表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

28/31

28.未だ相見えぬ英雄候補

 翡翠(ジェイド)クラスのアルフォンスから、虹彩(アイリス)クラスのテオドールへ叩きつけられた『鉄理(アイゼン)の審判(オーディール)』。

 学園創立以来の不条理は、階級の壁を超えて火を噴くような熱狂と、冷ややかな計算を巻き起こしていた。


 まずは、帝国の牙を担う騎士科の演習場。

 そこでは、武勇を誇る紅玉(ルビー)クラスの生徒たちが、木剣を握ったまま議論を交わしていた。


「……信じられん。あのアルフォンス様が、直々にパン屋を相手にするとは」

「格が違いすぎる。あれはもはや審判ではない、ただの掃除だ」


 彼らにとって、騎士道とは「正しき力」の証明だ。テオドールのような非力な平民を狙い撃ちにするのは、いささか美しくないと感じつつも、帝国の秩序を守るためには致し方ない、という空気が支配的だった。


 その輪から少し離れた日陰で、一人の少年が欠伸をしながら木剣を枕に寝転がっていた。

 カスパール・グラウネーベル。

 すぐ隣を通った生徒が、カスパールが食べているサンドイッチの包み紙に足を引っ掛けて転び、「誰だ、こんな所にゴミを置いたのは!」と空中に向かって怒鳴っている。

 そう。すぐそばに寝転がる彼を、認識していないのだ。彼は何もしていない。存在が異常に希薄なのである。おかげで、さぼりたい放題に日々を怠惰に過ごしているのだ。


(……うるさいな。決闘なんて面倒くさいこと、どうでもいいだろ。それより、あのテオドールってやつ。……負けて退学になったら、あのパン、もう食べられないのかな。それは、ちょっと、困るかも……)


 カスパールは欠伸を噛み殺しながら、自分にしか聞こえない声で呟いた。彼にとって世界の危機とは、自分の安眠と食糧が脅かされることに他ならないのだ。


◇◇◇


 経済と実務を学ぶ黄玉(トパーズ)クラスのサロンでは、より現実的で―― いささか不純な動きが加速していた。


「さあさあ、賭けの時間ですよーッ! 締め切り間近! 倍率はアルフォンス様が1.1倍、テオドールが……なんと999倍です!!」


 サロンの隅で、巧みに数字を書き換えた魔光掲示板を操作しているのは、サイラス・ギルダーシュタイン。

 彼は、第二皇女の降嫁したギルダーシュタイン侯爵家の末子でありながら、その才能をすべて非公式な資金運用……という名の横領と博打に注ぎ込む、黄金に輝く問題児であった。


「サイラス、これじゃあ賭けにならないよ。誰もテオドールになんか賭けないだろ?」

「おやおや、甘いッスねえ!これは『アルフォンス様が何分で相手を消滅させるか』にサイドベットを設けているんです。……ところで、僕はテオドールに一万ギルダーほど、こっそり賭けておきましたよ」

「……はぁ!? 正気か!?ドブに捨てるようなものだぞ!」


「だってねえ。こんな先の見えてる勝負に、安牌突っ込んだって面白くないでしょーが。それに、一票も入らねえんなら賭け事になりませんよう」

「とは言え…… ベルンシュタインだぞ。君のお家と同格って事は、それはもう名門中の名門だ。万が一にも負ける事なんて、考えられないよ」


 サイラスはニコニコ顔のまま、ゆっくりと首を傾げた。

 サイラスは合理的であったが、同時に、非合理を心から愛していた。


 賢人と善人だけでは世界は回らないのだ。そこには理外の理があり、不条な理があり、一見無駄に見えるものが無数に存在して、相互に干渉している。無駄な物など一つもない。全ては在るべくしてそこに在るのだ。


「―― 世界に一つだけの真実なんてね。ないんですよ」

「え?何か言ったか?」

「いえいえ!何にも! —— さあさあ、もう少しで締め切りでーすッ!張った張った!虹彩クラスの決闘裁判だよーーーッ!!」


◇◇◇


 そして、最底辺の石英(クォーツ)クラス。

 ここは、かつてないほどの緊張感に包まれていた。中には、泣き出す女生徒の姿もある。仲間であるはずのテオドールが標的にされた恐怖。そして、どこかで「彼ならもしかして」と願う希望。


「……あ、あの……リオ君。テオドールさん、本当に大丈夫なのかな」


 温室の影で、小柄な少年――リオが、壊れたボタンの縫い目を見つめながら震えていた。赤毛の女子生徒が、心配そうに声をかけてくれるのに、一度だけ頷く。


 あれはいつだったか、翡翠(ジェイド)クラスの男子生徒と肩がぶつかってしまった時のこと。胸倉を掴まれ、ボタンがはじけ飛んだ。頭が真っ白になり、何も言えなかったリオの代わりに、テオドールが必死になって謝り倒してくれたおかげで事なきを得たのだ。


 テオドールの眼鏡は割れていた。が、リオは無事だったのだ。


 あれからリオはテオドールに一方的な親近感を抱いていた。

 だから今回、テオドールが虹彩(アイリス)に選ばれたことを自分の事のように喜んでいたのだ。まさか、その高揚が一日でドブに叩き込まれるとは思ってもみなかった。


「わ、分かりません……。でも、アレクシア様がおそばにいらっしゃいます。テオドールさんなら、きっと……」


 リオの澄んだ黒髪が、風に揺れる。

 彼はふと、遠くの演習場の方角を見つめた。


「リオ? どうしたの?」

「い、いえ! なんでもありません! ……あ、エルマーさん、それ、僕が運びます!」


 温室の隅で、巨大な魔石の樽を軽々と担いでいたエルマーが、黙って首を振った。

 彼は一言も喋らない。けれど、そのゲオルギウスを彷彿とさせる、筋骨隆々とした背中が、周囲の生徒たちに奇妙な安心感を与えていた。

 エルマーはただ、テオドールが帰ってきた時に腹一杯食べられるようにと、黙々とパン工房の薪割りを手伝っていたのだ。


 石英クラス全体が、一つの「爆発」を待っていた。

 帝国の正解が、パン屋の熱風によって焼き払われる、その歴史的な瞬間を。


お読みいただき、ありがとうございました!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ