#4 巣立ちの時
「父さん!」
凍り付いたように固まったまま動けなくなっていた俺は、唐突に我を取り戻した。そして、すぐさま父さんの許へ駆け寄る。
父さんは苦しげに呼吸をしながら、ゆっくりと。言葉を絞り出すように話し出した。
「京一郎。最期に、お前に話しておくことがある」
そう聞いた瞬間、これまでずっと抑えてきた〈それ〉が――涙が一気に溢れてきた。滴った熱い雫が白い雪を溶かす。
「最期だなんて……!」
言わないで、と叫びたかったが――いまの俺に父さんを助ける術なんてないことは解っていた。父さんは俺のそんな気持ちを汲み取ったのか、小さく優しく微笑む。そして再び険しい表情になると、今度は一層しっかりとした口調で言った。
「京一郎。お前は、この地を離れ旅立つのだ」
俺は暫く、その言葉の意味を理解できなかった。それはつまり、この地を――命のように大切だと教えられてきた縄張りを捨てろ、ということだ。悲しみが支配していた心の中に絶望が、そしてそれを押し潰すくらいの怒りが入り込んでくる。何故、どうしてと叫びそうになった。
だが、その途端父さんが大きな呻き声を上げ血を吐き出したので冷静さを取り戻せざるを得なかった。少しして、何とか落ち着いた父さんは荒く息をしながら尚も言葉を続けようとしている。その姿を見て、俺はたとえどんなことを次に告げられても受け容れる決意と覚悟を固めた。
いや、そう考えなければ俺自身が。この重い現実を受け止められなくなってしまうから。
「もうすぐここに多くの人間たちが来る。この辺りに、もう他の狼たちはいない。縄張りを持たなくてもいい、とにかく生き延びるんだ。京一郎、私たち狼族の血を――誇りを、護り続けてくれ」
そう言い残し、父さんは眠るように静かに息を引き取った。
†
雪解けの清らかな水が、あちこちで小さな滝や川となって流れている。俺は澄んだ空気で満たされた緑の世界を一歩一歩、力強く歩んでいた。踏み締めた、その大地が温かい沢山のエネルギーを身体に与えてくれているような気がする。
丘の上から生まれ育った大地を眺める。いまは普段と変わらないように思えるこの地も、もうすぐ変わってしまうのだろう。
これから始まるのは、目的地さえ分からないあてのない旅。そして、たった一匹で生きてゆかなくてはならない茨の道。
空へ向かい感謝と別れを告げる遠吠えを放つと、俺は棲み慣れた故郷を後にした。