四の六
お待たせいたしました。
幾度かの戦を経て、輝宗は天正十二年(1584年)に政宗へと家督を譲った。
早すぎたのかもしれない。穏やかな輝宗と違い、政宗は苛烈だ。戦の方針が変わったことに狼狽える家臣も少なくなかった。
それが顕著に出たのは家督を継いだ翌、十三年の戦だ。
のちに語られる「小手森城の撫で斬り」である。
「この痴れ者がっ!!」
義光からそのことを知らされるとは思いもしなかった。
「何故あのような所業を誇るのじゃ!?」
怒る義を宥めようとする者は輝宗以外いない。
「何故、と仰られても。私は伯父上から援軍をいただきましたのでその礼の書簡を出しただけですが」
その中で起きた出来事を書いただけ、そうしれっと答えてきた。
撫で斬り。それはその地にいた武将どころか住民に至るまで斬りふすということだ。戦に関係のない者まで被害にあう。
「様々な話を総括するに、手っ取り早い攻略法だと思ったのです。実際、西方ではよく行われているとのこと」
「だからと言って、この東国にて! それを行う莫迦はどこにおる!!」
「ここにおりますれば」
「戯け!!」
どうしてこうも逆撫ですることばかりを言うのか。
「して、政宗よ。やった理由は教えてもらえるのであろうな」
「はい」
ただ怒る義とは違い、輝宗は政宗を見据えていた。
「反旗を翻させないためです。今までこのあたりで行われなかったこの手法。敢えて今やれば、近隣周辺は我が伊達領へ戦を仕掛けてこないと思ったのです」
「……一理あるな」
だが、ほとんどが血縁者というこの周辺でそれに対する反発は起きないのか、そこを義は危惧した。
「それを言ってしまえば、縁者同士で戦をしているようなものだな」
義の言葉を聞いた輝宗がそう苦笑していた。
そして、この時の戦に恐れをなしたという、畠山義継が和議を取り持ってもらいたいと輝宗へと話を寄越した。
次回輝宗の死~人取り橋の戦いあたりまで