24.狂信者の絵
アレクシアが魔導工学科の扉を破壊していた一方、その頃。
帝立学園、帝王学科特別採点室。そこには、数十年にわたり「高潔な統治」を教えてきた老教授の、震える指先があった。
「……これは、何だ。これは本当に、我が校の生徒が書いたものか?」
老教授が手にしていたのは、中間考査におけるギルバート・ヴァンデルハイムの解答用紙だ。整然とした美しい筆致とは裏腹に、そこには悪魔のような文章が記されている。
三問目の回答を読んだところで、教授は突然顔を背けて嘔吐した。吐瀉物が放物線を描き、採点室の石床を汚す。
教授は顔を歪ませて立ち上がると、涙を浮かべた眦を拭い、逃げるように採点室を飛び出したのだった。
◇◇◇
「……む、むう……。ギルバートがこの答案を……」
低く、押し殺したような声が室内に響く。
騎士科の指導主任ラインハルトである。学園の武徳の象徴。己にも他人にも厳しい、高潔な男だ。彼は、才能の差に苦しむ長男ギルバートと、その才故に疎まれていた次男ラファエルとの軋轢を、以前から深く案じていた。
数週間前、彼はラファエルに寮暮らしを勧めた。家という密室から離すことで、兄弟の衝突を回避させようという親心に似た配慮だった。しかしその後、彼の元には耳を疑うような噂が届いた。
――ラファエルとギルバートが、決闘の末に和解した、というのである。
(あまりに急すぎる。あの、水と油のような兄弟が、どうやって……?)
釈然としないラインハルトは、事の真相を確かめるべく、演習を終えたばかりのラファエルを直接呼び出した。
そして、彼の目の前に現れたラファエルの様子は――
『和解、ですか? はい。……兄上は、あの日、私の至らなさを教えてくださいました』
穏やかに、しかしどこか憑き物が落ちたような顔で語るラファエル。
だが、その瞳には、かつての「完璧な優等生」としての輝きではなく、もっと熱っぽく、底知れない情熱の炎が宿っていた。
『兄上も、少しずつ、私に話しかけてくださる事が増えました。まだ、本当の兄弟のようにとは行きませんが。昨日も、私の苦手な貴族名鑑の覚え方をご教示頂きました』
『そ、そうか……そうか。うむ、本当に、良かった』
ラインハルトは言葉を詰まらせた。微笑むラファエルの口から語られるのは、あまりにも優しい情景だ。深く安堵したラインハルトは、然し、ラファエルの目を見て言い知れぬ違和感を覚えた。
『すべては、アレクシア殿下のおかげです。……ラインハルト殿。私は決めました。この命、この剣。生涯のすべてを殿下に捧げるつもりです。彼女の歩む道に、一片の曇りもあってはならない。そのためならば、私は……』
『ま、待て、ラファエル。殿下への忠誠は素晴らしいが、その……少し、飛躍しすぎてはいないか?』
『―― 飛躍?』
ラファエルがことりと首を傾げた。どうやら微笑もうとしたようだった。
ラインハルトはぞっとした。
ラファエルの眼には何も映っていなかった。
誠実で凛々しいその顔に、不意に兆した無関心。前衛的な絵画を見て『理解できない』と諦めるような、拒絶の表情だった。
『何か、おかしいでしょうか?私は、アレクシア殿下に救って頂いたのです。ならば、私の命を殿下に捧げるのは道理。あの日、それが理解できたのです。その機会を授けてくださった神に、心より感謝しております』
騎士の誓いではなかった。狂信者の告白だ。
兄弟は和解した。最悪の結末は回避された筈だ。だが、このラファエルの様子は……。
―― ラインハルトの背を、冷たい汗が流れ落ちるのだった。
◇◇◇
(……ラファエルが前向きになったのなら、それで良い。……そう自分に言い聞かせてきたのだが)
ラインハルトは今、騎士科の採点室に持ち込まれたギルバートの解答用紙を握りしめ、強烈な目眩に襲われていた。
そこに「苦しみつつも優等生ではあった」ギルバートの面影は微塵もない。
血腥い、冷徹極まりない最適解が並んでいた。
「……退学どころではないぞ、ギルバート。こんな回答、もし帝国の法務官が目にすれば、お前は……」
教育者として彼は絶望した。
高潔な騎士道が、名門ヴァンデルハイム家から失われようとしている。
その犯人が第五皇女アレクシアという事になれば。
この先どれほどの貴族たちが、彼女の光に焼かれるというのだろうか。
◇◇◇
「――よう。 相変わらずひっでぇ顔色だな、ラインハルト主任」
「シグルド卿……」
いつの間に入ってきたのか。
シグルドはラインハルトの震える手から解答用紙をひったくるように奪い取ると、そこに記された「下種な数式」を眺めて愉快そうに喉を鳴らした。
「四の五の言わずに喜んでやれよ。最高じゃねえか!ギルバートはあの日、ラファエルに完膚なきまでに負けたことで、ようやく汚ねぇ蛹から羽化したんだよ」
「……羽化、だと? これが、君の言う教育の成果なのか、シグルド卿!」
「ああ、最高だろ? ラファエルは『ヴァンデルハイムの正しき立場』を手に入れ、ギルバートは『泥の中で生きる自由』を手に入れたって訳だ。二人とも、良かったよなぁ ―― “アレクシア”に出会えて」
シグルドは解答用紙を懐に仕舞い込み、絶望するラインハルトの肩を馴れ馴れしく叩いた。彼が、「アレクシア」という言葉を発した時に匂った形容しがたい愉悦を感じ ―― ラインハルトは吐き気を覚えた。
「面白ぇよなあ。十年近くも憎しみ合って、骨肉の争いをしていた男どもが、一人の女に救われたって右往左往しやがるんだ。高潔だとか誇りとか言う、しょうもねえお題目を唱えたところで、雄の欲望には逆らえねえって学んだ訳だろう?」
「……卿と言えど、それ以上の発言は控えてもらおう」
「何で? 喜ぶべきだろうが。あいつらはな、ようやく一皮剥けたんだよ。導き手なんだから、生徒が『ムケた事』は喜ぶべきだと思うがねえ」
喉を鳴らしてシグルドが笑う。哄笑が響いた。
―― この男は本当に、鉄の皇帝に連なる者なのか?あまりに下種な振る舞いに、ラインハルトのこめかみに抑えきれない怒りが浮かぶ。
「シグルド!貴様、今すぐ口を噤め!」
「はいはい、すいませんねえ …… ま、主任におかれましては、今すぐ胃薬でも飲んどけよ。これからはもっと忙しくなるんだからな」
シグルドは愉快そうにウィンクをすると、そのまま窓から飛び降りた。
眼下の演習場で、一人静かに木剣を振るう「もう一人の英雄候補」の元へ向かって。
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