32.帝国の黄昏
演習場の喧騒を背に、マクシミリアンは数人の近衛兵を連れ、帰還用の転送門へと歩を進めていた。
―― その歩みを止めた声がある。
「殿下。すいませんが、少しお時間を。三分でいい」
その声は突然響いた。気配が全くしなかったのだ。すわ暗殺かと、振り返った近衛兵たちが即座に武器へ手をかける。
「不敬であるぞ! 皇太子殿下に対し、その態度は何 ――」
一歩踏み出そうとした近衛の喉元に、言葉よりも早く「死」の予感が突き刺さった。
影は動いていない。ただ、そこに立っているだけだ。
それでも。近衛たちの喉元は、「大いなる死」に掴まれている。右に動いても、左に動いても、絶対に避けられない死の予感。未来を黒く塗りつぶされた彼らは、一言も発せずに固まっていた。
「……下がっていいよ。彼は、私の身内のようなものだから」
マクシミリアンが静かに制すると、凍り付いていた空気がふっと霧散した。
近衛兵たちが困惑と恐怖の入り混じった顔で後退する中、皇太子はいつもの「忠犬」のような穏やかな、けれどどこか無機質な微笑を浮かべた。
「どうしたのかな、イースラン。君の『仕事』はまだ終わっていないはずだけど」
「……あんたの企みについてだ。虹彩クラスにアレックスを投げ込んだ、本当の目的は何だ。まさか、一貴族のプライドを折るためだけに、アレックスを危険に晒したわけじゃあねえだろう」
イースランの三白眼が、マクシミリアンの仮面を剥ごうと鋭く射抜く。
マクシミリアンは、少しだけ困ったように眉を下げた。その姿は、妹を案じるだけの善良な兄そのものに見えた。
「心外だなあ。私は今も昔も、このアイゼングラードが正しく健在であり、アレクシアが健やかに過ごせるようにとしか考えていないよ。イースラン、それ以外に兄として望むことがあるだろうか?」
「…………」
イースランは目を眇めた。
嘘ではない。マクシミリアンの声に、偽りの音律は混じっていない。
だが、だからこそ違和感が際立つ。
(……この男が。効率と算術の化身であるこの男が、今更そんな『当たり前』のことを、わざわざ口にするはずがない)
アイゼングラードが健在であること。アレクシアが健やかであること。
それは帝国の『大前提』だ。
その前提をわざわざ肯定するということは、裏を返せば――。
(――その『当たり前』が、もうすぐ崩れるという確信があるのか)
マクシミリアンの言葉に隠された真意が、イースランの脳内に鮮烈な絶望として浮かび上がる。
帝国の健在を危うくし、アレクシアの平穏を根こそぎ奪い去るほどの激震。
それは、外敵の侵入などではない。帝国の中心にある「太陽」そのものの陰り。
(……陛下が。……ゲオルギウス陛下が、退位されるのか)
喉まで出かかった言葉を、イースランはすんでのところで飲み込んだ。
目の前の男の肩にかかっているのは、単なる皇位継承の準備などではない。
鋼の皇帝という巨大な支柱を失った後の、あまりにも脆く、あまりにも広大なこの帝国を一人で支え、さらに強烈な太陽である妹を護り抜かなければならないという、絶望的なまでの重圧だ。
「……話は以上です。お引き止めして、失礼しました」
「いいよ。事後処理、期待している。……それと、イースラン。……アレックスを、頼むよ」
マクシミリアンは一度だけ、深い海の底のような瞳でイースランを見つめると、転送門の中に消えていった。
◇◇◇
転送門が閉じ、静寂が戻った通路で、イースランは立ち尽くしていた。
「……勝手なことばっかり、押し付けやがって」
突如として集められた虹彩クラス。
彼らは来たるべき帝国の黄昏において、アレクシアを守り抜くために結成された「理の外にある牙」なのだと、理解させられてしまった。
イースランは、演習場の方から聞こえてくるテオドールたちの歓声に耳を澄ませた。
まだ誰も知らない。
この祝祭の後に、どれほど暗く、深い闇が待ち受けているのか。
「……ったく。……これ以上、面倒な仕事を増やさねえでくれよ。殿下」
彼は独り言を吐き捨てると、夜の闇に紛れるように、再び「お目付け役」としての仕事に戻っていくのであった。
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