我が命に変えてでも
朝目覚めると見慣れない風景が広がっていた。
まず、小さい頃天井のシミが人の顔に見えて、泣きながら兄二人の布団に潜り込んだ苦い思い出のあるそれが見当たらない。代わりに見えたのは木製の柔らかい色をした天井。もちろん憎きシミの姿は見えない。
次にいつも抱きしめて眠るテディベアのエリザベスがいない。ちなみにこれもシミを怖がり泣きわめくわたしを見かねて当時小学校高学年だった兄二人がお小遣いを出し合い買ってくれたテディベアだ。首元に赤いリボンが結ばれた、抱きしめるにはちょうどいい大きさのエリザベスのおかげで幼いわたしは安眠・快眠を取り戻した。それからというもの抱き枕的な役割を果たしてきたエリザベスが隣にいないのだ。自慢じゃないが寝相はいい。よってエリザベスが布団から消えることはほとんどないけれど腕にエリザベスの感覚はない。落ちたのかな、と手だけを布団から出してもぞもぞと探るけど落ちている様子もない。ていうか、指先が床に触れない。おかしいな。自室にベッドを置く広さはないからいつも布団を敷いて寝ているのに。
少し考えて思いついた。ああ、そうかわたしベッドに寝てるんだ。ベッドからじゃわたしの短い手が床に届かないのも仕方ない……、って。
「……はれ?」
そこでようやく明確な疑問を覚えた。
どうしてわたしはベッドに寝ているんだろうか。ていうか、ここはどこだろう。
子どもは二人と決めていた両親は何を思ったのか次から次へとぽこぽこと四人も生んだせいでわたしと弟皐月には自室というものがない。結婚当初、子どもは二人欲しいよね、と話し合った両親は新築の我が家を建てるとき子ども部屋を二つしかつくらなかったのだ。しかしわたしができ、皐月ができた。すでに自室を獲得していた兄たちを追い出すわけにもいかずわたしと皐月は階段下の物置に押し込められた。なんだか某魔法使いみたいだが、残念ながら階段下宛てに魔法学校から手紙が届いたことはない。それはともかく、高校に上がった今もわたしは皐月と階段下の物置に布団を敷いて狭苦しく寝ている。つまりベッドなんて高価なものに寝たのは修学旅行のホテルでくらいしか経験がない。けれど今わたしが寝ているものは紛れもなくベッドだ。ホテルのベッドより少し硬くて狭いけどベッドであることに変わりはない。
「おはよう、カズ」
ふむ、と唸るわたしの耳に届いたのは爽やかな朝の挨拶。これまた聞いたことのない声だった。
棗はもっと声が低いし、穂高はもっと甘ったるいし、皐月はおはようより先に抱きついてくる。幼馴染(男)の声の低さはこんな感じだったが、奴の口からおはようの言葉を聞いたことは、残念ながらない。奴は毎朝「寝癖を直せ、それでも女か」で一日を始める。それが時折「今日はちゃんとしてるんだな、珍しく」に変わるがどちらにせよ朝の挨拶ではない。わたしの周りにいる男の声といったらこんなものだが記憶のどれにも当てはまらない声に視線を向ければ、銀髪赤眼の美少年。朝から目がチカチカするほど美しいオーラを放っている。
「…………あぁ!」
わたしが突然大声を上げたからかラディがビクリと肩を上げるのが見えたけど気にしない。
そうだ! あたし、異世界トリップしたんだった! よく忘れてたな、そんなすごいこと!
そういえばベッドもわたしが床に寝ると言い張ったのに、女の子を床に寝かせるなんて! という紳士なラディの一言によりラディが床、わたしがベッドという恐れ多い配置で寝た。キッチンと人一人が寝るのがやっとの大きさのベッドと丸い小さなテーブルと椅子が一組でやっとの広さしかないこの部屋で二人とも床で寝ようという結論に達するにはさすがにスペースが狭かった。
いや、「じゃあ同じベッドで寝よう!」っていうありがちシチュエーションを考えなかったわけじゃないよ? でも二人で寝るにはどう考えたってこのベッドは小さかった。あのありがちシチュエーションは人が二人寝られることを前提に行われているんだね! また一つ賢くなった。
少しの間言い争ったがあまりにラディが頑固だったため、わたしが折れた。昨日は諦めたけど今日は絶対ラディにベッドで寝てもらおうと思う。大丈夫、わたしどこでも寝られる自信はあるよ。なんてったって電車の中で眠りこけて、終着駅まで目覚めなかった過去を持つ女だからね。あまりに帰って来ないわたしを心配した棗と穂高が警察に届けようとしたところでわたしから連絡がいったらしい。頼むから迷惑を掛けてくれるなと警察に届けようとする兄二人を抑えていた幼馴染(男)に懇願されたことは記憶に新しい。
「よく眠れた?」
にこやかに笑む美少年に大きく頷いた。
「そりゃもちろん! ぐっすりと」
こんな状況でぐーすか寝られた自分の図太さにビックリだよ。でも仕方ないよね。久しぶりのベッドだもん! 手足を伸ばしても誰にもぶつからない、解放感! 素晴らしかったね、うん。
「それは良かった。朝飯はもう少し待ってくれる? すぐに、」
ラディがみなまで言う前に勢いよく小屋の扉が開いた。
「ラディッシュさまっ! カディアさまがっ、…………何者です、その娘」
昨日あたしが苦労して開けた扉をいとも簡単に開けて駆け込んできたのはこれまた男前な人だった。
灰色が混じったような深緑の髪はラディとは正反対によく手入れされていて、耳が隠れる程度の長さ。サラサラしていてキューティクルもバッチリ。枝毛に悩んだこととかなさそう。少しつり目気味な瞳は髪よりも少し黄みがかった緑色だ。きゅとつり上がった綺麗な目元の泣きボクロが端正な顔に色気を添える。じっと見つめられるだけで世の女性を虜にしちゃいそうな色男だけどわたしには効果ゼロ。なぜなら、人一人殺してきたところです! みたいな目で睨まれているから。なぜ初対面からそんな蔑んだ視線にさらされなきゃならないんだ。
「この子、〈来訪者〉なんだって」
「……ラディッシュさま、自分の立場を分かっていらっしゃいますか。そのように簡単に他人をここに入れないでください」
ラディに対するお小言と共に、チャキリと首元に殺気。おかしいな、首に刃物を向けられるなんてそうそうあることじゃないのにデジャヴが……。
色男さんは横目でラディを見ながらわたしから剣を逸らさない。だいたいなんでここの人たち、不審者と見なすといきなり剣を向けてくるんだろう。刃物は人に向けちゃいけませんって習わなかったのか? ハサミだってちゃんと刃を自分の方に向けて人に渡すんだよ。
「なんでもかんでもすぐに信じるのがあなたさまの悪いところです。毎回言っているでしょう。もっと警戒を覚えてください」
「おまえか! おまえが犯人か! 人を信用することの何が悪いって言うんだ、こんちくしょう!」
発狂するあたしに剣先が首に近づくけど気にしない。それどころじゃないのだ。
ちくしょう、コイツの入れ知恵か! 昨日のラディのクールキャラとやたら疑り深かった目!! コイツのせいか! 余計なこと教えんなよ! いいじゃんか、素直で! いいじゃんか、爽やかな美少年で! わたしが人間であることを伝えるのにどれだけ苦労したと思ってんだ!
「……魔かと思えば。ただの馬鹿ですか」
叫ぶあたしに向けられるのは馬鹿にしきった瞳。物理的にも心理的にも見下ろされている気がする。いや、この人背高いんだよ。ラディも高いなーとは思ったけどラディよりまだ高いよ。百九十センチはあるんじゃないだろうか。足長いなー。
……いかん、こいつの容姿を褒めてる場合じゃなかった!
「どういう意味でしょうか!」
魔? やっぱりあたし、人間かどうかを怪しまれてるわけ? ……じゃなかった。
馬鹿!? 馬鹿だって!? なんだと、否定できないじゃないか!
「どういう意味もなにもそのままの意味ですが。あなたが馬鹿だと言っているのです。伝わりにくかったなら言い方を変えましょうか? あなたは馬鹿です」
なにこいつ、なにこいつ! 顔はいいけど性格最悪! 男は顔じゃないぞ、中身だぞ! ラディを見習え、この爽やかさを!
「魔の色を持っていますし、魔かと思いましたが違うようです。魔ならこんな敵意なく向かってきません。奴らは理性なんてありませんからね。殺意を隠すことなく向ってきます」
「疑いが晴れてなによりです。で、どうしてまだわたしの命は危険に晒されているんでしょうか」
内心怒り狂いながらもわたしは冷静に対処した。大人なわたしに感謝するがいい。……だからちょーっとその剣先をわたしから逸らしてもらってもいいですかね?
首から逸れない剣先。ちょっと動いたらグサッ! といっちゃいそうで怖い。嫌だ、剣で刺されてご臨終だけは嫌だ! ……あれ、これ昨日も同じようなこと思ったな。思えば思うほど短い間にいろんな経験をしてるぞ、わたし。
「ターグルの使い魔という可能性もありますから。使い魔ならそれなりに知能も与えられますし、あなたが使い魔でない証拠はありません」
なるほど、言ってることの半分も意味が分からないが一つだけ伝わったことがある。わたしの頭の中身は『それなり』だと? 余計なお世話じゃ、ボケェ!
「大丈夫だって、シュウラ。カズは安全だよ。オレの名前を聞いても反応がなかったから」
「名前? まさかとは思いますが、ラディッシュさま。この者に真名を?」
ラディくん、ラディくん。あまりこの人を刺激しないでもらえるかな。できれば宥める方向で接してもらえないかな。青筋浮かんでるんだけど。怒りで手が震えてわたしの首に剣が刺さってしまいそうなんだけど!?
「うん。自己紹介は基本だろう?」
そんな思いも虚しくラディはのほほんと答えている。
うん、自己紹介は大事だけども! 今言わなくてもいいじゃん! なんか余計に怒り出したじゃん!
「あなたという人は……っ! 真名を教えるとは何をお考えですか! 使い魔に真名を知られれば魂を捕えられると何度もっ、「捕えられていないから大丈夫。カズは魔じゃないし、使い魔でもないよ」
「そういう問題ではないでしょう!」
悲鳴のような叫び声を上げるけど、色男さんはラディの言葉に渋々ながら納得したらしい。ぶつくさ言いながらも剣を腰に戻してくれる。
「魔でもターグルの使い魔でもな<来訪者>だと?」
「らしいよ。異世界から来たんだって」
色男さんはいせかい、と初めて聞く単語でもあるかのようにその言葉を口の中で呟いて顔を顰めた。うん、納得いかないのはよく分かるよ。普通信じられないよね。コロッと信じちゃうラディの方がおかしいよね。でもお願いだからまた剣に手を伸ばすのはやめてもらえるでしょうか!
「……魔の色を持っているようですが」
「魔の色じゃないっつーの! 黒の何が悪いわけ!?」
昨日から魔の色、魔の色って! なんて失礼な!! こんなことなら黒髪フェチな兄二人も無視して染めればよかった! 幼馴染(女)みたいなふわふわした茶髪に憧れてたのに「黒髪はロマンだ!」とか訳の分からないこという変態兄二人のせいで染められなかったんだよ!
「ラディッシュさま、この娘どうするつもりですか」
「え? カズは行くとこもないし、ここで一緒に暮らせばいいかと思ってるけど?」
こてん、と首を傾げてラディは呑気なもの。色男さんがどうしてこんなに嘆いているのか一ミリも理解していないらしい。能天気というかなんというか……。大物だね、この子。
「またあなたという人は……っ!」
頭を抱えるこの男、どんなに色気があろうと関係ない! あたしのうはうは同棲生活……げふんげふん! あたしの安全な異世界ライフを邪魔するコイツはあたしの天敵として認識された。