#1 病の母
その日、母さんはいつもよりひどく苦しそうにしていた。
かたく目を瞑り、荒い息を繰り返している。その度に背中が大きく、ゆっくりと上下していた。俺はどうすることもできず、ただじっと母さんの傍にいて見守っていることしかできなかった。
自然の中では弱い者は生き残れない。
牡か牝か、子供か年寄りかなんて関係ない。生まれたばかりの赤ん坊も、傷を負っている者も容赦なく狩られてしまう。もちろん母さんのように病気であったとしても、だ。
母さんは、もともと病弱というわけではなかった。それどころか元気過ぎるぐらいで、狩りの時なんて父さんにも負けない程の勢いだった。それなのに……
その時、母さんは苦しげに俺の名を呼んだ。うわごとだと解っていても、つい返事をしてしまう。
母さんは、言葉を返してくれなかったけれど。
†
岩山の天辺へ登り、遠くの山々を眺める。季節はこれから冬を迎えようとしていた。
木の葉は木枯らしに吹かれ、太陽を背に隠し輝く雲は今にも雪を降らそうとしている。深々とついた息は白く、やがて風と共に消えていく。
この岩山を中心とした、森の中まで及ぶ広い縄張りは父さんと母さんが必死で護り続けてきた場所だった。父さんは、縄張りは我々狼が生きていくためにとても大切なものだ、といつも言っている。確かにこの縄張りが無かったら、これまで生きてはこれなかっただろうと思う。俺の群れは父さんと母さん、そして自分だけしかいない。そんな小さな群れでも、この地でずっと暮らしてこられたのが――ずっと縄張りを奪われずにいたことが、まるで父さんたちの強さを示しているような気がした。
俺は、そんな両親を尊敬していた。いつかこんな狼になりたい、と心から思っていた。自然のように厳しいけれど、自然のように優しく温かく、いつも俺のことを励ましいろんなことを教えてくれる。
そんな両親の息子として生まれたことを、俺は誇りに思っていた。
「京一郎」
下から低く、唸るような声が聞こえた。声のした方を向くと、狩りに行っていた父さんが巣穴の前に立ち、まっすぐに俺を見つめている。その大きな身体と隻眼の鋭い眼差しに、つい身が引き締まる。全身についた傷痕が、長い間過酷な中で闘ってきた父さんの生き様を表しているような気がした。
「そんなところで何をしている? 母さんの傍らで様子を看ていろと言っただろう」
俺は岩山から下り、父さんの許へ駆け寄った。父さんの足下には小さな野鼠が数匹、横たわっている。いまの季節では、これだけ獲るのがやっとなのだろう。これまで辛い中を何とか頑張ってこられたけど、これからは獲物を仕留めるどころか見つけることすら難しくなってしまうかもしれない。俺たちは今後、どう生きていけばいいのだろう? みんな無事に冬を越せるのだろうか。
母さんが倒れてからは、父さんだけで狩りをしている。だけど自然の中では父さんのような狼でも、そう簡単に獲物に有り付けはしない。暖かいときですら、しばらく何も食べられない日はよくあるくらいだ。
さらに父さんに聞いた話では〈二本足で立っているやつら〉が自然を荒らし、より獲物を獲ることを難しくしているという。この辺りでは見かけたことはなく俺も遭遇したことはないが、父さんはそいつらに襲われ酷い怪我をしたそうだ。片方の目を失ったのも、そのときのことらしい。
父さんを追い詰めた〈二本足〉。いったい、どんなやつらなんだろうか?
俺は頭の中に、恐ろしい〈二本足〉の姿を思い浮かべ身震いした。