#2 父の教え
長く、とても長く感じられた冬が終わった。
母さんがこの世を去ってから、父さんと俺は殆ど何の獲物にも有り付けぬまま越冬に入った。辛く、そして苦しい時間だった。俺は、まだ雪で蔽われた世界の中を獲物を求めて縄張りの中を歩き続ける。しかし、いくら探しても生き物の姿はなく気配も感じられない。空腹のあまり、ひどく気持ちが悪かった。結局きょうも何も食べられないのだろうか。
俺は、がっくりと肩を落とし巣穴へ向かった。
†
洞穴の中には、縄張りの別方角を見に行っていた父さんが既に帰ってきていた。俺も、これでも急いだ方だったが――さすが父さんは迅速だ。父さんだって、きっと倒れそうな程お腹が空いているはずなのに。
「京一郎、戻ったのか」
父さんは優しく、そう言った。何も答えなくても、もう獲物が見付からなかったことを読み取って「気にするな」と話しているような口調だ。その温かい気持ちが、そっと心に沁みてくる。
俺は溢れてくる気持ちが零れないよう、必死で〈それ〉を心中に押し込めた。
外の暗い闇と共に、厳しい寒さは容赦なく巣穴にも入り込んでくる。まるで毛皮を突き抜け身体の芯まで氷ってしまいそうな程の冷え方だが……それ以上に生きることへの不安や恐怖にも襲われている気がして、一体自分は何に震えているのかが判らない。そんな俺の複雑な心情を察したのか、父さんは立ち上がると俺の隣に横になる。父さんの温もりは、ただそっと凍えた心を融かしてくれる気がした。
父さんは暫く何処か遠くを眺めるような顔をしていたが、やがて俺をまっすぐに見ると突然話し出す。
「京一郎、おまえに伝えておきたいことがある」
その日、俺は父さんと沢山のことを話した。自然の中で生きていくには、どんな心構えが必要なのか。狼として、いや生き物として見失っちゃいけないことは何なのか。
そして〈二本足〉――即ち、人間のことも。
「人間は確かに危険な存在だ。多くの生き物たちの命を奪い、自然を滅茶苦茶に破壊している。わたしも、この通り身体にも……そして心にも、あちこちに傷を負わされた。だが京一郎、これだけは忘れてはならない。すべての人間が、そういう輩というわけではないことを。善き者たちが本当に極僅かしかいなかったとしても、な。だから京一郎、人間を憎んだりするな。悪しきことをした悪しき者は、必ず罰を受ける。我々は己を信じ、ただまっすぐに生きていればいい。わたしも過去に、その極僅かな人間に救われた。わたしは、そういう人間たちの心を信じたいのだ」
†
俺は雪を周囲に散らしながら坂を突っ走っていた。目の前には、もうひとり雪を散らして逃げる獣がいる。漸く見つけたのだ、この白銀の世界で念願の獲物を!
その獣――子供の鹿だろうか――は、そっと近付いていた俺に気付くなり即座に駆け出す。もう少し上手く寄れてさえいれば、直ぐに狩りは終わっていたはずだった。だが、いまの俺は、あまりにも腹が減り過ぎていたのかもしれない。冷静に相手を追い詰めている余裕など、これっぽっちもありはしなかった。
その小鹿の大きさは俺の一回り小さい程度だったが、いまの状況では充分な獲物だった。違うところへ狩りに行っている父さんも、こいつを仕留めれば認めてくれるだろうか? いや、その前に相手を逃してしまった失敗を叱られるのが先かもしれない……。そんなことを考えながら、俺は只管に走り続けた。
兎に角、必死で。生きるために。
俺のうしろを、この小鹿の何倍も大きな鹿が静かに追っていたことを知ったのは――その直後のことだった。