
書庫の中はホコリっぽく、一つの大きな長机を囲むように本棚が並べられていた。
学校の図書館と大差ないな~ と思いつつ、机の上をツーッと指でなぞるリディ。
「あらあら、まあまあ~。アニエスさんが立派に仕事をこなしているみたいで安心したわ。 集めたホコリで犬が出来そうねぇ~」
指先についた誇りを見て、まるで小姑の様に嫌味を言うリディにバツが悪そうに目を逸らすアニエス。
「な……なにぶんメイドの数が少ないもので」
ブランシュ家はその広大な敷地の割には使用人が少ない。メイドはアニエスを合わせて全部で5人。庭師1人に料理人が3人。はっきり言おう、少なすぎる。
「もしかして、家って貧乏なの?」
味は良くないが出てくる食事は豪勢だし、着ている服も一級品の様なのでそんな事は微塵も考えず、たくさんお代りしてしまったと不安になるリディ。
「まぁ、その辺も含めて勉強していきましょう」
不安そうなリディに優しく微笑み、窓を開けて空気を入れ替えるアニエス。
机に隣り合い座る二人。
「さあ、それではまず算術から」
「え~、それはいいよ」
自分は社会情勢とかそう言う事を学びたいんだよ。算術なんて別にどうでもいいんだよ。と思い嫌な顔をするリディ。
「あっ、何ですかその顔!? やるからには満遍なくやらないと。私、妥協はしたくないんです!」
「妥協したくない……ねぇ~」
再び指をツーッと滑らせるリディ。妥協したくないんだったらメイドとしての仕事も妥協せずやれよ、と暗に言っているのだ。
「……算術は結構便利なんですよ? 例えば買い物をする際に――」
(あっ、話逸らした)
リディのジト目などどこ吹く風なアニエス。 リディ自体もこれ以上は追及しても可哀相だと感じ、アニエス先生の授業に専念する事に。
「それでは、ここに銅貨5枚するリンゴが――」
「――まずその銅貨が分かりません!」
ビッ! と手を上げるリディ。
「おや、貨幣価値が分からないのですか? まぁ最近生まれてきた様なものですし仕方ありませんか」
そうしてアニエスはこの国の貨幣について話し出す。
話によると、この世界の貨幣は金貨、銀貨、銅貨の三つがあるらしい。
そして価値は金貨1枚=銀貨100枚=銅貨10000枚となっている。
大体、一般的な男性の平均月収が金貨1枚程度。アニエスは月に金貨1枚と銀貨20枚らしい。
(なるほど、日本円に換算すると金貨一枚で20万円くらいか……よくわかんないけど、領公って偉いんだよね? そこに勤めているメイドが一般男性と変わらない月収というのはどうなんだろう? やっぱり家って貧乏?)
腕を組み考えるリディ。そしてアニエス先生の授業は続く。
「大体理解出来たようなので、算術に戻りますね?」
そう言って机の上の白紙の紙に絵を描き始めるアニエス。リンゴとお目目つきの布の絵だ。
「ここに銅貨5枚のリンゴと銅貨12枚の布があります。お嬢様はこれを買おうとして銀貨1枚を出しました。さて銅貨は何枚帰ってくるでしょうか?」
(ふむふむ、なめてんのか!?)
前世で一応29歳まで生きた人間にはあまりにも簡単すぎる問題である。そんな超イージーな問題に早くもやる気がなくなってゆくリディ。
「答えは0枚。なぜなら私はリンゴをその場で頬張り布で口を拭いた後、銀貨を指で弾き、つりはいらないぜと言い立ち去るから」
「いや、そんな男前な計算しなくても……」
「冗談。83枚でしょ?」
「正解です! 流石お嬢様です」
そう言ってリディの頭を撫でるアニエス。そして今度は逆にリディがアニエスに問題をだす。
「じゃあそんな私が残りの83枚でリンゴを買えるだけ買って、一人に2個ずつ配ったらいったい何人に配れるでしょうか?」
「えっ? え~と……あ~16でぇ~、は8人!!」
「よしよし、正解だ」
アニエスの頭を撫でるリディ。
「えへへ……って違う! 逆ぅ!!」
そんなコントを繰り広げたりしたが、つつがなくアニエス先生の授業は進んでいった。
*****
皆が寝静まった頃、自室の窓から外を眺め物思いにふけっているリディ。
いつもと違い真剣な表情で窓の外にあるブランシュ領を見つめ、今日アニエスから教えてもらった内容を脳内で反復していた。
『いいですかお嬢様。私達の国は領治国ヴァルドと言い1人の王と6人の領公がそれぞれ1つずつの領地を治め成り立っている国となっています』
『それ知ってるよ』
『あれ? 誰かから聞いたのですか?』
『うん、女神』
『……そうですか』
リディの発言をスル―し、再び話し出すアニエス。
『そして御当主様、お嬢様の父上ユーリ様はその領地の中の1つ、このブランシュ領を治めている領公なのです』
『わぁ! おとうさますごい人なんだね!?』
『ただ凄いだけじゃないですよ? 領公は“領家”の中から選ばれるので血筋ももちろん関係ありますが絶対ではなく、何よりも実力と人柄で判断されるのです。ユーリ様は元々位の低い領家だったにも関わらずその剣の実力と熱い忠義心で領公に選ばれたお方なのです』
その話に、まだ見ぬ父親への好感度が上がりつつ、アニエスに疑問を投げかけるリディ。
「領公が凄いのはわかったけど、その“領家”って何?」
「領家とは国に大きく貢献した者が貰える位の事です」
この領治国ヴァルドには領家という平民より位の高い者達が存在する。偉い順に、領公→準領公→領伯→領子→騎士。これら全てを総称して“領家”と呼ぶ。もちろん位が高ければ高いほどきかせられる幅は広がる。
つまり領公であるブランシュはかなり高い水準の家になるのだが。
『そんなにスゴイのに、何で家には使用人が少ないの?』
『……そ、それはですね』
この国の6つの領地には特徴がある。
現国王、ジェイクス・ヴィ・ヴァルドが住んでいる大都市、王都ウィンドル。
領治国最強と名高い先鋭騎士団を持つ都市、ジルトルト領。
商業が盛んな都市、ディアヌ領。
海域に面しており、貿易や漁業などが盛んな都市、ルアンヌ領。
魔法、魔術の研究機関が数多くある都市、パルム領。
そして、リディがいるブランシュ領は盛んらしい……主に農業が。
(いや、農業大事だよ? ただそこが問題じゃないんだよね~)
リディが言う問題と言うのは、このブランシュ領はいわゆるハズレ都市だからだ。
まず王都から一番遠い。他の都市は王都を囲むように点在しているにも関わらず、我がブランシュ領は一番近いパルム領に行くのですら、馬車で1日以上もかかる。
そして農業都市が国全体にあまり重宝されていないため、資金が非常に少なく領を守る人員も農業をする人員も雇えない。
その為、何が起こるかと言うと、例えばブランシュ領が何かしらの攻撃を受けてしまった時、自衛する手段がないため援軍を待たなければいけなくなる。そしてその援軍はブランシュ領への距離が遠いため来るのが非常に遅くなる。いやむしろ見捨てられる可能性の方が高い。
そしてさらにさらに、ブランシュ領の裏側には大きな山があり、そこには国から追放されたり逃げてきたりした無法集団が数多く移住しているため、良くブランシュ領に攻め込んでくる。
さて、問題はまだまだあるが、どうだろう? 恐らくこんな所に住みたいと思う人間はいないだろう。それ故に、ブランシュ領は絶賛不人気ナンバー1に認定されているのだ。リディの父親も随分酷い所の領公になったものだ。いやならされたのか……。
(すごい所に来たな……ほんとに)
リディは思う。自身の住んでいる所が、そんなに貧しく危険な所だったとは知らなかった……いや、あえて皆が隠していたのかもしれない。アニエスは言ってしまったが……。
「俺に……何か出来る事はないのか?」
そんな現状を聞いて、どうにかしたいと思うのが異世界人の性なのだろうか。
リディは考える。どうすれば現状を打破出来るのか? 自分は家族のために一体何ができるのか? 考える、考える、考える、考え……キャパシティーオーバーです。
「あああああ! 全然出てこないぃぃぃぃ!」
頭から湯気を出し、体を捻り、案を捻りだそうと部屋を転がりまわるリディ。しかし出てこない。
「ああああああ! 低学歴が憎いぃぃ!!」
頭を使いすぎて完全におかしくなったリディは部屋を飛び出していく。
*****
自室にて勉強をしているジル。その時、「ひゃあああ」と言う奇声と共に廊下を駆け抜ける音が聞こえる。
「な、何だ!?」
不安そうに自室のドアを見て冷や汗を垂らすジル。そしてその足音と「眉毛じゃああ!」と言う奇声はどんどん遠ざかって行く。
「……ああ、何だリディか」
ホッとしたように胸を撫で下ろし再び勉学に勤しむジル。しかし流石に慣れ過ぎである。