異変の鏡
朝、自室のベッドで目を覚ました私は、朝食を食べに台所へと降りる。
「おはよう」
母が私に背を向けてフライパンで炒め物をしたまま声をかける。私のお弁当のおかずを作っているようだ。匂いから豚肉と野菜の甘辛炒めだと分かった。
ということは、今日は水曜日。まだ週の半ばかぁ…だるい…
母は何でも習慣化させる人で、お弁当のメニューも曜日で固定されている。母曰く、考えることは脳のメモリの無駄遣いなんだそうだ。食卓には鮭の塩焼きとワカメの味噌汁の朝食がセットされている。こちらも毎度お馴染みの朝食だが、日によって鮭が焦げてたり味噌が薄かったりする。今日の鮭は少し生焼けっぽかった。2時間目に英語の小テストがあるから、お腹を壊さなければいいんだけど、と思いつつ完食する。
歯を磨こうと洗面台の前に立ち、そこで私は異変に気づいた。鏡の中に、可愛い女の子が映っていた。
誰?
そんなことをしても何の意味もないのだが、私は思わず鏡に手を伸ばしてその女の子に触れようとした。すると、鏡の中の女の子もこちらに向かって手を伸ばしてくる。手を引っ込めると、女の子も手を引っ込める。右の頬をつねってみれば、女の子は左の頬をつねる。
私と同じ動きをしている…
鏡なのだから当然だ。しかし、なぜ顔が違うのだろう。
「エリカ、妙な動きをしていないで早くすませなさい」
いつの間にか父が洗面所に来ていた。
「あ、パパ。おはよう」
私は少しずれて、父と並んで洗面所に立つ。鏡に映る父の顔はいたって普通だ。
「ねぇ、パパ。私の顔、変じゃない?」
「ん?どういう意味だ?」
「鏡に映っている顔が可愛いじゃない」
「あぁ…そうだな。エリカは今日も可愛いぞぉ」
何を勘違いしたのか、父はニヤニヤ笑って言う。だが、父の様子から察するに、父には私の顔はいつも通りに見えているようだ。
私の目がおかしいのかな…?
自室に戻って携帯に自分の顔を映してみると、やはり顔が違う。…ような気がする。
似てはいるのよね。このホクロとか、私の顔にもあるし…
だんだん自信がなくなってきた。大体、自分の顔って直接見ることはないし、自分はもともとこれくらい可愛かったんじゃ…という甘い考えが湧いてくる。
いやいや、そんなことないでしょ。学校でも、私は可愛い枠に入ってないし。
中学校の卒業アルバムの自分の顔を確認してみれば、記憶通りの普通の顔。
うん、可愛くない。
何故に今日は可愛く見えてしまうのだろうと、もう一度携帯に自分の顔を映したら、いつも通りの自分の顔が映っていた。
ありゃりゃ、戻っちゃった。
なんだか残念な気持ちになって、色々角度を変えて映してみる。もう一度あの可愛い顔が映ることを期待して。
「おい、エリカ~。着替えに何分掛かっているんだ。もう行くぞぉ」
階下から父の声がした。このところ父は仕事に余裕があるようで、私と一緒に家を出て学校まで車で送ってくれる。
「今行く~」
私は机の上に置いていた赤色の英単語帳を学生鞄に突っ込み、父の待つ玄関へと急いだ。
翌朝、目を覚ました私はいつものように朝食を食べに台所へと降りる。
「おはよう」
母が私に背を向けたまま、お弁当を作りながら声をかける。今日も生焼けの鮭を完食して、歯を磨くために洗面台の前に立つ。鏡に映る顔は普通だ。昨日のはなんだったのかなぁと思いながらぼんやりと歯を磨く。うがいをし、顔をあげて鏡を見ると、自分の背後を白髪の女性が通り過ぎていった。
!?
びっくりして女性が通り過ぎた先を見るも、そこには先ほどの女性ではなく、父が立っていた。
「また妙な動きをしているな。どうしたんだ?」
「鏡におばあさんが映っていた」
「おばあさん?」
「あー…おばあさんという程ではないかもだけど…白髪の女の人が私の後に映っていたの」
「あぁ、なるほど。顔は見たか?」
「チラッとだからよく分からないけど、ママに似ていた」
「ふーむ…昨日は可愛くなったエリカで、今日は年をとったママか。明日は若返ったパパが映るかもしれないな」
父は笑って、なんでもなかったかのように歯を磨き始めたが、そんな父に違和感を覚えた。直感的に父も女の人を見たのだろうと思った。そして、それが誰なのかも知っているように思えた。
パパも見たということは、気のせいじゃなくて、本当にいるんだ。もしかして、おばあちゃん?おばあちゃんが何か警告しに来ているとか…
母方の祖母は何年も前に亡くなっていて顔をよく思い出せない。私は自室に戻ると、小学生の頃に使っていたシール帳を引き出しの奥から引っ張り出す。シール帳に、祖母と一緒にテーマパークに遊びに行ったときの写真を挟んでいた。グリーティングルームでマスコットキャラクターと祖母が手をつなぎ、その横で父に抱っこされて涙目の私と、不機嫌そうにそっぽを向いている母が写っている。
このとき、母は私とマスコットキャラクターが手を繋いた写真を撮りたがったのだが、人見知りの強かった私は泣いて嫌がった。「せっかく長いこと並んだのに」と怒る母、また始まったと諦め顔で無言になる父、困惑した様子のスタッフさん達。「じゃあ、皆で撮ってもらいましょう」と祖母がその場をとりなして、係員のお姉さんにシャッターを押してもらったのだった。
ママは本当に子供っぽくて…パパもおばあちゃんも苦労したよね…
食い入るように写真を見る。どれくらい時間が経っただろう。廊下を歩く人の足音で我に返った。
「エリカ、まだいるの?」
扉の向こうから母の声がした。
「エリカ、もう行くぞぉ」
階下から父の声もした。
「今行く」
私はシール帳を引き出しの奥に戻し、机の上の単語帳を学生鞄に突っ込んだ。ふと、手が赤く汚れいていることに気づく。これも何かの警告だろうか?私はウェットティッシュで手を拭いて、玄関へと向かった。
翌朝も、目を覚ました私は朝食を食べに台所へと降りる。
「おはよう」
母はいつものように私に背を向けたまま、お弁当を作っている。豚肉と野菜の甘辛炒めの匂い。今日も生焼けの鮭を完食して、歯を磨くために洗面台の前に立つ。しばらくすると、父がやってきた。
「今日も何か映っているか?若返ったパパかな?」
「うん。若いパパが映っているよ」
「おやおや。本当か?」
「パパは私が小学生の頃のままの姿。私はこんなに大きくなったのに、パパは全然年をとっていないね」
「…」
鏡に映る父は、昨日写真で見たままだ。私は色々なことを思い出した。テーマパークに遊びに行った年の暮れ、父が急逝したことも。父が亡くなってからの母の状態はひどかった。
「パパが死んでから大変だったんだよ。ママはぼーっと座っているか、泣き叫んでいるかで、何もしなくなっちゃって。ご飯はずっとコンビニ弁当、家はゴミだらけ…」
「ごめんな、エミカ」
「パパが謝ることじゃない」
私は本心からそう言ったけど、パパは「ごめん」と何度も繰り返した。
「ウチの惨状を見かねたおばあちゃんが週末ごとに来てくれて、家を片付けたり料理の作り置きをしてくれた。おばあちゃんに料理とか洗濯とか教えてもらって、私も家のこと、色々手伝った」
「ありがとうな。苦労かけたね」
「ママが少しずつ立ち直って、でも、今度はおばあちゃんが死んじゃって。ママはまた泣き続けて、家がゴミだらけになっちゃった」
「そうか」
「家はママの心を映す鏡だね。それから、ママは急にシンプリストになると言いだして、どんどん物を捨てていったの」
「そうか。降りかかってくる様々なことを、ママは抱えられなかったのかもしれないね」
「家がスッキリしていくうちに、ママの頭もスッキリしていったみたいで、穏やかに過ごしている時間が増えていったんだけど…」
私は周りを見渡す。洗面所は特に荒れていないようだ。床にゴミも落ちていない。だが、まだ安心できない。
「今、この家はどんなカンジなんだろう」
「ん?」
「ねぇ、パパ。ママは大丈夫?私は、もう長い間ママの顔を見ていないの。ママはいつも私に背を向けて料理をしているから」
「そうか。じゃあ、今から見に行こう。今のママとこの家を」
「うん」
父に連れられて行ったリビングで、母は絵を描いていた。記憶の中の母に比べて、顔には随分と皺が増えて髪は白くなっている。昨日、鏡に映った女の人だった。
「ママ、絵を始めたんだ」
「エリカが死んで5年経ったくらいからかな。エリカの絵ばっかり描いているぞ」
「私、こんなに可愛くないよ」
キャンバスに描かれているのは、一昨日鏡に映った女の子だ。同じ女の子の絵がリビングの壁を埋め尽くさんばかりに飾られている。
「すごいことになっているね」
「リビングだけじゃないぞ。和室もトイレも、どこもかしこもエリカでいっぱいだ」
「これはママのどういう心を表しているんだろう」
「さあなぁ。でも、こうやってエリカの絵に囲まれているとママは落ち着くようだぞ」
「そうだね。ママ、泣いていないね」
「うん。それが大事だ」
あの水曜日、英語の小テストのために単語帳をめくりながら登校していた私は、信号が赤なのに気づかずに横断歩道を渡ろうとして車に轢かれた。父が私を迎えに来てくれたとき、母はひどい有様だった。父が死んだときの10倍くらい酷かった。泣いていたかと思えば怒りだし、また泣いたかと思えば頭を壁に打ちつけて、アルバムを見て微笑んでいるかと思えば突然叫び始める。壊れるほどに混乱している母を見て、私は死んでしまった自分を責めた。
「パパ、長いこと待たせてごめんね」
「高校生のエリカと一緒に過ごせてパパは嬉しかったぞ。思えば、生きていた頃よりも長く一緒にいたな」
目の前に現れた階段は、天井を突き抜けて上へ上へと伸びている。数段上った父が振り返り、私の方へと手を伸ばす。私はその手を取ったが、なかなか一歩を踏み出せない。母の方を振り返ると、母も私を見ていた。
「エリカ、行くのね」
「うん。ママ、バイバイ」
「バイバイ」
過去一番に穏やかな表情の母だった。私は晴れ晴れとした気持ちで、父と階段を上った。この先に待ち受ける未来への期待に胸を膨らませながら。




