魔法学園で再会した幼馴染の公子さまは、なぜか毎朝わたしを溺愛してくださる。ただ一つ——登校前、彼が必ず庭の『水琴窟』に手を浸す、あの澄んだ水音の意味だけが、わからない
「まだだ。……そこで、待ってろ、リゼ」
朝の、古い庭。
幼馴染のセドリックは、今日も、そう言って、わたしを、押しとどめました。
「もう。……また、それ?」
わたしは、頬を、ふくらませました。
「授業、遅れちゃうよ、セド」
「遅れない。……すぐ、済む」
彼は、こちらを、振り返りもせずに。
苔むした岩のそばに、しゃがみこんで。
冷たい、朝露のような水に、そっと、その手を、浸したのです。
——こぉん。
澄んだ、水の音が、ひとつ。
古庭の、水琴窟から、鳴りました。
まるで、地の底で、透きとおった鈴を、そっと、振ったような。
清らかな、清らかな、音。
彼は、その音を、じっと、確かめるように、聞いて。
それから、ようやく、立ち上がって、こちらを、向くのです。
「……よし。行こう、リゼ」
そう言って、差し出される手が。
さっきまでの冷たさが嘘みたいに、優しいものだから。
わたしは、いつも、少し、どきどき、してしまうのでした。
*
セドリックとは、幼馴染です。
隣領の、公爵家の、跡取り息子。
小さな頃、よく、一緒に、遊びました。
けれど、彼が都の学び舎へ発ってからは、ずっと、離ればなれで。
数年ぶりに、この魔法学園で、再会したときは。
正直、少し、こわかったのです。
だって、彼は。
冷たく、完璧で、"次期宰相候補"と、誰もが、噂する、雲の上の人に、なっていて。
「セドリックさまは、どなたにも、心を、開かないのですって」
「氷の公子、と、呼ばれているのよ」
そんなふうに、囁かれるほど。
まわりの令嬢たちには、氷のように、冷たいのに。
——なぜか。
わたしにだけは、彼は。
「リゼ。前髪、はねてる」
「え、うそ、どこ」
「ここ。……じっとしてろ」
こんなふうに、そっと、直してくれたり。
「腹、減ってないか。……これ、食え」
「え、セドの分は?」
「おれは、いい。……おまえが、食え」
こんなふうに、甘やかしたり、するのです。
冷たいはずの、氷の公子が。
わたしの前でだけ、少しだけ、不器用に、優しい。
それが、うれしくて。
……でも、同じくらい、不思議で。
わたしは、いつも、彼のことを、こっそり、盗み見て、しまうのでした。
*
そして、あの、水琴窟の儀式です。
セドリックは、毎朝。
必ず、あの古庭に、寄って。
冷たい水に、手を浸して。
こぉん、と、澄んだ水音が、鳴るのを、確かめてから、でないと。
決して、わたしを、教室へ、行かせません。
「ねえ、セド」
ある朝、わたしは、とうとう、尋ねました。
「その水音、なんなの? 毎朝、毎朝、飽きないの?」
セドリックの、手が、ほんの一瞬、止まりました。
「……ただの、験担ぎだ」
「験担ぎ?」
「ああ。……この音を、聞かないと、落ち着かない」
「ふうん」
わたしは、腰に手を当てて、彼を、見下ろしました。
「氷の公子さまも、案外、子どもっぽいところ、あるんだね」
「……うるさい」
セドリックは、めずらしく、ばつが悪そうに、目を逸らしました。
その耳が、ほんのり、赤かったのが、可愛くて。
わたしは、くすくす、笑って、しまったのです。
——けれど。
そのときの、わたしは、まだ、知らなかった。
あの、こぉん、という、澄んだ水音が。
どんな意味を、持っていたのか、なんて。
*
この魔法学園は、事故の、多い場所でした。
魔力の、暴発。
崩れかけた、古い塔の、階段。
薬草園の、毒の花。
生徒の誰かが、怪我をした、という話は、毎週のように、聞こえてきます。
——けれど。
不思議なことに。
わたしだけは。
いつも、いつも、ぎりぎりのところで、無事、なのでした。
暴発した炎が、わたしの真横を、逸れていったり。
踏もうとした階段が、ほんの一歩手前で、崩れ落ちたり。
摘もうとした花から、寸前で、手を引っこめたく、なったり。
「……リゼット、あなた、悪運が強いのねえ」
友達が、青い顔で、そう言うほど。
わたしは、まるで。
——まるで、誰かが、先回りして、危ないものを、ぜんぶ、どけてくれているみたいに。
いつも、無事、だったのです。
*
その朝は、雨あがりで。
古庭の水琴窟が、いつもより、澄んだ音を、響かせていました。
わたしは、少し、早く、庭に、着いてしまいました。
そして、見て、しまったのです。
セドリックが。
水琴窟のそばに、しゃがみこんで。
いつもと、まるで、違う顔を、しているのを。
苦しげに、眉を、寄せて。
まるで、何か、恐ろしいものを、見ているみたいに。
くり返し、くり返し、水に、手を、浸しては。
こぉん。
こぉん。
こぉん。
——いつもは、ひとつだけの、水音を。
その朝は、いくつも、いくつも、鳴らしていたのです。
「……セド?」
わたしが、声を、かけると。
彼は、はじかれたように、振り向いて。
「……リゼ」
その顔は、ひどく、青ざめて、汗ばんで、いました。
「どうしたの、そんな顔して……ねえ、その水音、本当は、なんなの」
「……なんでも、ない」
「嘘」
わたしは、彼の、濡れた手を、両手で、握りました。
その手が、氷のように、冷たくて。
かすかに、震えていて。
「嘘だよ、セド。……お願い。ちゃんと、話して」
セドリックは、しばらく、わたしを、見つめて。
やがて。
観念したように、目を、閉じました。
*
「……おれには」
絞り出すように、彼は、言いました。
「昔から、"視える"んだ」
「視える……?」
「これから、起こる、かもしれない、今日が。……いくつも、いくつも」
わたしは、息を、呑みました。
未来視。
大陸でも、数えるほどしか、いないという、稀有な、力。
「そんな、力が……」
「ああ。……望んでなんか、いないのに、な」
セドリックは、自嘲するように、笑って。
それから、まっすぐに、わたしを、見ました。
「リゼ。……おまえは、この学園で」
その声が、震えていました。
「毎日、死ぬんだ」
「……え?」
「炎に、巻かれて。階段から、落ちて。毒の花に、触れて。暴れ馬に、蹴られて」
こぉん、と。
背後で、水琴窟が、鳴りました。
「おれには、それが、ぜんぶ、視える。……朝、目を覚ますたびに。今日、おまえが死ぬ、無数の"今日"が」
わたしの、膝が、震えました。
「だから、おれは」
セドリックは、水琴窟に、そっと、手を、浸しました。
こぉん。
「毎朝、ここで。……その、ひとつ、ひとつを」
こぉん。
「潰してる。おまえが、死なない、今日に、なるまで」
わたしは、言葉を、失いました。
あの、澄んだ水音は。
験担ぎなんかじゃ、なかった。
毎朝。
わたしの、死を。
彼が、ひとつずつ、消してくれていた、音だったのです。
*
「……どうして」
わたしの声は、掠れていました。
「どうして、そんなこと、黙って……」
「言えるわけ、ないだろう」
セドリックは、苦しげに、笑いました。
「"おまえは毎日死ぬ"なんて。……そんなこと、聞かされたら、おまえ、こわくて、外も、歩けなくなる」
「セド……」
「だから、おれが、視て、潰す。おまえは、何も、知らなくて、いい」
彼は、わたしの手を、握りしめました。
「ただ、笑って、飯食って、授業に、遅れそうになって。……そうやって、生きてて、くれれば、それで、いい」
——ああ。
このひとは。
わたしが、能天気に、頬をふくらませて、「授業遅れちゃう」なんて、言っていた、その裏で。
毎朝、たった独りで。
わたしの、いくつもの死を、視て。
その、ひとつ、ひとつを、潰して。
そうして、何食わぬ顔で、わたしに、手を、差し出して、いたのです。
「……何度、潰しても」
セドリックの声が、ほんの少し、掠れました。
「翌朝には、また、新しい"今日"が、生まれる。……終わりが、ない」
「じゃあ、あなた、毎朝、ずっと……」
「ああ。……でも」
彼は、はじめて、泣きそうな顔で、笑いました。
「おまえが、生きてるなら。……それくらい、なんてこと、ない」
*
わたしは、たまらなく、なって。
セドリックの、冷たい手を、両手で、包んで。
自分の頬に、押しあてました。
「……ばか」
涙が、こぼれました。
「ばか。……セドの、ばか」
「リゼ……?」
「そんな大事なこと、独りで、抱えて。……こわく、なかったの?」
「こわいさ」
セドリックは、静かに、言いました。
「毎朝、こわい。……ひとつでも、見落としたら、おまえが、死ぬ」
その言葉が、あんまり、まっすぐで。
わたしは、もう、どうしようもなく、このひとのことが、愛しくて。
「ねえ、セド」
わたしは、顔を、上げました。
「わたし、こわく、ないよ」
「……なに?」
「あなたが、してくれたことなら。……なんにも、こわくない」
わたしは、涙を、ぬぐって、笑いました。
「むしろ、うれしい。……こんなにも、わたしのこと、想ってくれてたんだって」
セドリックの、青い瞳が、大きく、揺れました。
「気味悪いと、思わないのか。……毎朝、おまえの死を、覗いてる男を」
「思わないよ」
わたしは、きっぱり、言いました。
「だって、それ、ぜんぶ。……わたしを、生かすため、でしょう?」
こぉん、と。
水琴窟が、澄んだ音を、鳴らしました。
「これからは」
わたしは、彼の手を、ぎゅっと、握りました。
「その水音、わたしにも、聞かせて。……独りで、抱えないで」
「リゼ……」
「毎朝、一緒に、来る。……あなたが、わたしを、生かしてくれる音を。わたしも、隣で、聞きたい」
しばらく、セドリックは、言葉を、失って。
やがて。
わたしを、痛いほど、強く、抱きしめました。
「……離さない」
耳元で、震える声が、しました。
「一日だって、おまえを、死なせない。……何百回、何千回、この音を、鳴らしてでも」
「うん」
「生きてろ、リゼ。……おれの、隣で。ずっと」
「うん。……ずっと、いる」
*
それから、わたしは、毎朝。
セドリックと、一緒に、あの古庭へ、行くように、なりました。
彼が、水琴窟に、手を浸す。
こぉん、と、澄んだ音が、鳴る。
その音が、ひとつ、鳴るたびに。
今日という日から、わたしの死が、ひとつ、消えていく。
「……よし。今日は、これで、終わりだ」
セドリックが、ほっと、息を、つきます。
「行こう、リゼ。……授業に、遅れる」
「もう。……遅れそうなの、いつも、セドのせいだからね」
「うるさい」
そう言って、差し出される手を。
わたしは、今日も、きゅっと、握ります。
彼が、どれほど深く、途方もなく、わたしを想って。
毎朝、たった独りで、わたしの死を、覗き、潰し続けているのか。
——それでも。
いいえ。
だからこそ。
わたしは、このひとを、世界のだれよりも、深く、愛しているのです。
こぉん、と。
今朝も、水琴窟が、澄んだ音を、鳴らします。
わたしが、明日も、笑って、生きていられる。
——そのための、いちばん、優しい音が。
古庭に、静かに、響いているのでした。
蜜月 憂です。今作は「魔法学園×水琴窟」、きゅん多めの一途系。誰にでも冷たい氷の公子が、幼馴染にだけ毎朝甘い理由——それは、彼が未来視の力で、彼女が死ぬ無数の今日を視てしまい、水琴窟の澄んだ水音を触媒に、その死線を毎朝ひとつずつ潰していたから。何度潰しても翌朝また生まれる、終わりのない一途。ヒロインは最後まで傷つかず、自由なまま守られて幸せです。きゅんとゾクッと、少しの切なさを、どうぞ。




