第29話 ジル決断編 後日談
ブランシュ家屋敷の食堂にて、アリアンヌはいつもの様に夕食を食べていた。
目の前にあるおいしそうなブランシュ肉を切り分け、少し冷ましてから口の中に入れる。
肉汁が口の中一杯に広がり、その濃厚な香りが鼻孔をくすぐる。極めつけは最近新たに作られたソースだ。トマトをベースにいくつかの調味料を混ぜ合わせじっくりと煮込んだ甘辛いソースが肉の味を飛躍的に向上させている。
アリアンヌの今まで食べて来たおいしい食べ物リストの上位が切り替わる。ブランシュ肉のステーキと特性ソースの合わせ技は見事ナンバー1の座に君臨するのであった。
しかしそんな味の幸せを堪能しているにも関わらず、アリアンヌの心は少し沈んでいた。
原因は、ソース同様にこのブランシュ家の食卓が変わってしまっているからだ。
左に目を向けると、いつも通りのユーリが綺麗な動作で食事を食べている。これはいつもと変わらない。違うのは目の前と右側だ。
アリアンヌが前に目を向けると、そこに気弱な笑みを浮かべていたジルの姿はない。つい先日、王都の騎士学校へ通うためこの家を出て行ったのだ。
少しもの悲しく感じるが、ジルの王都行はアリアンヌも大賛成していた事。これは仕方のない事と気持ちを割り切る事はそれ程難しくはない。
そしてアリアンヌが右側に目を向けると……。
「ズエェェェェ……」
「お嬢様、いつまでもフォークをかじっていないで食事をして下さい。てか凄いですねそれどうやっているのですか?」
「ズエェェェェェ……」
ジルが居なくなってからと言うもの、魂が抜け落ちた様になってしまった愛娘リディ、これが一番の問題だ。
まぁ前の様に本当に魂が抜け落ちている訳ではないからまだマシだが。
今もアニエスが注意を促しても虚ろな瞳で虚空を見つめ食事には全く手を付けず、なぜだか左手でナイフとスプーンを持ち、フォークを挟んでガシガシと噛んでいる。器用な事だ。
「リディ。ジルが居なくなって寂しいのはわかるが、もう3日だぞ? いつまで食べ物と食器の区別がつかないでいるつもりだ?」
リディの姿を見かねたのかユーリが手を止め発言する。アリアンヌもこんな娘の姿はいつまでも見ていたくはないので、乗っかる事に。
「そうよ? リディちゃんのそんな姿、誰も望んではいないわ。あなたはあなたらしく、いつも通りに笑ってちょうだい。そっちの方がジルも嬉しい筈よ?」
そんなアリアンヌとユーリを見て、リディは食べていたフォークをゆっくりと下ろす。
「そ、うですよね……いつまでも暗い気持でいる訳にはいきませんよね……」
「そう、その通りよ! さ、そんな味のしない物じゃなくてお肉を食べましょ? すっごくおいしいわよコレ」
声色は暗いままだがリディから前向きな言葉が出て来た事に顔を綻ばすアリアンヌ。だが……。
「でも、もし兄さんが王都行きの途中で野盗もしくは魔物に襲われていたら……」
「え?」
リディの虚ろな瞳がアリアンヌを突き刺す。
「もし王都に着いた瞬間、領家を狙った悪漢に襲われていたら、お金を落としてしまい、途方に暮れていたら、体格の良い男達に絡まれていたら、寮で同じ部屋の者が嫌な奴だったら、クラスでいじめにあっていたら、教師に理不尽な体罰を受けていたら、友人が出来なくてトイレでご飯を食べていたら……これに兄さんが当てはまらない可能性がどれくらいあるのでしょうか?」
ユーリが目を細めリディに言う。
「リディ、あの子も立派なブランシュ家の男だ。仮にそれらが起こってしまったとしても、それはジルが自分で解決出来るはず、いや出来ると私は思っている」
「そう、ですか? いやおとうさまが言うのならそうなのでしょうね……おとうさまの中ではね」
リディの言葉に不安の種が発芽していく感覚になるアリアンヌ。
「……ユーリ、どうしましょう? 何故かリディの目と言葉にものすごく不安になって来たわ」
「洗脳だ。気を強く持つんだアリアンヌ」
「そ、そうね」
尚もブツブツと不安材料を言い続けているリディを見て、気を引き締めるアリアンヌ。するとリディの横にいるアニエスがヤレヤレと息を吐き自信ありげな声で言ってくる。
「ここは私に任せて下さい! こう見えてもお嬢様の扱いには自身があるのですよ」
「何か良い方法があるの?」
少しの期待を込めてアリアンヌが聞くと、アニエスは胸を張り指を立てる。
「はい。いいですか? 御当主様も奥方様も優しすぎると推測します! 子供は甘やかすだけではなく時に冷たく、厳しく言ってやらないと」
「厳しさが足りないか。子供のいない君がその知識をどこから学んできたのは甚だ疑問だが……まぁやってみてくれ」
「かしこまりました! 見ていて下さい! これぐらいの子供はガツンと言ってしまえば言う事を聞くんですから!」
どこから出てきたのかわからないその自信でアニエスはリディの両肩を掴み無理やり自分の方に向ける。
「くぉらお嬢様ぁぁ!! いつまでクヨクヨしているおつもりですかぁ!? 人生には辛い事がたくさんあるのにいちいち落ち込んでいたら私みたいに立派な大人になれませんよぉ!! さぁ私の様になりたいのなら、その暗い顔をやめてとっとと食事をしてぐっすり眠りなさい!! わかりましたか!!」
「……アニエス」
「ん? 何ですか?」
やってやったぜと言うように強気な顔のアニエスにリディが耳打ちをし始める。
「……」
「うんうん、うん……うん……うっ……ん……」
リディに何を言われているか分からないが、見る見るうちにアニエスの顔から生気が抜け落ちていく。そしてリディがアニエスの耳から顔を話すと……いきなり足を抱えその場に蹲り始めた。
「もう仕事辞めます……私は一生穴の中で暮らしてゆきます」
「いや、あなたまで伝染してどうするの……」
アリアンヌが呆れてツッコミを入れる。本当に口だけ達者なメイドだ。
「足りないのは厳しさではなくアニエスの頭だったか」
ユーリも呆れている様だ。
そんな夕食を終え、皆が寝静まった頃アリアンヌはユーリと寝室で話し合っていた。内容はいつまでも元気にならないリディをどうするかである。
「絶対医者に見せるべきよ!!」
「君は心配しすぎだ。一過性のものだからすぐに良くなる。大丈夫さ」
「どこが大丈夫なの? だって……食器をおかずに食器を食べているのよ!? これが大丈夫と言うのならあなたはリディちゃんの手足がナイフやフォークになって、帽子の代わりにティーカップをかぶっていても驚かないのでしょうね!?」
「それは流石に驚くさ……目を皿のようにしてね」
「茶化さないで!!」
リディの事が心配なアリアンヌは即医者に見せるべきだと訴えかけるが、ユーリの方は時間が解決してくれるスタンスを持っている様だ。食い下がるアリアンヌに「心配ない」を突き通すユーリ。もう後は気力の勝負だ。この話を水掛け論にしない為にも、アリアンヌは断固自分の意見を認めて貰おうと強気に発言し続ける。
しかしそんな2人の話し合いは案外直ぐに決着がつく事になる。
『きゃあああああああ!!』
突如、女性の叫び声が屋敷内にこだまする。
「なに!?」
「これは、食堂の方からか!」
慌てて部屋を出て薄暗い廊下を走り食堂に向かうアリアンヌとユーリ。そして叫び声の元となった食堂の扉の前では、蝋燭を持ちながら腰を抜かしているシータの姿が。
「どうしたの!?」
「あ……あれ」
アリアンヌが駆け寄り声を掛けると、シータは震える指で食堂の中を指さす。もしかして侵入者が入り込んだのか? アリアンヌが確認しようと中を覗くが明かりを灯してないので良く見えない。
「アリアンヌ、君はここにいなさい。私が見てくる」
「ええ、気を付けて」
ユーリはシータの持つ蝋燭を受け取り、警戒しながら中に入って行く。緊張が汗となってアリアンヌの頬を伝う。
「どう? 誰かいた?」
「……ああ、いるな」
やはりかとアリアンヌは直ぐに魔法を撃てるように身構える。
「だ、誰がいたの?」
「そうだな、私の目がおかしくないのであれば……娘がいる」
「はっ?」
ユーリの言葉で食堂の中に入ってみると、確かにリディがいた。しかし何というか……ものすごくホラーだ。
リディは真っ暗な食堂の中、椅子に座り前のテーブルの上にぬいぐるみを置き「兄さん、兄さん」とブツブツと呟いているのだ。その虚ろな瞳で。
そんなリディに笑みも忘れて声を掛けるアリアンヌ。
「リ、リディちゃん? こんな時間に何しているの?」
するとリディは顔を上げその吸い込まれそうな暗い瞳でアリアンヌに微笑む。
「ああ、おかあさま。おはようございます。今ですか? お話ししていたのですよ。ほら? おかあさまですよ……ああ、そうですね。散歩に行きたいのですね? おかあさま少し外に出てきますね」
「リディちゃん? 今はまだ朝じゃないし、知らないと思うけどぬいぐるみに散歩は必要ないのよ?」
アリアンヌが恐る恐る言うと、リディは「あ~」と納得したような声を上げた後、ぬいぐるみをアリアンヌの前に出す。
「ぬいぐるみじゃないですよ? これはジル兄さんです。ねぇ? に・い・さ・ん?」
この時、この場にいるアリアンヌ、ユーリ、シータはそんなリディの様子に叫んでしまう。
「「「怖すぎるだろ!!」」」
医者を呼ぶ事が決定した出来事だった。
*****
後日、早速医者をブランシュ家に招き、リディを診断して貰う。
「はい、口を空けて~」
「……」
対面に座るその優しそうな初老の医者の言う事を無言で聞くリディとそれを心配そうに見守るアリアンヌとユーリ。
ひとしきり作業を終えた医者は腕を組み、難しそうな声を出す。
「ふ~む。特に異常は見て取れない、むしろ健康そのものに見える。となるとやはり領公殿が言うように心の病ですね」
医者の申告にアリアンヌが泣きそうな顔で言う。
「どうにかなりませんか? このままじゃこの娘、朝も夜も分からなくなっちゃって、ぬいぐるみと散歩に行きながら食器を食べる様になってしまうんです!?」
「アリアンヌ、言っている事がめちゃくちゃだ。少し落ち着きなさい」
「でも!! ……やっぱりジルを連れ戻した方がいいのかしら」
互いに難しい顔をするアリアンヌとユーリ。しかし目の前の医者はそんな2人に優しく笑いかける。
「な~に心配しないで下さい。私はこう見えても超1流の医者だと自負しております。心の病だって何度も治してきましたよ」
その言葉に顔を明るくするアリアンヌ。
「ほ、本当ですか!?」
「ええ。ただ……リディ様もご両親の前では言い辛い事もあるでしょうし……」
医者がアリアンヌとユーリに申し訳なさそうに顔を向ける。その言葉と顔が自分達の退出を意味している事を察したのかユーリはアリアンヌを連れて部屋から出ていく。
「出よう、アリアンヌ」
「え! ええ……先生、宜しくお願いしますね?」
医者はアリアンヌ達に力強く言う。
「はい。リディ様の悩みをスッキリ解消させてみせますよ!」
パタンと扉が閉められ部屋には医者とリディの2人だけとなった。
「ふぅ、領家の家は気を遣うなぁ……おっと今のは失言でした。忘れて下さい」
医者が笑いながらおどけた仕草を見せるが、リディは無反応だ。そんなリディに一瞬困ったようにするが、直ぐに優しい笑みで話し始める。
「それじゃリディ様。あなたの話を聞かせて貰えませんか?」
「……話?」
「ええ、何でも良いですよ? 好きな食べ物とか、友人の事とか……お兄さんの事とかね」
最後の兄と言うワードにピクッと反応したリディを見て、笑みを深くする医者。恐らくもう既にカウンセリングは始まっていて、リディは見事に医者の話術に足を絡ませられてしまったのだろう。医者のその自信に満ちた顔がもうこの勝負は貰ったと言っているように見える。
しかし……残念な事にリディはちょっと普通ではなかった。
「分かりました、話します……ですが先生?」
「ん? 何だい?」
リディの赤暗い視線が医者を捕らえる。その異様な瞳に「うっ」と冷や汗を垂らしてしまう医者。
「まずは……先生の話を、聞かせて頂けませんか?」
リディの顔が横に傾げられる……。
*****
「……遅い」
リディと医者を部屋に残してから既に30分近くが過ぎた。部屋の前で待機しているアリアンヌは未だに部屋から出てこない2人に気が気ではなく、そわそわと辺りを歩き回っていた。
「アリアンヌ、いい加減落ち着きなさい」
「だっていくらなんでも遅すぎるんだもん!!」
「だもんじゃない。君が心配した所で事態が好転する訳ではない……それにあの医者は本物だ、目を見れば1目でわかる。任せておけば大丈夫さ」
ユーリがアリアンヌの肩に手を置き、微笑む。アリアンヌは先ほどの医者の力強い言葉を思い出す。
『はい。リディ様の悩みをスッキリ解消させてみせますよ!』
少し気が楽になり、ユーリに笑いかけるアリアンヌ。
「そ、そうよね。あの先生なら大丈夫よね」
「ああ、そうだ……しかしな?」
「ん?」
ユーリが少しだけ口ごもりながら
「その……少しだけ覗くのはアリだと思うのだが」
と言う。
冷静そうに見えてユーリもかなりリディの事が心配なのであろう。2人で1度頷き合うと扉の前に移動する。
そしてゆっくりと扉を少し開けて中を覗く。そこにはアリアンヌとユーリの思いもよらなかった光景が飛び込んでくる。何とそこには……。
「私はねっ!! 医者になれるような清廉潔白な精神なんて全く持ち合わせていないんですよぉ!! ただただ思ったんです!! 医者になればいっぱいおっぱいだって!!」
「あなたは最低ですね」
「そうなんです! 私は最低な人間なんですよ!! わあああああん!!」
先程の強い言葉を残してくれた医者の面影は綺麗に消え去り、ただ泣きじゃくり床を転がりまわる初老の男、そしてその前の椅子に足を組み座っているリディの姿があった。
余りの衝撃に白目を向いてしまうアリアンヌとユーリ。今2人の心は見事に同調している……どういう状況!? と。
リディが大人びた声色で目の前の医者だった人に言葉を発する。
「そう、あなたは最低です。ですがそれで良いではありませんか? だって人間とは完全じゃない生き物なのですから……欲を恥じてはいけません。それもあなたを人間たらしめる所以なのですから」
「神様……はい、ありがとうございます!! 私は間違っていなかったのですね!! お陰でスッキリしました!!」
リディの言葉に涙を拭き、先程より逞しい顔をする医者にアリアンヌとユーリは再び思う。
――お前がスッキリしてどうする!? と。
そうして晴れやかな顔で部屋から出て来た医者はアリアンヌの体を2往復ほど見た後、にこやかに言う。
「……アリアンヌ様、どこか体に不調などありませんか――」
「「――バカ」」
「ぶべっ!!」
その瞬間、真顔のアリアンヌとユーリのビンタが料金代わりに支払われた。
*****
おしゃれなアンティーク調の家具が置かれ、全体的に黄色と桃色の色彩があしらわれた華やかなアリアンヌの自室にて、この部屋の主であるアリアンヌは穏やかそうな見た目の緑髪メイドを横に、そして目の前には明るい顔で手紙を読んでいる愛娘リディと共に紅茶を楽しんでいた。
「見て見ておかあさま! ジル兄さん王都で友達が出来たみたいですよ? ほらここの文!」
「もう何回も見たわよ~」
そう言うと優しく笑いながら紅茶に口をつけるアリアンヌ。茶葉の味と香りを堪能しつつ、アリアンヌは、先日あった事を思いだす。
医者が帰ってからも、リディは相変わらず虚ろなままで部屋の片隅で蹲りブツブツと独り言を唱えていた。実りのなかった成果にアリアンヌが落胆していると、メイドのシータが1通の手紙が届いた知らせをしてきた。
始めは無反応だったリディだがその手紙が王都にいるジルからの手紙だと知るや否や、一瞬でシータから手紙を奪い取り穴が空くように読み始めた。
『……良かったぁぁぁ。兄さん無事に学校に入学出来たみたい~』
手紙を読み終わったリディは心底安心したような笑顔で笑って見せた。今までの憂鬱そうな顔がまるで嘘のように。
それが切っ掛けでリディは完全に元の状態に戻ったのだ。あれだけやったのに兄の手紙1つで元通りなんてとユーリなどは苦笑いである。
一事はどうなるかと思ったリディの憂鬱事件だが、幕引きは案外呆気なく終わったのである。
紅茶から口を離し、息を吐くとアリアンヌは再び目の前を見る。相も変わらず兄からの手紙を宝物のように見るリディにアリアンヌは幸せそうに微笑むのであった。
「そういえばここ最近の記憶が曖昧なんだけど、アニエスは何でずっと部屋に引きこもっているのですか?」
リディの言葉にアリアンヌがにこやかに言う。
「フフフ、手紙が来ないからよ」




