世界なんて壊してしまえ
ちょっと病み気味です。
夢を、見た。悲しい夢を。まるで“誰か”の記憶のような。鮮明で残酷な夢。
人がたくさん集まった広場。高くてどこまでも青い空。海が近いのか強く吹き付ける風は時折潮の香りを交えた。鳥は家々の屋根に止まりじっと息を潜め、犬や猫たちはその不穏な空気に低く喉の奥を鳴らす。
人はみな同じ方向を向いて口々に叫ぶ。どの顔も興奮と安心に彩られ、見ていて吐き気がするほど醜い。
……ざわめきと視線の先、一際高い段の上聳えるようにあるのは断頭台。そこに両手を後ろ手に縛られて足首には重い枷を付けた人が立っている。
星の如く煌めく銀色の髪に、燃えるような赤い瞳。柔くゆるめくその瞳はいつも甘やかで、形のいい唇は穏やかな声を紡ぐ。普段は無表情か、気難しそうに眉を寄せているけれど時折見せる小さな笑みはとても優しくて、わたしを呼ぶ低い声はいつだってあたたかかった。
見ずとも分かる愛しい人の顔には幾多の傷が付き、彼の利き腕である左手には魔術が使えないよう魔力封じの魔法陣が刻まれていた。
わたしはそれを、ただ遠くから見ている。
――やめてっ……!
どんなに叫んでも群衆のざわめきにかき消されて。泣きたくなるほど苦しくて、発狂しそうなほど悲しいのに、それは誰にも届かない。いつもどんなときでもどんな小さな呟きでも聞き取ってくれた彼にすら。あたしの声は届かない。
――やめてっ! 彼を殺さないで……っ!
それでもわたしは叫ぶ。殺せと叫ぶ群衆の中、わたしだけが殺さないでと泣き叫ぶ。
風が、吹いた。
断頭台の上、銀色の髪が揺れる。
どんなに罵声を浴びせられても決して俯かない彼は赤く燃える瞳を広場に彷徨わせて、ひたとわたしで止めた。
顔も分からないほど遠く離れているのに、なぜか彼の顔はよく見えた。その美しい顔に浮かぶ表情も瞳に潜む激情も分かるほどに。
涙に濡れたわたしを見て、彼は驚いたように赤い瞳を見開いた。泣くな、とその唇が動いた気がした。
泣くな、そなたが泣くと我はどうしたらいいか分からぬ。
あぁ、そうだ途方にくれた顔であの人は言っていた。頼むから泣いてくれるな、と。普段あまり表情を変えないくせにそのときばかりは困ったように眉を下げておろおろするから、おもしろくて笑ってしまったんだっけ。それに彼はほっとしたように目元を緩めていた。
しばらく彼はそのときと同じように眉を下げ困った顔をしていたが、ぐっとわたしが涙を堪えるのを見て口元を緩めた。それから目をそっと細めて。彼は無音の言葉を紡ぐ。
――我の魂はいつまでもそなたと共に。
それは別れを示す言葉だった。
嫌! 嫌よ! 魂だけじゃ嫌。あなたの温もりが隣にないと嫌。あなたという存在が隣にいないと嫌。
そう首を振るのに、彼は口元に笑みを浮かべて瞳を閉じてしまった。それはまるで彼が覚悟を決めたことを示すようで。嫌だ、やめてと叫ぶことしかできないわたしは遠くから届きもしない手を伸ばす。そうすることで彼が戻って来ると信じているかのように。
――大丈夫だと言ったじゃない!
あの日、あの場所で。引き離されるその瞬間、彼はそう言って笑った。「我は死なぬ、だから笑え」と彼は言った。嫌だと幼い子供のように泣き喚くわたしに彼は仕方のない子だというかのように愛しく笑った。
嘘は嫌いだと彼が言うから。大丈夫だと微笑むから。今日この日までわたしは生きてこれたのに。
あなたがいないと息すらできないのだと気付くのは遅すぎた。
――嫌だっ、ねぇっ、やめてよっ! 殺さないでっ……! わたしたちをそっとしておいてよ……
身が千切れるように苦しかった。心が引き裂かれるように痛かった。彼の存在で世界が壊れるというのなら、そんな世界壊れてしまえばいいと思った。わたしが欲しいのはあの平凡で緩やかな日々だけだ。こんな世界はいらない。滅びたってかまわない。ただ彼が隣にいてくれればそれで。それだけで幸せなのに。
わたしたちはただ穏やかに暮らしていただけ。貧しくはあったけれど、それでも幸せだった。ただ毎日を必死に生きていただけなのに。悲しいほど優しい彼が世界の滅亡を望むはずがないのに。
何も知らない騎士団は彼を連れて行ってしまった。反撃もできぬあの人に禁術を使い服従させ、容赦なく縛りあげて。蔑むような目をして「ついてこい」と言った。「巫女姫を隷属させて気分が良かったか、外道」と。同じ口でこうも言った。「巫女姫さま、もう心配することはございません。災厄は我らが捕えました」と。
外道はおまえらだと叫びたかった。何もしていない彼にどうしてそんなことができるのだ、と怒り狂いたかった。けれど一番そうしたいはずの、そうする権利があって然るべき彼が何も言わないから。わたしは口を閉じるしかなかった。彼は人が傷つくことを望んでいないから。
襲い来る魔への恐怖。それから逃れるために人はみな手っ取り早い安穏を望む。彼を災厄だと信じて疑わない。それが憎くて憎くてしかたなかった。
群衆のざわめきが高まる。
白い騎士服を着た兵士が彼に何かを言う。兵士の着る軍服の神聖とされる白色がひどく穢い色に見えた。
囁かれた言葉に彼は小さく頷いて短い言葉を発した。
それはきっと承諾の言葉。呪詛でも懇願でもない、わたしを置いて彼は殺されることを望むのだ。彼を排除しようと動くこの汚れきった世界のために。
――我は死なぬ。嘘は嫌いだと言ったろう? 我は死なぬ。おまえを一人になどせぬ。だから、笑え。またすぐに戻って来る。泣くことはないだろう?
蘇るのはそんな言葉。苦しくて痛くて悲しくて、とても残酷な最初で最後の偽り。
わたしを一人にしないと言った彼は、けれどそのまま、
――やめてっ…………!
ハッと目が覚めた。喉がカラカラに渇いている。
「カズ? 大丈夫?」
心配そうにあたしを覗き込むのは綺麗な紅。あの日と同じ。奥底に激情を秘めた強い瞳だ。
「……さーが、」
殺されてしまった愛しいヒト。誰よりあたしを愛してくれた銀色の魔法使い。
『我の魂はいつでもそなたと共に』
死んでも一緒だと約束したヒト。何度死に、何度生まれ変わっても、魂はいつまでも共に。
ずくり、と胸が疼いた。どくり、と血が滾った。感じたことのないほど凶暴で、抗いがたいほど悲痛な高鳴りだった。
染めろ、染めろ、染めろ! 白を赤へ、それから黒へ。女神すら穢し、世界を染め上げろ! 愛しいあの人を悪と蔑んだ世界など、永遠に光に焦がれ朽ち果てればいい。
殺せ、殺せ、殺してしまえ! 力のままに殺戮を続けろ。女神すら殺し、世界を壊せ! 愛しいあの人を奪った世界など、存在する価値もない。
頭の奥で誰かが泣き叫んでいた。その衝動はなぜかとても魅惑的に思えた。抗う必要などない。力に身を任せ、ただ衝動のままに破壊する。理性のない獣のような本能的な命令。そして、その奥に潜む何をもってしても埋められない喪失感。
けれどまだ残った理性が言った。それはなんの解決にもならない。力による虚無への回帰は何も生みはしないと。
「カズ? どうしたの? どこか痛い?」
紅が瞬く。銀色が揺れた。彼の、愛しい彼の姿が理性を壊す。わたしの中の獣が唸った。
喉の奥から叫びが迸る。
「返せっ!」
「…………カズ?」
「返せ、返せ、返せええぇっ! 悪いのはわたしか? 災厄はサーガか? 奴らの行いは全て許されることなのか!」
捕え、嘲り、奪い、殺した。女神の名の下に失われた命は顧みられず、忘れられ。それが正義という偽善であっても、仮初めの安心であっても、女神は白に愛を捧ぐ。なんと狂った世界か。全ては女神の恋情一つで動くのだ。全ては女神のあの男に対する愛一つで動くのだ。そのための犠牲を犠牲とも思わない。なんと狂った世界か! なんと不純な世界か!
目の前の白い首に手を伸ばした。ひゅっと鋭く息を呑む音がする。気にせず、手に力を込めた。
「容赦などしない。奴らに邪魔はさせない。何が悪だ、何が禍≪まが≫だ! 全て奴らのことじゃないか! 奴らに殺されるくらいなら、わたしがっ! わたしがこの手であの人を…………っ!」
涙で視界が滲んだ。最期の彼の姿が瞼の裏で揺れた。
ただ穏やかに生きていただけだった。ただ密やかに生きていただけだった。
途方もない魔力を抱える彼は誰も傷つけぬよう、森の奥深く、自分の小さな家から出てくることをしなかった。わたしに触れることすら彼は恐れているようだった。彼は優しいが故に臆病だったのだ。彼は誰かが自分のせいで傷つくことをひどく恐れていたから。
「ねえ、サーガ」
ひくり、と目の前の喉がひきつった。ゆっくりと力を抜き、赤くなってしまった喉を指先で撫でる。けほと咳き込む彼を慈しむように見つめた。
「ねえ、サーガ。あなたが本当に悪だったなら、わたしがあなたを殺していたわ。あなたが世界の崩壊を望む災厄だったなら、わたしがあなたを殺していたわ。だってそれがわたしの役割だったんだもの。だってそれがわたしの唯一の存在意義だったんだもの。でもサーガ、あなたを殺す必要はなかった、そうでしょう?」
わたしがこの世に生を受けたその日から決まっていた役目。それ以外にわたしの存在する意味などなかった。でもそれすら投げ捨ててもいいと思えるくらいあなたを愛していたの。本当よ。わたしの全てを賭けて誓える。あなたを愛してる。この命全てを賭けて。
ねえ、サーガ。悪はあなたじゃなくて。
それはきっと、巫女姫たるわたし《・・・》だったと思うの。
「ラディッシュさま!」
キラリと銀が走って喉元に殺気を感じる。
「ねえ、サーガ」
構わず、手を伸ばす。その手を彼は握ってくれた。あたたかい手。人となんら変わらない。あたたかくて大きな手。
あのときとは違う。手を伸ばせば、あなたに届く。
嗚呼、なんて。
嗚呼、なんて幸せなんだろう。あなたがいるだけでどうしてこんなにも世界は明るいのだろう。
ねえ、サーガ。何度だって言うわ。
「……あいしてる」
あいしてる。あいしてる。あいしてる。あいしてるのよ、さーが。なにものにもかえられぬほど。ただひたすらに。




