#3 大鹿
一体、何が起こったのか分からなかった。
いま、俺が理解できていることは。猛烈な痛みと麻痺したような感覚に襲われ、降り積もった真白な雪の上に倒れこんでいること。少し離れた場所に、ついさっきまで俺が追っていた小鹿が不安と安心の混ざり合ったような表情でこちらを見ているということ。
そして、その間には……父さんくらいに大きな鹿が険しい顔で俺を睨みつけている、ということだ。
†
俺は呻きながら立ち上がろうとするが、ぐるぐると視界が回り――立つどころか自分の状況すら把握することが難しかった。尤も、かなり危険な立場へと追い込まれたのだということは嫌でも解るしかなかったけれど。
暫くして、俺を突き飛ばした巨体はゆっくりと近付いてくると重く深い声で威嚇をしてきた。
俺の心は逃げることを拒んでいる。しかし、身体はまるでこの寒さに凍り付いたように強張ってしまい自分の思うように動いてくれない。いろんな気持ちがごちゃ混ぜになり、どうすればいいのかが見えない。
……怒りを覚えた。
このどうしようもない現状にでも大鹿にでもない、弱く無力な自分という現実に。猛烈な悔しさ、という氷柱が全身に突き刺さっているかのような思いがした。その痛みは重く、そして苦しい。
やがて俺を見据えていた大鹿は、ひとつ大きな叫び声を上げると一気に突進してくる。
さっきは小鹿を追って走っていた最中だったため体当たりだったが、今度は角を突き出し真直ぐに向かっていた。その強烈な一撃を受け角に貫かれれば多分、俺は苦しむ間もなく死ぬのだろう。
しかし、俺は辛うじて立ち上がると鹿へ向き合う。心の中で、狼族の誇りが「このまま死んでいいのか」と叱咤している。どうせ死ぬなら一爪、一牙返してから散れ――と。大鹿との距離が狭まってゆく中で俺は覚悟を決め、ふら付きながらも突っ込んでいった。
だが、あと少しで突き殺される、というところで俺は目に飛び込んでくる角に圧倒され、つい目を閉じてしまった!
次の瞬間、鈍い音と共に血飛沫が身体に降りかかる。
†
どれ程、長い時間が経ったのか? いや、それともほんの一瞬のことだったのか。
何れにせよ、どれだけ待っても角にやられた鋭い痛みは襲ってこなかった。ゆっくりと目を開くと、さっきと違う光景が広がっている。ひとつは、自分の辺りの雪が血で染まっていたこと。そして、もうひとつは……
「と、父さん!」
俺と大鹿の間には、角に身体を突き刺された父さんが立っていた。俺を庇いながら、じっと大鹿の顔から視線を逸らさず佇んでいる。そして、ひとつ大きく吠えると大鹿を振り払うように身体を竜巻のように素早く回転させた。巨体の鹿が宙を舞い、雪を飛び散らせながら地面に落ちた。地響きが、一面に広がる。
父さんは、そんな状態でも尚構えを崩さなかったが――大きく咳き込んだ途端、口と脇腹に負った傷から大量の血が溢れた。それと同時に、がくりと雪の中に崩れかける。
俺は父さんに駆け寄ろうとしたが、父さんは俺の方を一度振り向き、顔で「来てはいけない!」と言っていた。
大鹿の方も、ふらつきながら立ち上がると空に向かい大きな声を上げた。すると、少し離れていた場所で心配そうに見ていた小鹿が我に返ったように走り出し、白く化粧をした森の中へと消えていった。子供を逃がした大鹿は、すぐに父さんの方に向き合う。父さんも、再び立ち上がると大鹿へと視線を向ける。
双方が同時に雄叫びを響かせると、また勢いよく駆け出していった。俺は自然の中で繰り広げられる、その生きるための死闘を――ただ、じっと見ていることしかできなかった。
夜が明けてきた頃、大鹿が雪の上に倒れた。その隣では、長い狩りを終えた父さんが仕留めた獲物の弔うための祈りを捧げている。そして顔を上げると、俺にひとつ小さく笑顔を向け――雪の上へ沈み込むように倒れていった。
俺は一歩も動けず、呆然と……雪原に横たわる満身創痍の、ふたつの巨体を見続けていた。