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魔法学園で再会した幼馴染の公子さまは、なぜか毎朝わたしを溺愛してくださる。ただ一つ——登校前、彼が必ず庭の『水琴窟』に手を浸す、あの澄んだ水音の意味だけが、わからない

作者: 蜜月 憂
掲載日:2026/07/19

「まだだ。……そこで、待ってろ、リゼ」


朝の、古い庭。


幼馴染のセドリックは、今日も、そう言って、わたしを、押しとどめました。


「もう。……また、それ?」


わたしは、頬を、ふくらませました。


「授業、遅れちゃうよ、セド」


「遅れない。……すぐ、済む」


彼は、こちらを、振り返りもせずに。


苔むした岩のそばに、しゃがみこんで。


冷たい、朝露のような水に、そっと、その手を、浸したのです。


——こぉん。


澄んだ、水の音が、ひとつ。


古庭の、水琴窟から、鳴りました。


まるで、地の底で、透きとおった鈴を、そっと、振ったような。


清らかな、清らかな、音。


彼は、その音を、じっと、確かめるように、聞いて。


それから、ようやく、立ち上がって、こちらを、向くのです。


「……よし。行こう、リゼ」


そう言って、差し出される手が。


さっきまでの冷たさが嘘みたいに、優しいものだから。


わたしは、いつも、少し、どきどき、してしまうのでした。



セドリックとは、幼馴染です。


隣領の、公爵家の、跡取り息子。


小さな頃、よく、一緒に、遊びました。


けれど、彼が都の学び舎へ発ってからは、ずっと、離ればなれで。


数年ぶりに、この魔法学園で、再会したときは。


正直、少し、こわかったのです。


だって、彼は。


冷たく、完璧で、"次期宰相候補"と、誰もが、噂する、雲の上の人に、なっていて。


「セドリックさまは、どなたにも、心を、開かないのですって」


「氷の公子、と、呼ばれているのよ」


そんなふうに、囁かれるほど。


まわりの令嬢たちには、氷のように、冷たいのに。


——なぜか。


わたしにだけは、彼は。


「リゼ。前髪、はねてる」


「え、うそ、どこ」


「ここ。……じっとしてろ」


こんなふうに、そっと、直してくれたり。


「腹、減ってないか。……これ、食え」


「え、セドの分は?」


「おれは、いい。……おまえが、食え」


こんなふうに、甘やかしたり、するのです。


冷たいはずの、氷の公子が。


わたしの前でだけ、少しだけ、不器用に、優しい。


それが、うれしくて。


……でも、同じくらい、不思議で。


わたしは、いつも、彼のことを、こっそり、盗み見て、しまうのでした。



そして、あの、水琴窟の儀式です。


セドリックは、毎朝。


必ず、あの古庭に、寄って。


冷たい水に、手を浸して。


こぉん、と、澄んだ水音が、鳴るのを、確かめてから、でないと。


決して、わたしを、教室へ、行かせません。


「ねえ、セド」


ある朝、わたしは、とうとう、尋ねました。


「その水音、なんなの? 毎朝、毎朝、飽きないの?」


セドリックの、手が、ほんの一瞬、止まりました。


「……ただの、験担ぎだ」


「験担ぎ?」


「ああ。……この音を、聞かないと、落ち着かない」


「ふうん」


わたしは、腰に手を当てて、彼を、見下ろしました。


「氷の公子さまも、案外、子どもっぽいところ、あるんだね」


「……うるさい」


セドリックは、めずらしく、ばつが悪そうに、目を逸らしました。


その耳が、ほんのり、赤かったのが、可愛くて。


わたしは、くすくす、笑って、しまったのです。


——けれど。


そのときの、わたしは、まだ、知らなかった。


あの、こぉん、という、澄んだ水音が。


どんな意味を、持っていたのか、なんて。



この魔法学園は、事故の、多い場所でした。


魔力の、暴発。


崩れかけた、古い塔の、階段。


薬草園の、毒の花。


生徒の誰かが、怪我をした、という話は、毎週のように、聞こえてきます。


——けれど。


不思議なことに。


わたしだけは。


いつも、いつも、ぎりぎりのところで、無事、なのでした。


暴発した炎が、わたしの真横を、逸れていったり。


踏もうとした階段が、ほんの一歩手前で、崩れ落ちたり。


摘もうとした花から、寸前で、手を引っこめたく、なったり。


「……リゼット、あなた、悪運が強いのねえ」


友達が、青い顔で、そう言うほど。


わたしは、まるで。


——まるで、誰かが、先回りして、危ないものを、ぜんぶ、どけてくれているみたいに。


いつも、無事、だったのです。



その朝は、雨あがりで。


古庭の水琴窟が、いつもより、澄んだ音を、響かせていました。


わたしは、少し、早く、庭に、着いてしまいました。


そして、見て、しまったのです。


セドリックが。


水琴窟のそばに、しゃがみこんで。


いつもと、まるで、違う顔を、しているのを。


苦しげに、眉を、寄せて。


まるで、何か、恐ろしいものを、見ているみたいに。


くり返し、くり返し、水に、手を、浸しては。


こぉん。


こぉん。


こぉん。


——いつもは、ひとつだけの、水音を。


その朝は、いくつも、いくつも、鳴らしていたのです。


「……セド?」


わたしが、声を、かけると。


彼は、はじかれたように、振り向いて。


「……リゼ」


その顔は、ひどく、青ざめて、汗ばんで、いました。


「どうしたの、そんな顔して……ねえ、その水音、本当は、なんなの」


「……なんでも、ない」


「嘘」


わたしは、彼の、濡れた手を、両手で、握りました。


その手が、氷のように、冷たくて。


かすかに、震えていて。


「嘘だよ、セド。……お願い。ちゃんと、話して」


セドリックは、しばらく、わたしを、見つめて。


やがて。


観念したように、目を、閉じました。



「……おれには」


絞り出すように、彼は、言いました。


「昔から、"視える"んだ」


「視える……?」


「これから、起こる、かもしれない、今日が。……いくつも、いくつも」


わたしは、息を、呑みました。


未来視。


大陸でも、数えるほどしか、いないという、稀有な、力。


「そんな、力が……」


「ああ。……望んでなんか、いないのに、な」


セドリックは、自嘲するように、笑って。


それから、まっすぐに、わたしを、見ました。


「リゼ。……おまえは、この学園で」


その声が、震えていました。


「毎日、死ぬんだ」


「……え?」


「炎に、巻かれて。階段から、落ちて。毒の花に、触れて。暴れ馬に、蹴られて」


こぉん、と。


背後で、水琴窟が、鳴りました。


「おれには、それが、ぜんぶ、視える。……朝、目を覚ますたびに。今日、おまえが死ぬ、無数の"今日"が」


わたしの、膝が、震えました。


「だから、おれは」


セドリックは、水琴窟に、そっと、手を、浸しました。


こぉん。


「毎朝、ここで。……その、ひとつ、ひとつを」


こぉん。


「潰してる。おまえが、死なない、今日に、なるまで」


わたしは、言葉を、失いました。


あの、澄んだ水音は。


験担ぎなんかじゃ、なかった。


毎朝。


わたしの、死を。


彼が、ひとつずつ、消してくれていた、音だったのです。



「……どうして」


わたしの声は、掠れていました。


「どうして、そんなこと、黙って……」


「言えるわけ、ないだろう」


セドリックは、苦しげに、笑いました。


「"おまえは毎日死ぬ"なんて。……そんなこと、聞かされたら、おまえ、こわくて、外も、歩けなくなる」


「セド……」


「だから、おれが、視て、潰す。おまえは、何も、知らなくて、いい」


彼は、わたしの手を、握りしめました。


「ただ、笑って、飯食って、授業に、遅れそうになって。……そうやって、生きてて、くれれば、それで、いい」


——ああ。


このひとは。


わたしが、能天気に、頬をふくらませて、「授業遅れちゃう」なんて、言っていた、その裏で。


毎朝、たった独りで。


わたしの、いくつもの死を、視て。


その、ひとつ、ひとつを、潰して。


そうして、何食わぬ顔で、わたしに、手を、差し出して、いたのです。


「……何度、潰しても」


セドリックの声が、ほんの少し、掠れました。


「翌朝には、また、新しい"今日"が、生まれる。……終わりが、ない」


「じゃあ、あなた、毎朝、ずっと……」


「ああ。……でも」


彼は、はじめて、泣きそうな顔で、笑いました。


「おまえが、生きてるなら。……それくらい、なんてこと、ない」



わたしは、たまらなく、なって。


セドリックの、冷たい手を、両手で、包んで。


自分の頬に、押しあてました。


「……ばか」


涙が、こぼれました。


「ばか。……セドの、ばか」


「リゼ……?」


「そんな大事なこと、独りで、抱えて。……こわく、なかったの?」


「こわいさ」


セドリックは、静かに、言いました。


「毎朝、こわい。……ひとつでも、見落としたら、おまえが、死ぬ」


その言葉が、あんまり、まっすぐで。


わたしは、もう、どうしようもなく、このひとのことが、愛しくて。


「ねえ、セド」


わたしは、顔を、上げました。


「わたし、こわく、ないよ」


「……なに?」


「あなたが、してくれたことなら。……なんにも、こわくない」


わたしは、涙を、ぬぐって、笑いました。


「むしろ、うれしい。……こんなにも、わたしのこと、想ってくれてたんだって」


セドリックの、青い瞳が、大きく、揺れました。


「気味悪いと、思わないのか。……毎朝、おまえの死を、覗いてる男を」


「思わないよ」


わたしは、きっぱり、言いました。


「だって、それ、ぜんぶ。……わたしを、生かすため、でしょう?」


こぉん、と。


水琴窟が、澄んだ音を、鳴らしました。


「これからは」


わたしは、彼の手を、ぎゅっと、握りました。


「その水音、わたしにも、聞かせて。……独りで、抱えないで」


「リゼ……」


「毎朝、一緒に、来る。……あなたが、わたしを、生かしてくれる音を。わたしも、隣で、聞きたい」


しばらく、セドリックは、言葉を、失って。


やがて。


わたしを、痛いほど、強く、抱きしめました。


「……離さない」


耳元で、震える声が、しました。


「一日だって、おまえを、死なせない。……何百回、何千回、この音を、鳴らしてでも」


「うん」


「生きてろ、リゼ。……おれの、隣で。ずっと」


「うん。……ずっと、いる」



それから、わたしは、毎朝。


セドリックと、一緒に、あの古庭へ、行くように、なりました。


彼が、水琴窟に、手を浸す。


こぉん、と、澄んだ音が、鳴る。


その音が、ひとつ、鳴るたびに。


今日という日から、わたしの死が、ひとつ、消えていく。


「……よし。今日は、これで、終わりだ」


セドリックが、ほっと、息を、つきます。


「行こう、リゼ。……授業に、遅れる」


「もう。……遅れそうなの、いつも、セドのせいだからね」


「うるさい」


そう言って、差し出される手を。


わたしは、今日も、きゅっと、握ります。


彼が、どれほど深く、途方もなく、わたしを想って。


毎朝、たった独りで、わたしの死を、覗き、潰し続けているのか。


——それでも。


いいえ。


だからこそ。


わたしは、このひとを、世界のだれよりも、深く、愛しているのです。


こぉん、と。


今朝も、水琴窟が、澄んだ音を、鳴らします。


わたしが、明日も、笑って、生きていられる。


——そのための、いちばん、優しい音が。


古庭に、静かに、響いているのでした。

蜜月 憂です。今作は「魔法学園×水琴窟」、きゅん多めの一途系。誰にでも冷たい氷の公子が、幼馴染にだけ毎朝甘い理由——それは、彼が未来視の力で、彼女が死ぬ無数の今日を視てしまい、水琴窟の澄んだ水音を触媒に、その死線を毎朝ひとつずつ潰していたから。何度潰しても翌朝また生まれる、終わりのない一途。ヒロインは最後まで傷つかず、自由なまま守られて幸せです。きゅんとゾクッと、少しの切なさを、どうぞ。

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