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眠れる森の美女。それが最初に俺の脳裏に浮かんだ言葉だ。こいつ、女じゃないか。それもとびきりの美女だ。光を湛えた長い金髪、長いまつげ、思わずキスをしたくなるような薄いピンク色の唇。フリルがたくさんついた絹のブラウスに黒い絹のズボン。いや、いけない。いくら美しくてもこいつはヴァンパイアだ。俺は多少躊躇いを感じながらもそいつの胸に十字架を置き、木の杭の先端を強く押し付けた。
え? こいつ、胸がない。ということはこいつは男か。だったら、躊躇うことなんかない。俺はしっかりと杭を固定すると、ハンマーを振り上げた。
「う……ん?」
まさに、振り下ろそうとした瞬間、男が呻いてうっすらと目を開けた。俺は迷った。まだ目を覚ましたばかりだ。このまま思い切って殺してしまえば、二十万ドルは俺のものだ。だが、男はもうしっかりと目を開けていた。ペールブルーの瞳がまっすぐに俺を見つめている。それまで男を見てきれいだと思ったことなんて一度もない。俺はゲイじゃないし、男に興味なんてない。だが、その時、俺はその男の顔を心底、美しいと思った。
男はずいぶん長いこと眠っていたせいか、懸命に瞬きをして顔を顰め身体を起こそうと手を棺の縁にかけた。
「お前……誰だ。俺に何をしようとしてるんだ」
俺は、急いで杭を男の胸から離して、ハンマーと一緒に背中に隠した。
「いや……その」
男はゆっくりと身体を起こした。胸に置かれた十字架を掴むと邪魔そうに払いのけ、立ち上がろうとして苦しそうに顔を歪めた。
「く……! あ、足が動かない」
三十年も棺に横たわっていたものだから、筋肉が衰えてしまったのだろう。男は必死で足をさすりながら足を動かそうとしている。しめた。今、こいつを斬り倒して杭を打ち込めばやっつけられるかもしれない。足元の鉈にそっと手を伸ばそうとした時、男が俺を見た。
「その、後ろに隠した杭はなんだ? お前、ひょっとしてヴァンパイア・ハンターか」
「ああ、そうだ」
正確にはちょっと違うが、ここで俄かハンターだとは言い辛い。
「それだったら、残念だったな。俺はヴァンパイアじゃない。人間だ」
「へ?」
思わずお間抜けな返事をしてしまった。この期に及んで嘘をつくこいつはいったい……。
「ははっ、笑わせるなよ。普通の人間が三十年も棺で眠っていられるわけないだろう。万が一眠っていたとしても、とっくに爺さんになってるはずだろ?」
「さん……じゅうねん!?」
男は目を大きく見開いて、信じられないといった顔をした。ペールブルーの瞳がカンテラの灯を映して怪しく揺らめいて見える。
「馬鹿な! だって、だって俺は……!」
男は顔を顰め、頭を抱え込んだ。
「分からない……俺はどうして?」
男は目にうっすらと涙を浮かべている。
「お前、名前は?」
「名前? ええと……畜生、思い出せない!」
記憶喪失? 三十年の月日が男の記憶を消してしまったのだろうか。いや、そういう芝居をして俺を油断させてるのかもしれない。だが、男は俺をまったく無視して遠くを見るような目をしている。何かを必死で思い出そうとしているようだった。
俺は伸ばしかけた手をそっと引っ込めた。こいつの記憶喪失は本物かもしれない。ヴァンパイアは長い眠りについていたのだから、喉が乾ききっているはずだ。こんな芝居を打つ暇があったら、まず俺の首筋に齧り付いてくるだろう。
こいつを倒そうという気持ちが次第に失せていった。殺せば騙まし討ちのようなもので、きっと罪悪感に襲われる。しばらくこいつと行動を共にして、こいつがヴァンパイアであることが自覚できた後だって遅くはない。その時はちょっと危険かもしれないが、女のような奴だし、たいしてパワーはなさそうだ。楽に倒せるに違いない。
「おい、お前……」
そう言いかけた時、天井にぶらさがっていた大きな蝙蝠の飾り物が突然翼を広げた。ばさばさと羽ばたいた次の瞬間、蝙蝠は大きく口を開けて、奴に襲い掛かったのだ。
「うわ!」
男は反射的に顔を庇った。だが蝙蝠は男の右耳をあっという間に齧りとってしまった。
男が悲鳴をあげた。蝙蝠は右耳を咥えたまま、出口に向かって飛んでいった。
俺は何故かこいつをこのまま行かせてはならないような気がした。咄嗟に石を拾って蝙蝠に投げつけると、それは見事に蝙蝠の頭に命中した。落ちてきた蝙蝠の頭を踏んで押さえ、鉈で首を断ち切った。蝙蝠の身体はびくびくと震えていたが、やがて動かなくなった。
男は耳を押さえ、痛みに身体を震わせている。
「これは……この蝙蝠はいったい?」
「う~ん、ひょっとしたらこいつはお前が目を覚ましたことを誰かに知らせに行く伝令なのかもしれない。だから、証拠として耳を齧り取ったんだ」
しかし、見張りの蝙蝠まで置くなんてこいつを封印したのはいったい何者なんだ?
耳から流れ出る血が男の白い服に滴り落ちている。
俺はリュックから薄っぺらいタオルを取り出して、包帯代わりに男の頭に結んでやった。
男は、俺を見てほんの少し笑みを浮かべた。
「ありがとう」
「いや、……当然のことをしただけさ」
いけない。このままだとこいつに情が移ってしまう。いくら害がなさそうに見えてもこいつはヴァンパイア。油断は大敵だ。これからどうしようか。そう思ったとき、頭の上のほうから微かに話し声が聞こえてきた。
「見つかったか?」
「いや、まだだ。まったく、ヴァンパイア一匹探すのに、これほど手間取るとは思わなかったぜ」
耳を押さえながら、男はふっと呟いた。
「……いっぴき? ヴァンパイア? 冗談じゃない。俺は人間だ! 出て行って誤解を解かなくちゃ」
男は、必死で膝を持ち上げ両手を突っ張って、どうにか立ち上がった。だが、バランスを崩して棺の横に転がり落ちてしまった。
「く……そ。いったい誰が俺をこんなところへ!」
それは俺のほうが知りたい。とりあえず、手を伸ばして男を立ち上がらせた。だが、男は壁に手をついてずるずると座り込んでしまった。
「お前、まだ歩くのは無理そうだ。外に出るのはもう少し休んでからにしろよ」
「腹減った」
「はあ?」
「急に腹が減ってきた。お前、なにか食いもん持ってないか?」
こ、こいつ、結構ずうずうしい奴だな。
「持っていない。食いたかったら、俺と一緒に町に来いよ」
一瞬の沈黙。気が付くと男は俺の首筋をじっと睨んでいる。俺はGジャンのポケットにそっと手を入れ、ナイフを握った。
「それ、流行ってるのか?」
「え?」
「ネックレスだよ。それ、銀だろう?」
なんだ。俺のネックレスを見てたのか。緊張して損した。
「銀だよ。ただ、これは単なる俺の好みで流行ってるわけじゃないけどね」
「今、何年だ?」
「1998年」
「98年」
男はそれっきり黙りこんでしまった。両手でしっかりと膝を抱え込んで、目を瞑っている。俺は階段を登って外を眺めた。まだ日は高い。もう少し暗くなったら、こいつを連れ出そう。
「そういえば、俺はまだ名乗ってなかったな。俺はデビッド・ローネンバーグ。有名な映画監督とは何の関係もないけどね。デビィって呼んでくれ。」
「映画監督? 聞いたことないな」
そうか。三十年前じゃまだクローネンバーグは知られてなかったよな。
「お前の名はどうしようか?」
「俺? さあ。ジョンでいいよ。ジョン・スミス」
「まあ、いいけれど。それじゃ誰も本名だと思わないよな」
「確かにね」
ジョン(と今から呼ぶことにする)は、ふっと笑みを浮かべた。俺はオーロラ姫のほうが似合ってると言おうとしたが止めておいた。
二時間後、俺はジョンの頭に巻いたタオルをそっと外してみた。やっぱり思ったとおりだ。耳は完全に再生している。
「耳を触ってみろよ」
ジョンはそっと耳を触り、火傷したように手を離した。
「どうして……さっき千切られたと思ったのに。いや、きっとそう思っただけだ。最初から耳は何ともなかったんだ」
「ジョン、お前の耳は再生したんだよ。それは、お前が……」
「違う! ぜったい違う!」
ジョンは頭を抱え込んでしまった。先ほど千切られた耳を見せるべきだろうか。いや、やっぱり止めておこう。俺はリュックの中から着替え用のTシャツとジーンズを取り出すとジョンに渡した。
「これに着替えろよ。そのひらひらレースのブラウスは目立ちすぎる」
ジョンは顔を上げ、少しだけ微笑んだ。
「俺だって、こんなのは好みじゃないさ」
俺達はそっと外へ出た。周りには誰もいない。こいつを連れ帰っても大丈夫かな? いや、連れ帰ったって、ハンターは大勢いるんだから気付かれる心配はないだろう。俺は崖を上ってジョンを引っ張り上げた。とにかく東に向かえば村へ通じる道に出られる。俺はジョンに歩調を合わせてゆっくりと歩き出した。
俺達が町に着いた頃には辺りはすっかり暗くなり、様々な食物の魅惑的な香りが屋台やレストランから漂っていた。
俺達はレストランに入ると、小さなテーブル席に向かい合って座った。逞しいウェイターがにこにこしながら近づいてくる。
「ご注文は?」
「チーズバーガー三つ。ピクルスは抜き、マスタードは多めに。それから、ビール。ジョンはどうする?」
「え? ああ、俺も同じでいいよ。ピクルスは入れて欲しいけど」
ウェイターが妙な流し目でジョンにウィンクした。どうやらゲイらしい。ジョンはぎくりとして顔を赤らめ、さっと目を逸らした。おいおい、ちょっとまずいぞ、その反応。
「おい。お前、ゲイなのか?」
「ち、違うよ。男が急にウインクなんかしたから驚いたんだよ」
しばらくして先ほどのウェイターが満面に笑みを浮かべながらチーズバーガーを運んできた。皿にたっぷりと盛られたフライドポテトも一緒だ。
「おい、ポテトは頼んでないぞ」
「それは、私からのプレゼントです」
そう言うと、ウェイターはジョンに向かってまた情熱的なウィンクをした。ジョンは知らん顔をして、さっそくチーズバーガーに噛り付いてる。俺は仕方なくお礼を言った。まあ、こいつといれば結構得するかもしれないな。
チーズバーガーを食べ終わった頃、俺は隣のテーブルからの視線を感じ、振り返った。
ワイン色のビロードのマントを羽織り、貴公子のような真っ白なブラウスとワイン色のレザーパンツを着て真っ白な羽根のついた帽子を被った女がこっちを見ている。ダークブラウンのショートカット、青緑色の瞳。腰には大ぶりの剣を差している。なかなかの美人だ。俺と目が合うと女は薄く笑みを浮かべた。あの格好から察するに、ヴァンパイア・ハンターのようだ。ひょっとして俺に気があるのか。
「ちょっと、トイレ」
俺は立ち上がり、女のテーブルの傍をゆっくりと通り過ぎた。案の定、女は後からついてくる。ドアを開け、廊下に出たところで女は追いついてきた。しめしめ。
「ねえ。あのヴァンパイア、森で拾ってきたんでしょ?」
しまった。こいつ、気付いていたのか。
「ヴァンパイアだって? いったい何のことだ? 俺の連れなら人間だぞ」
「誤魔化してもダメよ。あたしはヴァンパイアの匂いが分かるの。あんたの連れ、凄く匂っていたわ。腹をすかせた血に飢えた獣の匂い。あんた、よく襲われなかったわね」
「だから奴は人間なんだよ」
「それはもういいわ。いずれにしても独り占めはよくないわ。どう? あの子が眠ったら、あたし達で杭を打たない? あんたはシロウトだからひとりじゃ無理よ。賞金は山分けってことで」
「何のことだかさっぱり分からないよ。じゃあな」
立ち去ろうとした俺の背中に女の声が響いてきた。
「そう。それならいいわ。あたしはひとりで、あんたの連れを狩ることにする」
そう言った瞬間、右の脇腹をいきなり蹴とばされた。俺は堪らず、その場に崩れ落ちた。
「しばらくそこで大人しくしていなさいな」
しまった。あいつは今、ひとりでいるんだった! 俺は痛みに顔を顰めながらどうにか立ち上がり、店に戻った。ジョンはいなかった。